今日は、夏潮土曜吟行会がありました。等々力渓谷、等々力不動尊などを吟行しました。今日は厳しい残暑でしたが、渓流沿いは日陰で水の流れもあって涼やかでした。ただし、蚊が多かったです。蚊に追われてたどり着いた公園でひとり俳句を詠んでいました。
風起こりやがてつくつくぼふしかな かおる
句会終了後、二子玉川までバスで出て、食事をしました。
土曜吟行会、次回は10月8日(土)、牛天神、伝通院界隈を吟行します。
「なり」はやや面倒臭い。
つまり「なり」と言っても断定の助動詞「なり」があり、推量(専ら音声的)の助動詞「なり」があり、 形容動詞の活用語尾の「なり」もある。 どの場合でも「なり」と切れて使われていれば「切れ字」には違いないのだが、 よく見ると「切れ方」に若干の強弱はある。
まず『五百句』中、断定の「なり」。
縄朽ちて水鶏叩けばあく戸なり 虚子
蛇穴を出て見れば周の天下なり 々
村の名も法隆寺なり麦を蒔く 々
蜥蜴以下啓蟄の虫くさぐさなり 々
浦安の子は裸なり蘆の花 々
これらは「名詞」プラス「断定のなり」の例。 「断定のなり」は珍しいことに「体言(名詞)」に接続する。 まあ現代語で言うなら「…だ」、「…なのだ」と言う感じ。
つまり水鶏の句で言えば、裏木戸を縛ってある縄もすっかり腐ってしまって、 遠くで水鶏が啼いた程度の刺激でも開いてしまうような、そんな「戸なのだ」、となる。 次の句でも、蛇が長い冬眠から覚めてみたら、いつの間にか、すっかり世間は「周の天下なのだ」となる。
さらにこの「なり」、下五より中七の句末に置いてある方が印象が鮮明で、
村の名も法隆寺なり麦を蒔く 虚子
浦安の子は裸なり蘆の花 々
など一句の興味・中心は寧ろ中七に傾いているのではと思わせるだけ「切れ」の効果がある。
次に推量の「なり」の例としては、
書中古人に会す妻が炭ひく音すなり 虚子
がある。 「なり」は「めり」と対応する推量の助動詞で「めり」が視覚的根拠に依るのに対して 「なり」は聴覚的根拠による。 「古人」の句でも主人公は閑かに書斎で読書三昧に耽っている。 ふと現実に戻った耳に炭を引く音が聞こえる。その音を「妻」だな、と推量している訳だ。 この「なり」の方が「切れ」としては柔らかい。
最後に形容動詞の「なり」。
盗んだる案山子の笠に雨急なり 虚子
旧城市柳絮とぶことしきりなり 々
山寺の古文書も無く長閑なり 々
形容動詞という文法単位が果たして絶対的な物なのかどうか、やや疑問も残るが、 これらは意味的に「切れる」というより音声的に決着を付けている、という感じだ。 文法的には本来無関係な筈の「詠嘆」といったニュアンスまで感じさせるのはどういう訳であろうか、 まだまだ解明しなければならない部分は多い。
【中本真人句集『庭燎』】 ふらんす堂
「慶大俳句」出身で、「山茶花」飛天集同人の中本真人(1981年生)の第一句集。
氏は奈良県の高校を卒業後上京し、平成13年4月に「慶大俳句」へ入会。俳句と出会い、翌平成14年に「山茶花」に入会。平成16年に「第一回鬼貫青春俳句大賞」を受賞。一昨年発売の『新撰21』でも、伝統俳句陣営の代表として参加、高い評価を得ている。
学究の徒として国文学で古代中世芸能を専門とし、神楽など伝統芸能への造詣は深く、本句集のタイトルを初めとし、句集の中に数々その「知識」が現れている。
古代民俗芸能への深い傾倒は、「慶大俳句」の一つの伝統とも言うべきものであり、折口信夫―池田弥三郎―清崎敏郎を経て、彼の絶対的な師である三村純也に強く伝わっている。勿論、我々「夏潮」主宰本井英にも連なっておる大事な要素。そこに人々の暮らしや祈りが積み上がってきている点で、「季題」との親和性も深い。特に彼の場合は、自分が属している学問の世界、「知性」に高いプライドを持っていると考えられる。それは、専門の世界の神楽の俳句を見ると分る。
