日別アーカイブ: 2011年9月1日

死因刻む外人墓碑や青葉冷 前田なな(2011年9月号)

季題は「青葉」。「青葉冷」で立項する歳時記があるかも知れないが、私は知らない。「梅雨」に対して「梅雨寒」の季題がある如く、だんだん暖かくなる季節に、ぐんと冷えて、少々心細い気分になったりすることもある。そんなことを考え合わせると「若葉冷」という言葉にはある実感があると思う。

「外人墓碑」はやや窮した措辞にも見えるが、「外人墓地」にある墓碑と理解すべきであろう。その「外人墓碑」に、「名前」や「死亡年月日」のほかに「死因」が刻んであったというのだ。たとえば日本の墓に共通の要素といえば戒名であり、享年、俗名が彫られていることもある。中には「累代の墓」として扱われ、脇に小さな字で戒名、俗名、享年が刻まれるケースもある。むしろそれが多いかもしれない。

ところが眼前の「外人墓碑」には「死因」まで刻まれている。病死もあろうが不慮の事故、中には「殺された」などというのもありそうだ。本国を遠く離れ、外交や貿易を業として異国に滞在していた「外人」達。不安や怒りの中で命を落とした者も少なくないだろう。そんなことを作者は考えながら「墓碑」の前に佇んでいる。「青葉冷」のさぶさぶした感じと、緑青が噴いているであろう墓碑銘の色合いにも寂しさが漂う。(本井英)

花鳥諷詠心得帖32 三、表現のいろいろ-7- 切字(芭蕉)

「表現のいろいろ」もいよいよ「切字」。

いよいよと言っても「心得帖」。句会の後の立ち話くらいのつもりでお読み頂きたい。
決して一世一代の「切字論」を展開しようというのでは無い。
まあ何時かはそんな論も立てて見たいが。

ところで「切字」は古く連俳の時代から結構やかましく言われ、「や」「かな」「けり」などがその代表的なもの、
一説に十八とも五十五とも数えられる。
句が「切れる」ところが「切れ」で、その「切れ」を明確に表現している助詞・助動詞の類が「切字」ということだ。
「切れる」という事に着目すれば形容詞や動詞の終止形は「切字」の資格ありという事になる。
前回までの「字余り」の話で「切れる」とか「一塊りになる」と言ったのと共通している部分も少なくなく、
「字余り」が音数律に手を加えることによって実現させていた「切れ」をもっと分かり易く助詞や助動詞で
表してしまおうという表現上のテクニックと考えていいだろう。

古来理論好きな連歌師などが「や」についても「切るや」「中のや」「捨てや」「疑いのや」などなどと
分析していったのに対し、芭蕉はそうした論の為の論を好まなかったと見えて「去来抄」中の
「故実篇」にこう言う。
先師曰く、切字に用ふる時は、四十八字皆切字也。用ひざる時は、一字も切字なし
と也

また「三冊子」中の「白雙紙」では、
切字の事、師のいはく。むかしより用ひ来る文字ども用ゆべし。連俳の書に委しくあ
る事なり。切字なくては、ほ句のすがたにあらず、付句の體也。切字を加はへても
付句のすがたある句あり。誠にきれたる句にあらず。又、切字なくても切るゝ句あり。
その分別、切字の第一也。その位は自然としらざれば知りがたし。

「去来抄」の方はそのままのことで判り易いが「三冊子」の方は若干解説が必要かも知れない。
理解のポイントは「ほ句」と「付句」の区別で、「ほ句」は「発句」、即ち連句の最初の一句。
この「発句」が独立して今の「俳句」になった訳だが、江戸時代には連句の方が俳諧師の表芸で、
芭蕉自身も発句だけなら自分より良い句を作る門弟はいるが、こと連句については
自分は他の追随を全く許さないくらいに優れているのだと自負している。

それに対して「付句」は連句で「発句」以外の句。
三十六句仕立ての「歌仙」なら「発句」以外の三十五句のこと。
古来「発句」には「切字」が無くてはならないし、逆に「付句」には「切字」があってはならないとされていた。
つまり「発句」でも「切字」無しで「切れる」場合がある、と言っているわけで、
結果として「去来抄」と同じ発言ということになる。

亀ばかり見てゐる子供藤まつり 良  (泰三)

 八月が終わってしまい、いささかセンチメンタルな気分に陥っている泰三です。

 季題は、「藤」で春。山野に自生しているものは、滝のように山を覆い尽くす野性味に溢れているが、この句の場合は、棚に仕立ててあるもの。藤が咲く時期、立派な棚のある神社などでは藤まつりが行われる。大人達はもちろん、藤の花を楽しむのであるが、連れてこられた子供にとっては花なんて一寸見れば十分である。子供に取ってみれば池の亀の方がよっぽど面白い。

  言われてみれば藤まつりと言っても、真剣に藤を凝視するのは俳人ぐらいで、一般の人は藤というよりも、その雰囲気を楽しむものであろう。子供ならなおさらである。この句は、藤そのものから目線をずらした面白い句だと思った。

主宰近詠(2011年9月号)


素通りす   本井 英

口論の収拾つかず行々子

粟津 義仲寺二句

蟻の道翁の墓を素通りす

蚊の闇にかけつらねあり俳仙図



鎌首をもたげ玉巻く葛ぞこれ

紫陽花や素人塗りに白ペンキ

つぶつぶと肥えていよいよ枇杷の色

花菖蒲へカメラの腰のかがみゆく

釣堀に並べビールの通ひ箱



釣堀やおもむろに解く竿袋

釣堀の手洗ひに吊る網石鹸シャボン

織機の音あふれ出てくる網戸かな

長けぬれば余苗にも志

二羽で来て泥啄ばみてつばくらめ

いたち川木下闇へとさしかかり



花片ハナビラの尖のさみどり浜おもと

どつちから見ても正面立葵

青柿の四角く太りはじめたり

雪渓の駆け込んでゐる樹林かな

雪渓の口のへの字を覗き込む

青蘆を分けきて我をいだく風