生きて別れ死して別れて葉月なる  児玉和子

 季題は「葉月」。陰暦八月の異称である。近年の異常な温暖化が惹起するまでは秋の気配がしんみりと浸透する頃おいであった。一句の解釈のポイントは勿論「生きて別れ・死して別れ」。これを一般的な「さまざまの別れ」と解釈しては、やや浅薄な感じすらする。色々な「人」と「生き別れ」、「死に別れ」してととってはつまらないのだ。そこで、たとえば「ある一人の人物と」と設定するとどうなるだろう。ある時代に心を通わせて、肝胆相照らすというような心の交流のあった人物。ところが何かの事情で遠く離れて住まうようになった。それまでのように、ことある度に共に喜び、共に悲しむといったことは叶わなくなった。ところがその後、また長い時が流れて、こたびはその人の訃報がもたらされた。今度はこの世に残された作者と、その人物はまさに「幽明境を異にすることとなった」のである。さてそうなってみると、「生きて別れ」た時には味わうことのなかった、「とことんの別離」を全身で感じることとなった。そんな作者の身を「葉月」の「しん」とした空気が包んでいる。「生きていることと、死ぬること」を否でも応でも思い知らせる一句となった。(本井 英)

著ぶくれてこぼれおちさうバギーの子   田中金太郎

 季題は「著ぶくれ」。重ね着をして着ぶくれることである。普通には「着る」と書くが、正しい字遣いでは「著る」が相応しく、『虚子編新歳時記』でも『ホトトギス新歳時記』でも「著」の字を用いている。

 「バギー」は本来、オフロード走行可能な自動車を表す語であるが、近年ではやや軽便なベビーカーの一種の意味でも使われ、本句でもそのように使われている。

 いかにも近年の街角で見かけそうな景色として「著ぶくれ」た「子供」の姿が目に浮かぶ。「バギー」の骨組みをなす金属の組み具合、それらに張られたキャンバス地の生地の色合い、そして何よりも、ややその「バギー」の適正年齢をやや超えてしまったような「著ぶくれ」の子供と、もしかしたら、若干「過保護」の傾きの見える(著ぶくれていること自体からも)子供と、その親の姿が目に浮かんでくる。作者は街で「おやおや」と微笑みながら見かけた「子供」の姿をそのまま写生したのであろうが、どこかに軽い批判精神のあることは否めない。(本井 英)

夏燕数をふやして高く低く   山口佳子

 季題は「夏燕」、といっても『ホトトギス 新歳時記』では、「燕の子」が親見出し。傍題として「親燕」があるばかりである。「夏燕」も傍題としてあって然るべしとは思うが、虚子編『新歳時記』以来、その辺りはあえて緩く扱っている。何故なら「歳時記」はある意味では「目安」、決して「バイブル」ではないからである。近年俳句の世界では何によらず厳密・厳格が流行っているようだが、もう少し「ゆったり」構えた方が文芸としては「楽しい」。

 さて春、南の国から飛来して、わが町を住み処と定めた「燕たち」。梅雨が明ける頃ともなると少々数が増えたようにも思える、というのである。頭で考えれば、当たり前で、燕達はせっせと営巣し子燕を生み、それを二度三度と繰り返す。そこを理屈でなく、実感として、目に映る映像として「数をふやして」と感じたのである。「高く低く」といった表現で実感が裏打ちされている。(本井 英)

ひとり食めばさみしくなりぬさくらんぼ  天明さえ

 季題は「さくらんぼ」、「桜桃」である。虚子の〈茎右往左往菓子器のさくらんぼ〉は有名だが、「さくらんぼ」の実の大きさ、彩り、茎の長さと撓み、その全てを一枚のスケッチの中に収めて見事と言うほかに言葉がない。一方「桜桃」の語から太宰治の小説「桜桃」を心に思い描くと、「さくらんぼ」の対極にある「何とも言えない、生きること自体の悲しみ」がゆらゆらと立ち上ってくる。

 大きさと言い、色合いと言い、味わいと言い、愛されずにはいない「さくらんぼ」。それらを「手拍子」のように口に運んでは、種を吐き出す楽しい時間。二人で、三人で、四人で摘めば、会話も弾む。そして、つまり「ひとり食めば」・「さみしくなりぬ」は必然の結果なのであるが、誰の心の中にでもある、普段は気付かぬふりをして「跨いで」通る「心のクレバス」に落ち込んでしまったような時間がはっきり描かれていると思った。花鳥諷詠の俳句とは本人すら気付かぬうちに、恐ろしい真理を描くこともある。(本井 英)

水に落ち水際に落ち桐の花   田中 香

 季題は桐の花。桐は鳳凰がとまる木として古来尊ばれてきた木。一方では箪笥や下駄の材料として大切にされ、その花の紫は遠くからでもその色と判り親しまれて来た。また、降り溜まった落花の香りも印象的だ。一句はその落花の様子を詠んだものだが、「水に落ち水際に落ち」のリズム感が独特で人の心を捉える。正確にはリフレインではないのに、類似した音が短時間に繰り返されるためにリフレインと同じ効果を上げ、さらに「水」と「水際」という異なる状況に落花している「桐の花」を脳裏に描くことで、その花の質量感と色彩感が、ありありと浮かんでくる。

 こう解説すると計算され尽くした措辞のように思うかも知れないが、そうではない。作者には気の毒な言い方になるかも知れないが、それは不意に「口をついて出てきた言葉」に過ぎなかったのだと思う。その思ってもいなかったフレーズを得たときに「これでいける」と判断した作者の力量は評価すべきである。偶然に近い感じで浮かび上がってくる「言葉」をしっかり摑む訓練を怠ってはいけない。(本井 英)