ひとり食めばさみしくなりぬさくらんぼ  天明さえ

 季題は「さくらんぼ」、「桜桃」である。虚子の〈茎右往左往菓子器のさくらんぼ〉は有名だが、「さくらんぼ」の実の大きさ、彩り、茎の長さと撓み、その全てを一枚のスケッチの中に収めて見事と言うほかに言葉がない。一方「桜桃」の語から太宰治の小説「桜桃」を心に思い描くと、「さくらんぼ」の対極にある「何とも言えない、生きること自体の悲しみ」がゆらゆらと立ち上ってくる。

 大きさと言い、色合いと言い、味わいと言い、愛されずにはいない「さくらんぼ」。それらを「手拍子」のように口に運んでは、種を吐き出す楽しい時間。二人で、三人で、四人で摘めば、会話も弾む。そして、つまり「ひとり食めば」・「さみしくなりぬ」は必然の結果なのであるが、誰の心の中にでもある、普段は気付かぬふりをして「跨いで」通る「心のクレバス」に落ち込んでしまったような時間がはっきり描かれていると思った。花鳥諷詠の俳句とは本人すら気付かぬうちに、恐ろしい真理を描くこともある。(本井 英)

水に落ち水際に落ち桐の花   田中 香

 季題は桐の花。桐は鳳凰がとまる木として古来尊ばれてきた木。一方では箪笥や下駄の材料として大切にされ、その花の紫は遠くからでもその色と判り親しまれて来た。また、降り溜まった落花の香りも印象的だ。一句はその落花の様子を詠んだものだが、「水に落ち水際に落ち」のリズム感が独特で人の心を捉える。正確にはリフレインではないのに、類似した音が短時間に繰り返されるためにリフレインと同じ効果を上げ、さらに「水」と「水際」という異なる状況に落花している「桐の花」を脳裏に描くことで、その花の質量感と色彩感が、ありありと浮かんでくる。

 こう解説すると計算され尽くした措辞のように思うかも知れないが、そうではない。作者には気の毒な言い方になるかも知れないが、それは不意に「口をついて出てきた言葉」に過ぎなかったのだと思う。その思ってもいなかったフレーズを得たときに「これでいける」と判断した作者の力量は評価すべきである。偶然に近い感じで浮かび上がってくる「言葉」をしっかり摑む訓練を怠ってはいけない。(本井 英)

潟船へ月の歩板の高々と   藤永貴之

 季題は「月」(秋季)である。「潟舟」は辞書的には八郎潟で用いられた細型の和船の謂となるが、現在八郎潟のものは姿を消しているというので、有明海あたりの「干潟」に置かれたような状態の船を表現する造語と見た。地元ではそのように呼ぶのかもしれない。

 通常の港湾ではめったにないことであるが、有明海のように干満の激しい海域では干潮時には船溜まりの海水さえ引き切ってしまって、船がそのまま海底に置かれたような状態になることが少なくない。

 そんな船と堤防との間に掛け渡されるのが「歩板」。せいぜい巾三十センチほどの板である。その歩板に今、秋の月光が当たっているのである。皓々と照らす月光は「歩板」だけでなく船体も干潟も遍く照らし出している。そして照らされた部分が明るければ明るいほど、今度は「影」にあたる部分は黒く暗い。たとえば高々と渡っている「歩板」が潟面に落とす「影」の黒いこと。絵筆持たぬ身ながら、是非一枚の絵画に残したいような場面に見えた。(本井 英)

日盛のはちきれさうな機体かな  前北かおる

 季題は「日盛」。「機体」は航空機のそれ。したがって真夏の空港での所見ということになる。作者の心に浮かんだ言葉は「はちきれさう」という一語のみである。実際、音に出して「は・ち・き・れ・さ・う」と言ったかどうかは判らないが、ともかく作者の眼前の景色、大きなガラス張りの窓の外の、コンクリートと「日盛」の日差しと、旅客機の機体の形状に対して、作者は「はちきれさう」という一単語で応じたのであった。

 旅客機の機体について詳しいわけではないが、例えば昔懐かしい「Y11」の機体を思い出してみても、あるいは一世を風靡した「ジャンボ機」を思い出してみても「はちきれさう」という形状とは違っていた。ところが近年目にする旅客機の幾つかの、特に前方部分には「はちきれさう」という、「パンパンに膨らんだ」印象がある。それだけのことであるが、こうした小さな発見を通じて「空港の日盛」が伝われば、これで「俳人」としての役目は全うしたことになるのである。 (本井 英)

春の風邪明るき場所で眠るなり  黒田冥柯

 季題は「春の風邪」。ただ「風邪」ならば冬の季題であるが、「春の風邪」というとどこか深刻でないような、そのうち、いつの間にか治ってしまうような印象のものとなる。虚子の作には〈化粧して気分すぐれず春の風邪〉〈病にも色あらば黄や春の風邪〉〈老大事春の風邪などひくまじく〉〈春の風邪重きに非ずやや老いし〉などもあり、おおよそその辺りのニュアンスは伝わるであろう。

 この句で言えば、「明るき場所」に「春の風邪」らしさがある。冬場の本格的な「風邪」ならしっかり薬を飲んで、部屋は暗くして、「ともかく、早く治るために寝る」。ところが「春の風邪」では、どこか日常を引きずったままで「深刻にならずに」横になっているのであろう。季題の捉え方として正しいし、それでいて、どこか気楽な、若者らしい感じも出ている。(本井 英)