潟船へ月の歩板の高々と   藤永貴之

 季題は「月」(秋季)である。「潟舟」は辞書的には八郎潟で用いられた細型の和船の謂となるが、現在八郎潟のものは姿を消しているというので、有明海あたりの「干潟」に置かれたような状態の船を表現する造語と見た。地元ではそのように呼ぶのかもしれない。

 通常の港湾ではめったにないことであるが、有明海のように干満の激しい海域では干潮時には船溜まりの海水さえ引き切ってしまって、船がそのまま海底に置かれたような状態になることが少なくない。

 そんな船と堤防との間に掛け渡されるのが「歩板」。せいぜい巾三十センチほどの板である。その歩板に今、秋の月光が当たっているのである。皓々と照らす月光は「歩板」だけでなく船体も干潟も遍く照らし出している。そして照らされた部分が明るければ明るいほど、今度は「影」にあたる部分は黒く暗い。たとえば高々と渡っている「歩板」が潟面に落とす「影」の黒いこと。絵筆持たぬ身ながら、是非一枚の絵画に残したいような場面に見えた。(本井 英)

日盛のはちきれさうな機体かな  前北かおる

 季題は「日盛」。「機体」は航空機のそれ。したがって真夏の空港での所見ということになる。作者の心に浮かんだ言葉は「はちきれさう」という一語のみである。実際、音に出して「は・ち・き・れ・さ・う」と言ったかどうかは判らないが、ともかく作者の眼前の景色、大きなガラス張りの窓の外の、コンクリートと「日盛」の日差しと、旅客機の機体の形状に対して、作者は「はちきれさう」という一単語で応じたのであった。

 旅客機の機体について詳しいわけではないが、例えば昔懐かしい「Y11」の機体を思い出してみても、あるいは一世を風靡した「ジャンボ機」を思い出してみても「はちきれさう」という形状とは違っていた。ところが近年目にする旅客機の幾つかの、特に前方部分には「はちきれさう」という、「パンパンに膨らんだ」印象がある。それだけのことであるが、こうした小さな発見を通じて「空港の日盛」が伝われば、これで「俳人」としての役目は全うしたことになるのである。 (本井 英)

春の風邪明るき場所で眠るなり  黒田冥柯

 季題は「春の風邪」。ただ「風邪」ならば冬の季題であるが、「春の風邪」というとどこか深刻でないような、そのうち、いつの間にか治ってしまうような印象のものとなる。虚子の作には〈化粧して気分すぐれず春の風邪〉〈病にも色あらば黄や春の風邪〉〈老大事春の風邪などひくまじく〉〈春の風邪重きに非ずやや老いし〉などもあり、おおよそその辺りのニュアンスは伝わるであろう。

 この句で言えば、「明るき場所」に「春の風邪」らしさがある。冬場の本格的な「風邪」ならしっかり薬を飲んで、部屋は暗くして、「ともかく、早く治るために寝る」。ところが「春の風邪」では、どこか日常を引きずったままで「深刻にならずに」横になっているのであろう。季題の捉え方として正しいし、それでいて、どこか気楽な、若者らしい感じも出ている。(本井 英)

穴ぐらのごとき入口霜の城  渡邉美保

 季題は「霜」。とは言っても眼前に「霜」が降りている、と言うのではなく、「霜」に象徴されるような凛烈な寒さをその身に纏っている「城」といったところである。虚子に〈霜降れば霜を楯とす法の城〉という句があるが、どこかその句に通じるような緊迫感が一句に漂う。「穴ぐらのごとき」とは、狭く薄暗いという表現。たしかに城の「入口」に「さあ、皆さんいらっしゃい」といった開放感はない。石組みの迫ってくる、狭く薄暗い、まるで「穴ぐら」のごとき入口に、這い上るような急階段が垂れている。

 現代でこそ観光名所として我々は面白がって出入りするが、戦国の世であってみれば命を托す砦。「霜の城」と呼ぶに相応しい厳しさに包まれていたに違いない。一句は、その緊張感を一瞬我々に味わわせてくれる。 (本井 英)

ゆるやかに道曲がりゆく枯木立   山内裕子

 季題は「枯木立」。すっかり葉を落とした幾幹かの冬木がほつほつと佇んでいる。広々とした公園の一画などを思い浮かべればよい。そんな木立を縫うように進む道。いま作者が立ち止まっている道が、ゆっくりとカーブしながら先へ進んでいる具合が、「枯木立」ごしに見えているのである。何処にでもある、平凡な景色であるが、少し先まで見えている「道」に何となく、人生の「一寸先」を読者は感じてしまう。

 この句を作者が詠んだということは、「この景」に作者自身、どこか心が惹かれたからに相異ない。しかし何故心惹かれたか、それは作者自身も気付いておられないかも知れない。「なんとなく心惹かれる景色」といった程度ではなかったか。一方読者である筆者は、同じように心惹かれながら、「人生の一寸先」を感じた。もしかすると作者自身も、ご自身でそれと気付かれぬながらも、「一寸先」への不安や期待を心の中に抱えておられたからこそ、「この景色」に惹かれたのではなかったか。「花鳥諷詠」の根本にあるメカニズムのようなものを、筆者は強く感じた。  (本井 英)