ぼうたんの散るごとに身を軽うする   田中 香

 季題は「ぼうたん」、「牡丹」(夏)である。中国で「牡丹」は「花の王」、「獣の王」である「獅子」と好一対をなし「牡丹に唐獅子」というコンビを組んでいる。舞踊の「石橋」のような獅子の働く舞台には必ず「牡丹」が副えられるのはそのせいである。

 幾重にも花弁を畳み込んで咲き始めた「牡丹」。その「牡丹」の花弁も徐々に緩み始め、ついにはハラリ、ハラリと花弁を脱ぐ。その様子を作者は「身を軽くする」と見てとった。一枚一枚散り墜ちて行く花弁を、只々惜しむのではなく、「身を軽くする」と、肯定的に表現したのである。勿論「肯定」と言ってもさばさばとした諦観に通じるもので、その辺りに「生きる」ということの本質を垣間見させてくれる。「軽う」のウ音便も全体の柔らかい表現に叶っている。 (本井 英)

平日を子どもと過ごす桜餅    永田泰三

 季題は「桜餅」。関東風の小麦粉をうすく焼いた物と関西風の道明寺粉で作る物があるが、近年はどちらもよく出回っている。東京では墨東長命寺のそれが、別格官幣大社のごとく大切にされている。どんな理由があったのかは分からないものの、本来家居をすることの極めて少ない、その家の主人と、これまた平日は学校に通って居るはずの子どもが、朝から家でごろごろしていた午後、気を利かせた主婦が買い物の序でにでも「桜餅」を買ってきて、家族皆で喰ったというのである。「こんなことって、珍しいねえ」などと言い合いながら、音をたてて茶を啜ったりもしたことであろう。そんなポンと現れた「現実」のなかでの団欒が面白い。

 こう解説してくると、この春の所謂「コロナ禍」を言っているのですよ、という解説をする人が現れるであろう。たしかに一句が詠まれたきっかけはそんな処であろうと思う。しかし、「コロナ禍」を説明するための句であると考えては「つまらない」。それでは只の謎解き「はんじもの」である。それはそうかもしれないけれど、味わうべきは「桜餅」のあの柔らかい色合いと甘みと感触と、珍しい状況を楽しんでいる、「家族の静けさ」である。 (本井 英)

伝へばや二人の桜咲き初むと 牧野伴枝

 季題は「桜」。一句の鑑賞のポイントは「二人の桜」。「二人で買った桜」、「二人で植えた桜」、「二人の想い出の桜」などなど。解釈はさまざま。ともかく「二人の桜」と言うだけで、少なくとも当の「二人」には判る「そんな桜」があるのだ。ちょっと「甘い」表現なので、他人様には聞かせられないが、毎年その時期になると「二人」はその桜の咲くことが、何よりも楽しみだったのだろう。「伝へばや」は「伝えたいものだ」の謂い。ということは「二人」のうちの「一人(すなわち相手)」は、今「二人の桜」の咲いていることを知らずにいるということになる。そして「その人」がとても遠くにいるらしいこと、現代的に喩えるならスマホで撮った画像さえ届かない「遠隔の地」にいるのではないかとの解釈が自ずから見えてくる。「幽明境を異にする」とも言う。筆者に〈笹子来てをるよと告げむ人もがな〉という句がある。何かにつけて「思い出す」という辛い日々とお察しする。(本井 英)

涅槃図を展じ校内清閑と  前田なな

 季題は「涅槃図」。旧暦二月十五日は釈尊が入滅した日。各寺院では「涅槃図」を掲げ「涅槃会」を営む。「涅槃図」の多くはその中央に釈尊入滅の姿を描き、それを取り囲んで羅漢達が嘆き、さらに禽獣が悲しむ図となっている。

 その「涅槃図」を校内に掲げているということは、宗教的な色彩の強い学校で、教育方針の根幹に「仏の道」を据え、日々心の涵養を説く活動を実践しているものと思われる。あるいは理事者・教職員の中に僧形の方々が立ち混じっておられるのかも知れない。

 そんな学園の中心的な場所に、今年も「涅槃図」が掲げられる時期がやってきて、寒さの極みということも手伝って、そのあたり一帯が「清閑」としているというのである。

 学校というと若い人が集っている状況から活発な喚声を連想しがちだが、こうした静けさを思うと不思議な安らぎを感ずる。これも「涅槃」という季題の側面なのであろう。(本井 英)

日の落ちて喪中の友へ初電話   小林一泊

 季題は「初電話」。電話が世間で普及して、「年賀状」に倣うようなかたちで、年始の挨拶を「電話」で交わすというような、一寸洒落た気分が漂っていた時代もあった。立子先生に〈初電話ありぬ果して父の声〉という句もある。時代は移って今は「メール」や「ライン」というのがかつての電話に成り代わっているようだ。

 さて一句は、ある友人について今年は「喪中」であるために年賀状を交わすこともない。しかし、どうしているだろうか。親御さんを亡くされたのか、はたまた連れ合いか、この句からでは判らないものの、作者は友人の淋しさを思いやっている。そこで思い立って夕刻過ぎに電話をしたのである。一句の味わいどころは「日の落ちて」。新年の日射しの中では、どこか晴れ晴れとした気分が先に立ってしまって、「喪中」の家への電話は憚られたのであろう。元日の持つ「ハレ」の気分の裏側を見事に捉えた句になった。(本井 英)