観念して家業に就きぬ酉の市  矢沢六平

 季題は「酉の市」。関西・九州方面の人々にはあまり縁が無いかもしれないが、東京では十一月の大事な行事である。特にお商売をなさっている家では大切にされ、縁起物の「熊手」は銭を「搔き込む」ということから、派手に飾り立てた「熊手」を大枚はたいて買うのも商売人の心意気である。一句の主人公はもともと家業を継ぐべく育てられて来たのであったが、本人の夢は別の方面にあり、何かと言っては「家業」を継がない方向で活動してきたもののようである。ところが何かの事情、例えば働き盛りであった父親が急逝してしまったとか、自分が志した方面への道が閉ざされてしまったとかで、結局「観念して」家業を継ぐことになったのである。そうなってみれば、ジタバタするのも恰好悪いと考えたのであろう。今日は「酉の市」にもお参りをして商売繁盛を願ったというのである。久保田万太郎あたりにでもありそうな、やや小説めいたストーリーの感じられる句であるが、それなりに「酉の市」の雑踏も空想できて面白い一句になった。(本井 英)

抱かれたる子猫瞬きせずに鳴く   櫻井茂之

「子猫」が春の季題である。ホトトギス編『新歳時記』では「猫は四季に孕むが、ことに春がいちばん多い。発情後約二か月で、三、四匹の子を産む」とする。筆者も近年子猫二頭に癒される日々を送っているが、言葉も通じないために「ミャア」と鳴かれると、切ない気分にさせられる。「抱かれたる」は「誰に」とは書かれていないが「自分」ではない。自分なら「抱き上げし」、「抱きとれば」とするのが自然。となると誰か他人が抱いている子猫に顔を近づけたのであろう。「瞬き」もしない子猫の眼が作者の眼とほぼ同じ高さにあるというところが、一句の味わいどころである。子猫の透き通った、円らな瞳がクローズアップされる。(本井 英)

生きて別れ死して別れて葉月なる  児玉和子

 季題は「葉月」。陰暦八月の異称である。近年の異常な温暖化が惹起するまでは秋の気配がしんみりと浸透する頃おいであった。一句の解釈のポイントは勿論「生きて別れ・死して別れ」。これを一般的な「さまざまの別れ」と解釈しては、やや浅薄な感じすらする。色々な「人」と「生き別れ」、「死に別れ」してととってはつまらないのだ。そこで、たとえば「ある一人の人物と」と設定するとどうなるだろう。ある時代に心を通わせて、肝胆相照らすというような心の交流のあった人物。ところが何かの事情で遠く離れて住まうようになった。それまでのように、ことある度に共に喜び、共に悲しむといったことは叶わなくなった。ところがその後、また長い時が流れて、こたびはその人の訃報がもたらされた。今度はこの世に残された作者と、その人物はまさに「幽明境を異にすることとなった」のである。さてそうなってみると、「生きて別れ」た時には味わうことのなかった、「とことんの別離」を全身で感じることとなった。そんな作者の身を「葉月」の「しん」とした空気が包んでいる。「生きていることと、死ぬること」を否でも応でも思い知らせる一句となった。(本井 英)

著ぶくれてこぼれおちさうバギーの子   田中金太郎

 季題は「著ぶくれ」。重ね着をして着ぶくれることである。普通には「着る」と書くが、正しい字遣いでは「著る」が相応しく、『虚子編新歳時記』でも『ホトトギス新歳時記』でも「著」の字を用いている。

 「バギー」は本来、オフロード走行可能な自動車を表す語であるが、近年ではやや軽便なベビーカーの一種の意味でも使われ、本句でもそのように使われている。

 いかにも近年の街角で見かけそうな景色として「著ぶくれ」た「子供」の姿が目に浮かぶ。「バギー」の骨組みをなす金属の組み具合、それらに張られたキャンバス地の生地の色合い、そして何よりも、ややその「バギー」の適正年齢をやや超えてしまったような「著ぶくれ」の子供と、もしかしたら、若干「過保護」の傾きの見える(著ぶくれていること自体からも)子供と、その親の姿が目に浮かんでくる。作者は街で「おやおや」と微笑みながら見かけた「子供」の姿をそのまま写生したのであろうが、どこかに軽い批判精神のあることは否めない。(本井 英)

夏燕数をふやして高く低く   山口佳子

 季題は「夏燕」、といっても『ホトトギス 新歳時記』では、「燕の子」が親見出し。傍題として「親燕」があるばかりである。「夏燕」も傍題としてあって然るべしとは思うが、虚子編『新歳時記』以来、その辺りはあえて緩く扱っている。何故なら「歳時記」はある意味では「目安」、決して「バイブル」ではないからである。近年俳句の世界では何によらず厳密・厳格が流行っているようだが、もう少し「ゆったり」構えた方が文芸としては「楽しい」。

 さて春、南の国から飛来して、わが町を住み処と定めた「燕たち」。梅雨が明ける頃ともなると少々数が増えたようにも思える、というのである。頭で考えれば、当たり前で、燕達はせっせと営巣し子燕を生み、それを二度三度と繰り返す。そこを理屈でなく、実感として、目に映る映像として「数をふやして」と感じたのである。「高く低く」といった表現で実感が裏打ちされている。(本井 英)