穴ぐらのごとき入口霜の城  渡邉美保

 季題は「霜」。とは言っても眼前に「霜」が降りている、と言うのではなく、「霜」に象徴されるような凛烈な寒さをその身に纏っている「城」といったところである。虚子に〈霜降れば霜を楯とす法の城〉という句があるが、どこかその句に通じるような緊迫感が一句に漂う。「穴ぐらのごとき」とは、狭く薄暗いという表現。たしかに城の「入口」に「さあ、皆さんいらっしゃい」といった開放感はない。石組みの迫ってくる、狭く薄暗い、まるで「穴ぐら」のごとき入口に、這い上るような急階段が垂れている。

 現代でこそ観光名所として我々は面白がって出入りするが、戦国の世であってみれば命を托す砦。「霜の城」と呼ぶに相応しい厳しさに包まれていたに違いない。一句は、その緊張感を一瞬我々に味わわせてくれる。 (本井 英)

ゆるやかに道曲がりゆく枯木立   山内裕子

 季題は「枯木立」。すっかり葉を落とした幾幹かの冬木がほつほつと佇んでいる。広々とした公園の一画などを思い浮かべればよい。そんな木立を縫うように進む道。いま作者が立ち止まっている道が、ゆっくりとカーブしながら先へ進んでいる具合が、「枯木立」ごしに見えているのである。何処にでもある、平凡な景色であるが、少し先まで見えている「道」に何となく、人生の「一寸先」を読者は感じてしまう。

 この句を作者が詠んだということは、「この景」に作者自身、どこか心が惹かれたからに相異ない。しかし何故心惹かれたか、それは作者自身も気付いておられないかも知れない。「なんとなく心惹かれる景色」といった程度ではなかったか。一方読者である筆者は、同じように心惹かれながら、「人生の一寸先」を感じた。もしかすると作者自身も、ご自身でそれと気付かれぬながらも、「一寸先」への不安や期待を心の中に抱えておられたからこそ、「この景色」に惹かれたのではなかったか。「花鳥諷詠」の根本にあるメカニズムのようなものを、筆者は強く感じた。  (本井 英)

コンバインのライトが帰る刈田道   磯田和子

 季題は「刈田」。「コンバイン」は本来「複合」の謂いであるが、ある時期から日本では稲の「刈り取り」と「脱穀」を一台でこなすトラクター形農機具のことを指すようになっている。したがって筆者としては「コンバイン」だけで充分秋の季題たりうるものと認識しているが、掲出句のように従前からある「刈田」をいう季題のもとで詠むというのも、言葉の過渡期にはあっては然るべき手立てであろう。

 一日中、朝から働きづめの「コンバイン」。勿論作業に携わっている農民も疲れていることだろう。しかし、天候の状態などを勘案すれば、今日は日が暮れるまで野良で働かざるを得なかったのであろう。真っ暗な農道をゆっくり下っていく「コンバイン」の「ライト」。その仄暗い光りの中に、疲れと安堵が見える。(本井 英)

からまつて落ちゆく泥鰌放生会   矢沢六平

<@p> 季題は「放生会」。陰暦八月十五日、各地の八幡宮などで行われた行事で、捕らえた魚や鳥を放ち供養した。

 一句はその行事の詳細を正確に写生した佳句である。「放生会」のクライマックス、神職の手で、バケツや器に入れられていた「泥鰌」が境内の放生池に放たれたのであろう。覆された器から「泥鰌」が池の水面に向かって落ちる瞬間、黒っぽい、細長い「泥鰌」の塊は「絡み合った」状態のままで水面に向かったというのである。

 宗教行事であることを通り越して、「生きている」ということの実態が如実に表現された作品と言えよう。(本井 英)

夏蝶のごとく翔たし生きたしよ      望月公美子

 季題は「夏蝶」。ただ「蝶」とだけ言えば春の季題。それが夏に見られれば「夏の蝶」となり、秋には「秋の蝶」となり、冬には「冬蝶」あるいは「凍蝶」となる。

 夏蝶」と言えば、大型でどこか自信に充ちた飛びようが印象的で、例えば〈夏蝶翔るや杉に流れ来て翅一文字 はじめ〉などの作にその特徴がよく捉えられている。

 作者はそうした「夏の蝶」の特徴を充分に認識しながら、「夏蝶」のように振る舞いたいと思っているのである。

 やや主観的な作であるが、その土台にはじっくりとした「夏の蝶」の写生があるので上滑りにならず、心の底からの願望として読者も納得するのである。(本井 英)