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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第20回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

五月晴よく続きたりクラス会
この句の季題は『五月晴』で、鑑賞するときは、今から二月後くらいの気候を鑑賞します。「五月晴」はさつきの晴れ間。さつきというのは、さみだれの月。「さ」は神様のこと。「さつき」は神様の来る月。『早苗』は神様が祝福した苗。「早乙女」は神様に仕える乙女。「さのぼり」は神様が山に上って帰ること。ですから「五月晴」は梅雨の頃の晴れ間。そうやってみると、この句、梅雨の頃にクラス会が設定されていた。たまたまいい日があった。クラス会、明後日だわ。続かないでしょう。と思ったら、三日間続いた。今日のクラス会、とうとう降らなかった。何十年ぶりに会う、そう若くはないご婦人のクラス会という感じがします。着ていくものは、「これでは派手かしら?」などと、いろいろ楽しめて、いい句だと思います。
防風林海に傾く鰆東風
魚偏に春と書いて、「さわら」と言いますが、かますとかバラクーダに近い、割合に獰猛な魚なんですが、斑の入り様が、なだれ模様がいかにも鰆、春の感じですが、そんなに浅いところで獲れる魚ではないんです。そんな大きな海の景色の一角に、防風林が、まあ、防砂林みたいなんでしょうね。なだれているんですから、平らではなくて、急に海に落ち込む防風林で、急に傾いている。そこに強い風が吹いてくる。こんな日は沖から鰆が吹き寄せられてくるんだよなんて、漁師さんが言っているとそんなところだろうと思います。
新しき色おびただし落椿
落椿はほっておくと、どんどん腐ってきて、錆びた色になって、けっこう見苦しい感じがします。ところが、小石川の後楽園とか手入れのいい庭園ですと、まわりに落椿は一つもないです。それでも、一日のうちでも、夕方に来ると、おびただしく落椿が累々とある。そんな特殊な手入れのいい庭園でも、累々とした落椿という感じを私は思いました。
昃りて桜紫めけるかな
元の句、「翳りて」。この字はやっぱり、「かげりて」と読むんだと思いますね。昃は「ひかげる」という字ですね。「昃れば春水のこころ後もどり」(字遣い未確認)という立子先生の句もこの字です。日が翳ってみたら、さっきまでぱんと桜色だった桜が、急にしゅーんと紫色に哀色を帯びた。その瞬間を捉えた句で、なかなか句に馴れた人の句だなあと思って、楽しく拝見した次第です。

採らぬ親切を発揮してしまった人もいましたが、桜の真っ最中で、いい写生句もたくさんあったと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第18回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

文鳥の餌の分だけはこべ摘む
どなたかが「やさしい」と言ってらっしゃいましたが、本当にそうだと思いますね。文鳥の食べる餌なんて、しれていると思いますが、それでも散歩しながらも文鳥を、あるいは犬を猫を、あるいは家族を思う、やさしき人物像が目に浮かぶと思います。「鶏にやる田芹摘みにと来し我ぞ」という高浜虚子の句がありますが、それとも趣きが若干違います。こっちの方が柔らかい感じがするかもしれませんね。あれはちょっと寒い春先の感じの句だと思います。
見えたることなけれども虚子忌かな
いまや見えたる人はほとんどいなくなってしまって、『見えたる人』に見えている時代ですから。もうしばらく経つと「見えたる人」にも見えなくなって、そこで初めて虚子の真価が出るんでしょうね。文学史上になった時に、初めて虚子の価値が残るんだろうと思います。
花衣軽ろく泉をひと巡り
「花衣」は花見の時に着る衣です。何を着たって花衣です。大袈裟に言えば、綿入れを着ていたって、花衣。袷というのは、実は俳句では夏の季題なんですね。今、袷は冬のうちから着ていて、夏になると一重になってしまうんですけれど、昔の人の方が寒かったんでしょうね。綿入れを着ているほうが、普通だったんです。この場合は袷なんでしょうかね。軽々とした着こなしと軽々とした生地、それを着た女の人が、ちょっと泉の回りをぐるっと歩いたというのを見ていたのだろうと思います。あるいは一人称と取ってもいいと思います。
ふうわりと飛行船浮く春の空
いかにも春空ですね。「ふんわりと」でなく「ふうわりと」と言ったところに、ある実感があると思います。あまり近くない、遠くの方なんでしょうね。近くだと、ごーっと音がしたりして、あまり可愛くない。遠くだと可愛いですね。
木蓮が香りて散りて人思ふ
いい句だと思いますね。この句は紫木蓮なのかなと思いますが、外側が紫で、内側がけっこう淡いアイボリー。それが咲き始めると、香ってまいります。それが日がたつと、傷んで来て、花弁が折れて、くずれて、散り始めます。けっこうタイムスパンがあるんですね。その間、あの人、どうしているのかな。気になるな。手紙出してみようかな。」と思っているうちに数日が経った。ふっとあの人のことを思った時に、香っていた木蓮がいまやすっかり散ってしまって、「そうだ。まだあの人に連絡も取っていないんだわ。」といったような、感覚的な心の奥のある写生になっていて、いい句だと思います。久しぶりの方がなかなか。特訓でもしていたのではと思います(笑)。前にも言ったことがありますが、俳句は作っていなくても、うまくなります。作っていてもうまくなります。何故かというと、その間に季題とたくさん接しているから。人間は季題と接していれば、作っていなくとも、かならず俳句はうまくなりますから、少々休んでも、自信を持って、お作りいただきたいと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第17回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

