伝へばや二人の桜咲き初むと 牧野伴枝

 季題は「桜」。一句の鑑賞のポイントは「二人の桜」。「二人で買った桜」、「二人で植えた桜」、「二人の想い出の桜」などなど。解釈はさまざま。ともかく「二人の桜」と言うだけで、少なくとも当の「二人」には判る「そんな桜」があるのだ。ちょっと「甘い」表現なので、他人様には聞かせられないが、毎年その時期になると「二人」はその桜の咲くことが、何よりも楽しみだったのだろう。「伝へばや」は「伝えたいものだ」の謂い。ということは「二人」のうちの「一人(すなわち相手)」は、今「二人の桜」の咲いていることを知らずにいるということになる。そして「その人」がとても遠くにいるらしいこと、現代的に喩えるならスマホで撮った画像さえ届かない「遠隔の地」にいるのではないかとの解釈が自ずから見えてくる。「幽明境を異にする」とも言う。筆者に〈笹子来てをるよと告げむ人もがな〉という句がある。何かにつけて「思い出す」という辛い日々とお察しする。(本井 英)

涅槃図を展じ校内清閑と  前田なな

 季題は「涅槃図」。旧暦二月十五日は釈尊が入滅した日。各寺院では「涅槃図」を掲げ「涅槃会」を営む。「涅槃図」の多くはその中央に釈尊入滅の姿を描き、それを取り囲んで羅漢達が嘆き、さらに禽獣が悲しむ図となっている。

 その「涅槃図」を校内に掲げているということは、宗教的な色彩の強い学校で、教育方針の根幹に「仏の道」を据え、日々心の涵養を説く活動を実践しているものと思われる。あるいは理事者・教職員の中に僧形の方々が立ち混じっておられるのかも知れない。

 そんな学園の中心的な場所に、今年も「涅槃図」が掲げられる時期がやってきて、寒さの極みということも手伝って、そのあたり一帯が「清閑」としているというのである。

 学校というと若い人が集っている状況から活発な喚声を連想しがちだが、こうした静けさを思うと不思議な安らぎを感ずる。これも「涅槃」という季題の側面なのであろう。(本井 英)

日の落ちて喪中の友へ初電話   小林一泊

 季題は「初電話」。電話が世間で普及して、「年賀状」に倣うようなかたちで、年始の挨拶を「電話」で交わすというような、一寸洒落た気分が漂っていた時代もあった。立子先生に〈初電話ありぬ果して父の声〉という句もある。時代は移って今は「メール」や「ライン」というのがかつての電話に成り代わっているようだ。

 さて一句は、ある友人について今年は「喪中」であるために年賀状を交わすこともない。しかし、どうしているだろうか。親御さんを亡くされたのか、はたまた連れ合いか、この句からでは判らないものの、作者は友人の淋しさを思いやっている。そこで思い立って夕刻過ぎに電話をしたのである。一句の味わいどころは「日の落ちて」。新年の日射しの中では、どこか晴れ晴れとした気分が先に立ってしまって、「喪中」の家への電話は憚られたのであろう。元日の持つ「ハレ」の気分の裏側を見事に捉えた句になった。(本井 英)

埋火を探る冷たき火箸かな  山内裕子

 季題は「埋火」。炉や火鉢の灰の中に埋めた炭火のこと。夜、寝るときに「埋火」にして置き、翌朝、灰の中から搔き出して新しい炭を添えてやることで、炭火は継続される。

 一句はその「朝」の様子。前の晩に「埋火」として灰の中に埋めておいた「火だね」を探っているのである。一晩の間に座敷の温度は随分と下がってしまい、指にとる「火箸」はすっかり冷たくなっている。

 表現の方法としては「埋火を探る火箸の冷たけれ」という方が狙いがはっきり見えるが、それでは「あからさま」過ぎて、掲出句の句形の方が上品な感じもする。(本井 英)

観念して家業に就きぬ酉の市  矢沢六平

 季題は「酉の市」。関西・九州方面の人々にはあまり縁が無いかもしれないが、東京では十一月の大事な行事である。特にお商売をなさっている家では大切にされ、縁起物の「熊手」は銭を「搔き込む」ということから、派手に飾り立てた「熊手」を大枚はたいて買うのも商売人の心意気である。一句の主人公はもともと家業を継ぐべく育てられて来たのであったが、本人の夢は別の方面にあり、何かと言っては「家業」を継がない方向で活動してきたもののようである。ところが何かの事情、例えば働き盛りであった父親が急逝してしまったとか、自分が志した方面への道が閉ざされてしまったとかで、結局「観念して」家業を継ぐことになったのである。そうなってみれば、ジタバタするのも恰好悪いと考えたのであろう。今日は「酉の市」にもお参りをして商売繁盛を願ったというのである。久保田万太郎あたりにでもありそうな、やや小説めいたストーリーの感じられる句であるが、それなりに「酉の市」の雑踏も空想できて面白い一句になった。(本井 英)