季題は「年玉」。正月、親から子供たちに与える金銭や品物である。古代に遡れば年頭に当たって、その「氏の長者」が付随う者達に「分け与える」、その年の「霊」であった。やや大袈裟に謂えば、その年を無事に生きる為に必須な「魂魄」ということだったのだろうが、現代ではそんなことは誰も思ってもみない。まあ新年に親が子に与える「特別なお小遣い」といった程度の意味合いで、親戚筋の子供たちにも配られることから、一族が集まる新年の宴席では子供たちの重大な関心事にもなる。一句の場面はそんな「孫・曽孫」に囲まれた作者の軽い驚きであろう。数年前までは小さな孫たちだったものが、いつの間にか大人びてきて、中には「金髪に染め」ている者まで居たというのである。髪を「金色」に染めることの是非は「両親」の育て方の範囲であって、祖父母が是非を唱えるべきものではない、という認識を前提としての一句であるが、少々不思議な気分を味わっておられる作者を思うと、ゆっくりとした時代の流れが見えてきて、楽しい一句になった。「昔はねえ」という科白も聞こえて来そうな場面だ。(本井 英)
「潮騒を聴きながら(雑詠句評)」カテゴリーアーカイブ
冬ざれの森もつと深かつたはず 小沢藪柑子
季題は「冬ざれ」。『ホトトギス新歳時記』には「草木も枯れ果て、天地の荒んで物寂しい冬の景色をいう」と解説する。似た季題に「冬枯」、「霜枯」などがあるが、「枯れる」という具体的な現象より、「荒ぶ」といった、やや心理的なニュアンスが強い季題と言えるかもしれない。作者が「ある森」を散策しているというと、森の中の木々は枯れ尽くし「取り付くしまもない」という荒涼たる姿であった。さらに奥へと歩みを進めると程なく「森」を出外れそうになる。「おやおや、もっと深い森であったと記憶しているが、存外に狭かった」と感じているのである。「夏」の木々が生い茂る有様を記憶に持っていた作者にはやや「物足りない」気分も湧いたのであろう。その少し期待外れであった心の状態が、不思議な「リズム感」に表れている。中七・下五の「もりもつと、ふか」「かつたはず」の訓みには、どこか小気味好さまで感じてしまう。(本井 英)
亡夫のジャケツ着て居心地良かりかり 小山久米子
季題は「ジャケツ」。『虚子編新歳時記』、『ホトトギス編新歳時記』ともに季題としての記載は無いが、内容的には寒い季節の上着としての認識は広く行き渡っており、季題として扱うことに抵抗はない。因みに『角川大歳時記』(二〇〇六年版)では「ジャケット」として掲出。傍題として「ジャケツ」・「カーディガン」・「ジャンパー」を掲げている。衣料の分野は殊に流行り廃りが激しく、季題の認定は難しい領域ではあるが、掲出句の場合はその「手触り」まで伝わってくるので、季題として充分な実感のあるものとして扱った。一句は「亡夫」とあることから、大凡の状況は察せられ、容易ならざる心の内も充分に推量出来る。大切なご主人を亡くされて暫く経って迎えた「冬」であろう。寒さを防ぐ爲に、久しく着る人の無かった「ジャケツ」に、なんとなく腕を通されたのだろう。永年見慣れた柄の「ジャケツ」を「着てみる」と、思ったより「重く」「暖かかった」。俄に「亡夫」の俤が蘇り、「心地良い」と思えたというのである。こうして俳句として「亡夫」を詠まれることが、どれほどご主人の供養になることか、拝読する方も心に感ずるものがあった。(本井 英)
鶏にパッと点りし一戸かな 藤永貴之
季題は「初鶏」。『虚子編新歳時記』の解説は「元日、黎明に聞く鶏鳴である。」と素っ気ない。この「素っ気なさ」の背景にあるのは、「鶏鳴」が「時」を知らせるという古代からの生活感が、昭和の初年には未だ人々に共有されていたからである。現代のように人口の殆どが都市生活者に数えられる時代となると、「鶏鳴」イコール「時刻の目安」という時代感覚と、人々の暮らしから解き明かさなければならなくなる。例えば筆者が育った戦争直後の鎌倉などでは、未だ「鶏」を飼う家もあって、東の空が白む時刻には、必ず「コケコッコー」が聞こえたものであった。そんな時代に思いを馳せて一句を味わうと景がありありと浮かび上がってくる。さらには如何にも待ちかねた「元朝」を迎えた人々の心の内までが。(本井 英)
思ひ出す紫菀の咲けば泊雲忌 長浜好子
西山泊雲は昭和十九年九月十五日に六十八才で亡くなっている。つまりこの句の季題「泊雲忌」は九月十五日。「紫菀の咲けば」とも詠んでいるので、実際「泊雲忌」の季節を知らなくても困らない。その時、師虚子は小諸への疎開を果たしたばかり。虚子の「句日記」、「九月十五日」の条には「泊雲逝去の報至る」の詞書と共に「紫菀咲く浅間颪の強き日に」の句が録されている。本土決戦が囁かれる昭和十九年、ほぼ縁故の無い信州小諸に疎開した虚子が、最も信頼する愛弟子泊雲を失ったことにどれほど落胆したか想像にあまりある。終戦後、ようやく旅をすることが出来るようになった虚子が真っ先に向かったのが泊雲の墓参りであったことからも、この折の虚子の心中は察せられる。一句はそんな虚子の心中に思いを馳せての句と解すれば洵に納得のいくものである。俳句は自分自身の感懐に即して詠むのが普通であるが、この句のように自分だけでなく、他の人の気持ち(この句の場合は虚子)に心の及ぶ句の世界もあっていいのだと思う。それほどまでに「紫菀」と「泊雲の死」は深く結ばれているのである。(本井 英)