語りたき人の少なし端居して   岩本桂子

 季題は「端居」。夏の季題である。俳句を始めたばかりの頃、この「端居」という季題に出会って、腰が抜けるほどビックリした。そんな「何でもない」ような振る舞いや、状態が季節を表すなんて、思いもしなかったことだから。

 ともかく「端居」という季題には「ある気分」というものがある。この句もよく読むと、しみじみとした淋しさの中で一人、記憶の中の人々と語り合っている。すでにこの世にいない人々との話は尽きないのだが、今、この世に生きている人の中に「語りたき人」は洵に少ないのである。そこには自らの「老」を詠まれながらも毅然とした姿が見えてくる。私は、ふと「百人一首」の「誰をかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」(藤原興風)を思い出した。興風の和歌は「あの高砂の松だって、俺に取っちゃあ、昔からのダチという訳でもねえんだよ」と大袈裟に面白がっているが、共に語る相手の少なくなった「寂寥感」はいかほどのものであろうか。しかしこの作者にとっては、それを「俳句」に詠まれたことで一種のカタルシスを得られたとも言えようか。(本井 英)

利根川の夜明けを告げて行々子  北村武子

 季題は「行々子」、「葭切」である。南方から渡来する夏鳥で、「ギョギョ、ギョギョ」と大声で叫き立てながら、水辺を移動してまわる。「利根川」は坂東太郎の異名を持つ関東の大河。滔々たる流れのあちこちに、豊かに広がる芦原を従えている。早朝、その一角で「行々子」が囀りを始め、そんな頃、東の空は明るみ始め、「利根川」の今日が始まろうとしているのである。

 一句は「明易」の河辺の景を描いて気持ちの良い句であるが、それは作者の心の張りが、緊密な措辞と朗々たる声調となって詠われているからである。(本井 英)

ぼうたんの散るごとに身を軽うする   田中 香

 季題は「ぼうたん」、「牡丹」(夏)である。中国で「牡丹」は「花の王」、「獣の王」である「獅子」と好一対をなし「牡丹に唐獅子」というコンビを組んでいる。舞踊の「石橋」のような獅子の働く舞台には必ず「牡丹」が副えられるのはそのせいである。

 幾重にも花弁を畳み込んで咲き始めた「牡丹」。その「牡丹」の花弁も徐々に緩み始め、ついにはハラリ、ハラリと花弁を脱ぐ。その様子を作者は「身を軽くする」と見てとった。一枚一枚散り墜ちて行く花弁を、只々惜しむのではなく、「身を軽くする」と、肯定的に表現したのである。勿論「肯定」と言ってもさばさばとした諦観に通じるもので、その辺りに「生きる」ということの本質を垣間見させてくれる。「軽う」のウ音便も全体の柔らかい表現に叶っている。 (本井 英)

平日を子どもと過ごす桜餅    永田泰三

 季題は「桜餅」。関東風の小麦粉をうすく焼いた物と関西風の道明寺粉で作る物があるが、近年はどちらもよく出回っている。東京では墨東長命寺のそれが、別格官幣大社のごとく大切にされている。どんな理由があったのかは分からないものの、本来家居をすることの極めて少ない、その家の主人と、これまた平日は学校に通って居るはずの子どもが、朝から家でごろごろしていた午後、気を利かせた主婦が買い物の序でにでも「桜餅」を買ってきて、家族皆で喰ったというのである。「こんなことって、珍しいねえ」などと言い合いながら、音をたてて茶を啜ったりもしたことであろう。そんなポンと現れた「現実」のなかでの団欒が面白い。

 こう解説してくると、この春の所謂「コロナ禍」を言っているのですよ、という解説をする人が現れるであろう。たしかに一句が詠まれたきっかけはそんな処であろうと思う。しかし、「コロナ禍」を説明するための句であると考えては「つまらない」。それでは只の謎解き「はんじもの」である。それはそうかもしれないけれど、味わうべきは「桜餅」のあの柔らかい色合いと甘みと感触と、珍しい状況を楽しんでいる、「家族の静けさ」である。 (本井 英)

伝へばや二人の桜咲き初むと 牧野伴枝

 季題は「桜」。一句の鑑賞のポイントは「二人の桜」。「二人で買った桜」、「二人で植えた桜」、「二人の想い出の桜」などなど。解釈はさまざま。ともかく「二人の桜」と言うだけで、少なくとも当の「二人」には判る「そんな桜」があるのだ。ちょっと「甘い」表現なので、他人様には聞かせられないが、毎年その時期になると「二人」はその桜の咲くことが、何よりも楽しみだったのだろう。「伝へばや」は「伝えたいものだ」の謂い。ということは「二人」のうちの「一人(すなわち相手)」は、今「二人の桜」の咲いていることを知らずにいるということになる。そして「その人」がとても遠くにいるらしいこと、現代的に喩えるならスマホで撮った画像さえ届かない「遠隔の地」にいるのではないかとの解釈が自ずから見えてくる。「幽明境を異にする」とも言う。筆者に〈笹子来てをるよと告げむ人もがな〉という句がある。何かにつけて「思い出す」という辛い日々とお察しする。(本井 英)