椿餅薄紅色に虚子忌かな
虚子の戒名が「虚子庵高吟椿寿居士」、お年をとって、椿が好きだったということです。そこで椿餅と言われると、なるほど虚子忌にふさわしいなという感じがしなくもありません。ちなみに私が使った「惜春忌」というのは、ほとんどの人が知りませんが、虚子の別号で「惜春居」という名前があります。意外と早くから使っていたということが、最近わかったんですが、「惜春居」という落款もあるんですね。「虚子忌」を「惜春忌」ということも許されると私は信じております。
花人の登城のごとく田安門
これは人気ありましたですね。今日はもう引っかかってしまって、登城できないですけれど、朝桜の頃で、ちょうど登城の時刻があります。えらいお侍だと、裃を着けてそのまま上がっていけばいい。中級以下のお侍だと腰に弁当をぶら下げて、これを腰弁という。腰弁組というのは、下級の旗本みたいなのが、城内でお弁当が出ない。この場合は登城のごとくというのだから、郎党を連れて、家来を連れて、裃を着けたちょっと偉そうな旗本のような感じがいたします。もっと偉いと、駕篭に乗って行ってしまうから見えないですから、微妙な階級ですね。本当にあったかどうか知りませんが…。ちょっと外股に、ゆっくり肩を揺すぶっていく、そんな益荒男ぶりの歩き方が描かれて、面白いと思いました。
常州の三代の碑の虚子忌なり
常州は常陸の国。常州三代は、僕はよく知りません。まあ、常州を治めた殿様が三代いたとかいうことだと思います。それも治世がよかったんでしょうね。その碑の前に立って、「あー、そういうこともあるんだ。偉い人っていたもんだな。」と思ったら、「今日は四月の八日で、虚子忌でもあったのだわい。」そういう句だと思います。いかにも春闌、さすがに常陸の国も、暖かくなっているという余韻がこの句にはあろうかと思います。
桃の門手押車の出で来たる
手押車が猫車のような、一輪車のようなことだと思うんですが、桃がたっぷり咲いた大きな百姓家の門があって、その門から突然手押車がぱんと出てきた。いかにも大きなお百姓だけれども、細かい日々の農作業もしてをるのだという感じで、健全な田舎の大百姓の姿が見えてくると思います。
すき込まれ首もたげたる花菜かな
元の句、「菜種かな」。稔って、油を絞るばかりなのが「菜種」。その時にすき込むのは何だろうということになってしまいます。すき込むと油が取れなくなってしまいますから。そうなると、花菜。これは土質改良の為にそういうのを播くことがあります。向日葵だけ播いておいて、それをすき込んで、次に何か入れるとか、よくあります。この場合には、花菜を植えておいて、それをすき込んで、栄養にしようということです。菜種ではなくて、花菜。ざくざくざくとやったら、首をもたげている菜の花があったということですね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第13回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

地蟲出て相も変らず人愚か
虚子先生みたいな句ですね。「蛇穴を出てみれば周の天下なり」という「五百句」にでてくる句がありますが、あれと同じ境地でしょうね。年々歳々、毎年毎年、地蟲は出て来ては、半年以上地中に過ごして、また死んだり、穴へ入ったりする。また春になって地蟲が出てきてみると、「おい、相変わらず人間ていうのは、馬鹿なことをやっているね。」という、大自然の大きな営みの中での、さざ波のような人間の愚かな様々の日々が見えてきて、先生のお作りになるような句だなと感心しました。
廃校の決められてゐて開花かな
これ、面白いですね。人間が出たり入ったりして、過疎になったりする。そして、廃校になることが決まっている。その校庭の庭には、今年も去年のように桜の花が咲いたよ。というんだけれど、「(前略)桜かな」ではなくて、「開花かな」。ちょっと面白い、ある新しみがあって、面白いと思いましたね。勿論、花は桜の花です。
寺庇焦げよとばかり修二会の火
これもいいですね。こうやって、連想から句に仕立てあげる力というのは、なかなか大事です。そうやって作る力を鍛えていくことで、嘱目の時にぐんと深くなるので、大事です。しかも「焦げよとばかり」という持っていき方がいいと思いますよ。
友としてかつぎし棺春の雪
棺は柩という字があるんだけれど、どちらがいいんでしょうね。柩をかつぐ人数はせいぜい六人、息子や甥とか。ひじょうに特別な友人で、ぜひかついで下さいと家族達にも言われる。そういう間柄だった。そういう感じがよくわかって、春の雪の淡い悲しさも一段と。特別のやつだったのにな。向こうの家族も俺を特別と思っていた。そういう人なんだということがよくわかって、こういう句を見ると、俳句は散文よりも深いことを言えるという気がしますね。
湯気立てる白アスパラのしたり顔
この句を採るか採らないか、悩んだんですが、この句を読んで、鼻のところに茹で上がった白アスパラのにおいがしたんで、採りました。最近は日本でも、白アスパラがよく出てくるけれど、昔は缶詰しか出てこなかった。フランスに行くとアスパラガスの季節が決まっていて、突然パリ中のマルシェに白いアスパラガスが出てくる。マルシェの金物屋さんに円筒形の白いアスパラガスを蒸す鍋が出てくる。季節感そのもの。うまく茹で上げられたばかりのアスパラ、それを茹で上げた主人はやったーという気持ちがして、茹で上げられたアスパラガスはやられたという、したり顔をしている。日本だと食べたいものがあると、二月、三月前から出るけれど、あの国の人は出るまでじっと待っている。いかにもこれだという気がしていただきました。
白梅に肩をいからせ烏をり
この句、面白いですね。何で烏が肩をいからせるか、わからないんだけれど、見ていたら、烏が妙に好戦的というか、威張りまくって「寄るな。」と言っているような、そんな烏の感じが白梅でいっそうその黒さが強調されて面白いと思っていただいた次第です。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第12回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

