残りページ気にしつつ読む良夜かな  馬場紘二

 季題は「良夜」。名月がくまなく照らす夜のこと。作者は今、読書中。読み始めはやや難渋しながら読んだ本が途中から興が乗って、どんどんページが進み、当初予想していた時間よりも早く読了しそうな様子を想像した。昼間から心設けしていたことだが、今宵は仲秋の名月。天気予報では晴れて全国的に「お月見日和」とのこと。いま読んでいる書物は、何処かで中断して夜はゆっくり「月見を」と考えていた作者だが、思わず読書のペースが上がり、この分では読み終えてから「月見」が出来そうに思えてきたのであろう。家人の話では「月」は、もう大分高く上がっているらしい。中断するか、読了するか、そんな気持ちで、ときどき「残りページ」を気にしている作者の姿が想像できた。作者が「轟亭の小人閑居日記」で有名な読書家であることを考え合わせると、いかにも静かで知的な時間が流れていることも感じられる。 (本井 英)

遡る波を見てをり橋涼み  山内裕子

 季題は「橋涼み」。虚子には〈橋涼み笛ふく人をとりまきぬ〉という印象的な句がある。「納涼」の句には一見にぎにぎしく見えながらも、どこか静かで、ときに淋しさを伴うことが多い。この句にもそうした静かな淋しさが漂う。ところで川面に立つ「波」にはおよそ三種類の「波」が考えられよう。一つは上流から流れ下るときに川底の形状などによって波状となるもの。「川波」と言えば普通このことだ。ところが河口付近では海の影響から、干満に伴うものや沖のうねりが河面にまで及ぶことがある。また上流下流を問わず、静水域では「風」の影響で風上から風下にかけて川水が波状をなす。これも立派に「波」だ。一句の状況は「遡る波」というのであるから河口近くの「うねり」の影響か、あるいは「風波」のことであろう。  なかなか収まらない夕凪の暑さを忘れる為に川畔までやって来た作者。「橋」の上まで出て、見下ろした河口近くの川面は海の方面からの「風」で細かいさざ波を立てている。その細かい川波は上流へ上流へと畳み止まないというのである。じっと「川波」を見ているうちに、少し淋しくなってきた作者かもしれない。(本井 英)

語りたき人の少なし端居して   岩本桂子

 季題は「端居」。夏の季題である。俳句を始めたばかりの頃、この「端居」という季題に出会って、腰が抜けるほどビックリした。そんな「何でもない」ような振る舞いや、状態が季節を表すなんて、思いもしなかったことだから。

 ともかく「端居」という季題には「ある気分」というものがある。この句もよく読むと、しみじみとした淋しさの中で一人、記憶の中の人々と語り合っている。すでにこの世にいない人々との話は尽きないのだが、今、この世に生きている人の中に「語りたき人」は洵に少ないのである。そこには自らの「老」を詠まれながらも毅然とした姿が見えてくる。私は、ふと「百人一首」の「誰をかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」(藤原興風)を思い出した。興風の和歌は「あの高砂の松だって、俺に取っちゃあ、昔からのダチという訳でもねえんだよ」と大袈裟に面白がっているが、共に語る相手の少なくなった「寂寥感」はいかほどのものであろうか。しかしこの作者にとっては、それを「俳句」に詠まれたことで一種のカタルシスを得られたとも言えようか。(本井 英)

利根川の夜明けを告げて行々子  北村武子

 季題は「行々子」、「葭切」である。南方から渡来する夏鳥で、「ギョギョ、ギョギョ」と大声で叫き立てながら、水辺を移動してまわる。「利根川」は坂東太郎の異名を持つ関東の大河。滔々たる流れのあちこちに、豊かに広がる芦原を従えている。早朝、その一角で「行々子」が囀りを始め、そんな頃、東の空は明るみ始め、「利根川」の今日が始まろうとしているのである。

 一句は「明易」の河辺の景を描いて気持ちの良い句であるが、それは作者の心の張りが、緊密な措辞と朗々たる声調となって詠われているからである。(本井 英)

ぼうたんの散るごとに身を軽うする   田中 香

 季題は「ぼうたん」、「牡丹」(夏)である。中国で「牡丹」は「花の王」、「獣の王」である「獅子」と好一対をなし「牡丹に唐獅子」というコンビを組んでいる。舞踊の「石橋」のような獅子の働く舞台には必ず「牡丹」が副えられるのはそのせいである。

 幾重にも花弁を畳み込んで咲き始めた「牡丹」。その「牡丹」の花弁も徐々に緩み始め、ついにはハラリ、ハラリと花弁を脱ぐ。その様子を作者は「身を軽くする」と見てとった。一枚一枚散り墜ちて行く花弁を、只々惜しむのではなく、「身を軽くする」と、肯定的に表現したのである。勿論「肯定」と言ってもさばさばとした諦観に通じるもので、その辺りに「生きる」ということの本質を垣間見させてくれる。「軽う」のウ音便も全体の柔らかい表現に叶っている。 (本井 英)