海沿ひの海抜表示浜大根   飯田美恵子

 季題は「浜大根」。「大根」は冬の季題だが、「浜大根」については「冬」とすべきかどうか、疑問の残るところであるが、全く食しないというわけではない(ひどく辛いが、そこが体に良いという人もいる)ので、一応「冬」としておこう。一句の中心は「海抜表示」。およそ二メートルほどの標柱で、その地点の「海抜」が表示してある。昔からあったのかも知れないが、筆者が「気にして確認」をするようになったのは、あの東日本大震災以後である。それまで頭の中で勝手に想像していた「津波」をありありと実感してからというもの、我々日本人はトラウマのように「津波」を怖れるようになった。さらに「南海トラフ」での地震が、現実味を帯びて語られるようになると、真っ平らに「凪いでいる」海を見ても、心のどこかで「津波」を空想している。またこの「海抜表示」が町中にあるのであれば、それほどの恐怖心は持たないのかも知れないが、「海沿ひ」に、「一メートル」とか「二メートル」とか記して立っていたりすると、その「恐怖心」は例えようもない。

 作者は何気ない「海沿ひ」の景を写生なさっただけかもしれないが、読み手によっては大きく心を揺さぶられる人もあったであろう。俳句は時代時代によって、そして読み手によって、さまざまに味わわれるものであることが、この句で良く分かる。(本井 英)

北窓に一本桜絵のごとし   小山久米子

 季題は「桜」。「一本桜(ひともとざくら)」は、ぽつんと一本立っている櫻樹。「北窓」は「北側に向いた窓」の謂いには違いないが、俳人ならおそらく、「北窓塞ぐ」「北窓開く」という季題を連想し、この句の場合も、冬の間、風雪から暮らしを守るために、ずっと閉ざされていた「窓」を心に描くのが鑑賞の道筋であろう。そうなるとおそらく舞台は「北国」とか「山国」ではあるまいか、と空想が膨らんでくる。読者の中には「絵のごとし」の措辞に抵抗を覚える向きもあろう。「美しいもの」なら何でも「絵のごとし」と表現する常套手段が昔からあるからだ。しかし、この「絵のごとし」というのは、それとは違う。本当に展覧会かなにかで展示されている「絵」のようであった、というのである。光りの及ばない、やや暗目の部屋の「北窓」が、ちょうど額縁のように「横長」に切りとられていて、その画面の中の「野」には、南の方角から日をいっぱいに浴びた「一本桜」が翳りのない明るさで満開を誇っている。その明るさと、室内の薄暗さが見事なコントラストをなしている。さらに「北窓の」という言い回しもある中で、「北窓に」としたところも、一句の懐を広くしている。「に」としたことで、「一本桜」の後に、軽い「切れ」が生じていることに、気付いていただけるだろうか。その小さな「ポーズ」によって「絵のごとし」の意味も大きく拡がったのである。(本井 英)

暗渠より運河へ注ぐ水温む   塩川孝治

 季題は「水温む」。春になって、川や池の水がおのずから温んでくる状態である。「暗渠」は、本来川の流れであった場所に蔽いを掛けるようにして出来た地下水道。その上は道になっている場合が多い。「運河」は陸地を掘って造った水路。ただし、東京湾のように沖へ沖へ埋め立てて行くと、その間に取り残された水面が、結果として「運河」となる場合もある。 

 作者はそんな都会の風景の真っ直中で、「運河」へ「暗渠」の水が流れ込んでいる現場を見かけた。その、いかにも大都会にありそうな景色の中で、作者は「その水」を「温む」と見たのである。「いわゆる自然」など、一欠片も無い景色の中にも「四季の運行」を感じているわけだ。

 さらに空想を逞しくすれば、今でこそ大都会の「殺風景」なコンクリづくめの景色となってしまったこの辺りも、三百年、四百年前には山奥から丘に沿って流れ下った「春の水」が、ゆたに湛える「海」に流れ込んでいた場所であったかもしれない。作者の脳裏に、その景が浮かんだかどうかは別にして、眼前の「水」を「温む」と見た瞬間に、作者の魂は数百年前の「何か」を感じとっていたに違いない。(本井 英)

キュルキュルと目白喜び臥龍梅   岡﨑裕子

 季題は「臥龍梅」で春。一句の主役は、「キュルキュル」と喜び啼く「目白」だが、「目白」だけでは秋の季題となる。ただし「目白」を「秋」と明確に規定しているのは『虚子編新歳時記』、『ホトトギス新新歳時記』くらいで、角川の『俳句大歳時記』等は近年、「目白」などの小禽類の多くを「夏季」としている。このことは本句の句評とは直接的な関係はないが、近世初頭の『毛吹草』以降、「季寄せ」類が踏襲してきた「小鳥」を秋とするか、近代の野鳥研究家および山本健吉氏による「見直し」を受け容れて「夏」と変更するかの問題となる。

 「目白」を一句の季題となし、秋の景として鑑賞することも不可能ではないが、前述した如く「キュルキュル」という楽しげな鳴き声からはやはり「春」を感じずにはいられない。

 一句の手柄は、横に長く連なり「臥龍梅」の名を得て咲き誇る「梅の木」に纏わりつきながら、「目白」が洩らす「キュルキュル」という鳴き声の、楽しげな様子の擬音表現が、いかにも楽しげでリアリティーの感じられるところであろう。(本井 英)

屋根雪をスノーダンプで切る落とす   青木百舌鳥

 季題は「雪」。「スノーダンプ」は大きめの雪搔きで、搔き込んだ雪を乗せて移動させることも出来る。作者が見かけた「雪搔き」の現場は「屋根」の上。屋根全体を覆う雪を「スノーダンプ」で「切り分けて」、それを屋根の傾斜に沿って滑らせ、下へ落とす作業をしているのである。我々「雪」に馴れていない者から見るとびっくりする巧みさで「雪」を四角い塊に切り分けてゆく。

 一句の手柄は如何にも手慣れた雪国の人の作業の様子を的確に「写生」したことであろう。われわれが空想する「搔く」「抛る」「運ぶ」といった動詞でなく、「切る」「落とす」というまことに現実に叶った動詞を用いてくれたことで景がありありと目に浮かんだ。しかもその二つの的確な動詞を生の形で「切る」、「落とす」と下五に連打した。その勢いも一句を活動的なものにしている。(本井 英)