指ほどのアスパラガスの青さかな
これはうまい句で、アスパラがちょうどぽっと出た瞬間を詠み取った句だと思うんですが、元の句の「拇指」と書いて、「ゆび」という、実際には出た瞬間はもっと細い。だから普通の字使いの「指」となさった方がよいと思いますね。アスパラは多年草だから、十年くらい植え替えないで、何度も収穫できるんですね。
お水取練行僧のひた走り
NHK特集という感じでいいですね。やはり俳句は題詠と嘱目と両輪です。どっちもやらないと駄目です。こういう句と出会うと、題詠を出しておいてよかったなと思います。この句が上等かというと、それほど上等でもない。作り方は正しいんですね。芭蕉さんも似たような句を作っている。「韃靼僧の沓の音」というのが…。 二月堂は丘の方にある。二月堂の内陣に十一面観音が祀ってある。その奥で、十一人の練行衆が荒行をする。その間に木を打ち付けた、すごい音のする草履みたいなもので、かけずり回ったりする。この十一面観音を祀って、国土安泰、国家護持を祈る。それと同時に、お水取ということばの由来は、お水、閼伽水を汲むんですね。その下にある、若狭井から汲む。この若狭の井戸というのでわかるように、若狭の国から水を送って、地下水道を通って、二月堂に水が出る。若狭小浜の神宮寺の境内に湧く水を遠敷川(おにゅうがわ)の鵜の瀬から若狭井に流す。若狭湾に常世の国から寄せてきた常世波が地下水道を通って、若狭井へ出てくる。というお約束。新年のお水(若水)と同じ。水を十一面観音様に捧げるという行事なんですね。神道と仏教がめちゃめちゃに入り組んで、どこか日本の古い常世の国からのメッセージが、この国を守るという奥底の行事がお水取の行事です。お水取は夜中の二時か三時で誰も見ていない。お水取というのは、行事としては火の行事で、火の粉ばっかり目立つんですが…。そういうことを、題詠で作っておいて、いつか見にいらっしゃると、嘱目でできます。嘱目で見た句と、題詠で作った自分と、相乗効果で写生が進むとすばらしいと思います。そういう意味で、この句は採るに足りる句だったと思います。
ビルの脇を朝日上り来梅の花
あまり人気がなかったけれど、僕はこの句好きですね。都会の春先という感じがしますね。高いビルがあって、その脇に日が上っていて、ちょうどそのビルに沿った形で上ろうとしている。そのビルの谷間のちょっと広くなった所に、いかにもとって付けたように、梅の木が植えてあって、けなげに梅の花が咲いてをった。東京の街はビルが高くなればなるほど、ビルの裾野に空き地が多くなって、わざとらしい公園になって、木が植えてありますね。僕はそんな所にある梅の花を想像しました。鑑賞としては、そんなものが感ぜられて、それでも、東京にはちゃんと春が来たという句だろうと思います。
お水取の火の粉に人の波揺るる
これもテレビなどでご覧になって作った句で、けっこうなんですけれど、元の句「お水取火の粉に(後略)」では、ぱちっぱちっと出来ていて、嘘っぽくなってしまう。「お水取」と言うと、お水取を置いておいて、もう一度「火の粉」が出てくる。「お水取の火の粉」というと、棹の先に火の粉がバーっと散っている、そこまで一気に見えてくる。字余りというのは、こうやって効果的に使うのを覚えておおきになるとよかろうと思いますね。
谷底に湯治場のあり山笑ふ
いかにもありそうで、気持ちのいい句ですね。俳句は人の詠まない新しいところを作ってやろうとするより大事なのは、いかにも共感できる気持ちのいい句。湯治場の山だけ見えている。山だけぽこっと見えていて、「あの山だね。行ったことある。」などと話をしながら、見下ろしている人がいる。