潮騒を聴きながら(雑詠句評)」カテゴリーアーカイブ

片づけの手際よきこと里祭  矢沢六平

 季題は「里祭」、「秋祭」、「村祭」とも呼び、秋の季題である。「祭」が夏のもの、都会のものであるのに対して言う。村の顔見知りだけで執り行い、祭客とて大して集まるわけでもないものではあるが、それなりのクライマックスはあって、神輿の渡御なども無事終了。その後は粛々と各員「持ち場」を「片付け」て行く。その行動がまことに「手際」がよく、あっと言う間に「祭」以前の状態に復していったというのである。各地の「夏祭」の多くが観光という側面を意識したイベントになりつつあるのに好対照をなしていることに気づいた一句である。都会で育ち、現代そのものを生きてきた作者が、一転、地方の生活に身を委ねて年月を過ごし、至りついた知恵が見つけてくれた「一場面」であったと言えよう。(本井 英)

妻逝きて物音しない夜長かな  田中金太郎

 季題は「夜長」。代表的な秋の季題だが、「夜学」、「夜業」などの季題から考えても、物理的な「夜」の長さを、前向きに捉えた同系季題が少なくない。落ち着いた「静かさ」を肯定的に考えたものが基本なのであろう。しかし、この句の場合はそうでも無い。一つの「家」という空間に二人で暮らしていた頃には、何気なく耳にしていた「妻のたてる音」を安心の「糧」としていた。その「物音」がプッツリと喪失された。居たたまれないような「不安」が、「夜長」という季題の中に充満している。その耐え難さはご本人以外には、なかなか想像が及ばない。もう一つ、この句の特徴は口語である。普通の文語文脈なら、「物音のせぬ」あるいは「物音もせぬ」とあるべきところだが、作者は敢えて「物音しない」と表現した。一見、不束な表現にも見えるが、実際に音に出して読んでみると、そこに何とも若干の「甘み」を含む「悲しみ」がゆらめいてくる。そこにこそ「妻」への、切ない思いが、感ぜられる。(本井 英)

八月や深き疲れに眼閉ぢ  児玉和子

 季題は「八月」。勿論新暦の「八月」であろう。筆者にも『八月』という句集があるが、八月の上旬には「立秋」という厳然たる「秋」の到来はあるものの、「暑さ」はますます猛威を奮う時節であり、さらに近代の日本人にとって決して忘れることのできない「広島」・「長崎」の原爆投下、さらには「終戦記念日」もある。あるいは本来なら「七月十五日」という日付けの「盆」も、さまざまの経緯から一ヵ月遅れの「八月十五日」を中心に執り行われるのが現実である。となれば彼岸の人達との交流もおよそこの頃のこと。そんな「含蓄」の深く籠められた「八月」に作者は「深き疲れ」に襲われ、「眼コ」を「閉じる」という情況にある、というのである。それ以上のことにこの句は触れていない。それが、どのような「疲れ」なのか、さらにはどのような「情況」によってもたらされたのか。一切不明である。しかし、その「深き疲れ」にじっと「眼コ」を「閉づ」状態の自らをじっと感じている作者本人の思いは、自ずから滲み出て来る。さらにそうした「思い」が自分だけのものでは無いのだということを、了解しての一句である。(本井 英)

掬はれて名前を貰ひ屑金魚  村田うさぎ

 「金魚」は夏の季題。大きさも値段も「ピンキリ」で「蘭鋳」などとなると一尾何万円もするらしい。一方、金魚掬い用の安物はまさに「屑金魚」、もっとひどいのになると他の動物や魚の為の「生き餌」として売り買いされるものもあるらしい。さて本句の「屑金魚」は「掬はれて」とあるように「金魚掬い」のための「金魚」だ。そんな「金魚」だったが、家に連れて帰られて、水槽に放たれると、なんとなく家族の一員のように扱われ、「名前」を付けてもらって、「餌」を貰うような幸運を得たというのである。まさに「赤いべべ着た 可愛い金魚 おめめさませば 御馳走するぞ」の境遇だ。心優しい「子供」とその家族の振る舞いを、あっさりと表現していながら、よく考えると、「生きる」とか「運命」とかいう重い言葉が背後にちらちら見える句になっていると思えた。(本井 英)

競馬場のスタンド見ゆる植田かな  冨田いづみ

 季題は「植田」。早苗を植えてまだ間も無い頃の田圃である。「代田」との違いは、勿論、植えて有るか無いかの違いで判りやすいが、「青田」との違いは微妙である。筆者は「空」が映り込む間は「植田」。水面が見えなくなるのが「青田」というぐらいの目安で考えている。そう考えると「植田」という時期はそう長くは無いかも知れない。「競馬場」のスタンドは馬場の遠くまで見渡す必要もあって、なかなか高い建物が多いようであるが、筆者は、この句の作者ほどには「競馬場」を訪れたことが無いので、詳しくは知らない。脳裏に浮かぶのは「右に見える競馬場、左はビール工場」といった歌詞ぐらいだが、あんな処に「田圃」はあったかしら?と思うと、いささか不安にもなる。

 あるいは「その道の達人」になると「新潟」とか「福島」とかの競馬場まで進出するのかも知れないが、さすがにそれらの「競馬場」のロケーションについて筆者の知るところではない。ともかく一面に広がった「植田」越しに「競馬場のスタンド」が仰がれ、良く見ると「田の面」にちらちらとそれらしい色が映っているのである。初夏の気持ちいい風が戦いでいる。(本井 英)