その一方で、この句集の特徴をなす、人々の「あられもない」喜怒哀楽を俳句と言う詩形で描き出す句のギャップ。もしかすると、対象を突き放したようでいて、彼は自分の「人間臭さ」を俳句を詠むことで表そうとしているのではないか。
野心のある若人の句集、楽しませて頂きました。
●欠点の子らを集めし夜学の灯 真人
教育実習6句 と前書。季題は「夜学」。作者が教育実習で行った光景でしょう。 昨今は「長所を伸ばす」ことばかり言われますが、教育・指導の役割では「欠点を指摘し直す」というのは不可欠であると思います。作者は頭で理解した教育理論を教育実習という「初めての現場」で試行錯誤しながら対応。「欠点」で甘い情を拝し客観的な句となり、「夜学の灯」というノスタルジックを醸し出す季題で暖かい雰囲気の一句に仕上げた。悩みながら手探りで教えている自分と、悩みながら学んでいる生徒を窓の外からの第三者の視点で詠んだのが功を奏した。
これは、また彼の句の詠み方の一つ。
●島に着く物資に燕舞ひにけり 真人
沖縄7句 と前書。季題は「燕」。どこの島でもよいが物資の輸送は船に頼っている。その船がある島の港湾に着き荷卸しをすべく、フォークリフトなどが接近。その上を燕が自由に回っている。直線的な飛び方をする燕が舞い回っている。その燕らはきっと島に櫛比している家並みの軒先を借りて生活している。一足先に島に物資が届いたことを燕らが、言祝いでいるように感じられる。
●両膝をついて降参追儺鬼 真人
季題は「追儺鬼」。 「追儺鬼」は節分の鬼を指します。徹底して豆をぶつけられて追われる役ですが、最後はこれまた徹底して両膝をついて降参した。一見馬鹿馬鹿しい様なくですが、こうやって俳句形式で描かれるとまた不思議な面白さがある。如何にも大げさに降参していると言う感じが伝わってくる。俳句の詩形を活かした「旨味」のようなものが滲んでいる一句。
●炭竃を尻から這うて出て来たる 真人
季題は「炭」。炭の竃から人が出入りする際は、狭い口から体をねじ込んで入っていく。 この句は出てくる様を斯く言う風に詠んだ。当たり前の光景を当たり前のように五七五に切り取り滑稽味が感じられる。人間の生きている様と言うのは、実は滑稽の連続なんではないでしょうか。氏の場合は、それを気取らず、照れず、恥らわず その生身の人間の一面を俳句十七文字で切り取る。ただし滑稽味ばかりではなく、季題と定型と言う「ブレーキ」を用いることで、月並俳句や理屈に落ちる寸前で「詩」としての「純度」を保っているのではないでしょうか。
以下、印をつけた句を紹介します。
Ⅰ.紀ノ川(平成13年~16年)
バーベキューソースの中の落花かな
どやどやと遍路入り来る湯船かな
兼題をメールで送る子規忌かな
競泳のぶつきぎりなる拳挙げ
Ⅱ.夜桜(平成17年~18年)
夜桜を見回りの灯のよぎりけり
峰入に奈良交通のバスが着く
人生に就職の二字秋深し
遠足を離れて教師煙草吸ふ
おでん屋の端数引かれし請求書
Ⅲ.指輪(平成19年~20年)
受験子のペン先宙に何か書く
神楽の山盛りの炭使ひ切る
毒茸怒鳴られながら捨てにゆく
御神楽の庭燎の太き薪かな
Ⅳ.漆掻(平成21年)
傀儡のぺたりと倒れすぐ起きる
涅槃通夜勤め上げたる額光る
落第の一人の異議もなく決まる
遊船に椅子を重ねて運び込む
ぼろ市の警備詰所も露店めき
Ⅴ.鉾立(平成22年)
壺焼の吹きこぼれをるバターかな
草笛となるまで草を替へにけり
鉾立のすれすれにバス通りゆく
★ふらんす堂のHP
http://furansudo.ocnk.net/product/1731
〆