花鳥諷詠心得帖32 三、表現のいろいろ-7- 切字(芭蕉)

「表現のいろいろ」もいよいよ「切字」。

いよいよと言っても「心得帖」。句会の後の立ち話くらいのつもりでお読み頂きたい。
決して一世一代の「切字論」を展開しようというのでは無い。
まあ何時かはそんな論も立てて見たいが。

ところで「切字」は古く連俳の時代から結構やかましく言われ、「や」「かな」「けり」などがその代表的なもの、
一説に十八とも五十五とも数えられる。
句が「切れる」ところが「切れ」で、その「切れ」を明確に表現している助詞・助動詞の類が「切字」ということだ。
「切れる」という事に着目すれば形容詞や動詞の終止形は「切字」の資格ありという事になる。
前回までの「字余り」の話で「切れる」とか「一塊りになる」と言ったのと共通している部分も少なくなく、
「字余り」が音数律に手を加えることによって実現させていた「切れ」をもっと分かり易く助詞や助動詞で
表してしまおうという表現上のテクニックと考えていいだろう。

古来理論好きな連歌師などが「や」についても「切るや」「中のや」「捨てや」「疑いのや」などなどと
分析していったのに対し、芭蕉はそうした論の為の論を好まなかったと見えて「去来抄」中の
「故実篇」にこう言う。
先師曰く、切字に用ふる時は、四十八字皆切字也。用ひざる時は、一字も切字なし
と也

また「三冊子」中の「白雙紙」では、
切字の事、師のいはく。むかしより用ひ来る文字ども用ゆべし。連俳の書に委しくあ
る事なり。切字なくては、ほ句のすがたにあらず、付句の體也。切字を加はへても
付句のすがたある句あり。誠にきれたる句にあらず。又、切字なくても切るゝ句あり。
その分別、切字の第一也。その位は自然としらざれば知りがたし。

「去来抄」の方はそのままのことで判り易いが「三冊子」の方は若干解説が必要かも知れない。
理解のポイントは「ほ句」と「付句」の区別で、「ほ句」は「発句」、即ち連句の最初の一句。
この「発句」が独立して今の「俳句」になった訳だが、江戸時代には連句の方が俳諧師の表芸で、
芭蕉自身も発句だけなら自分より良い句を作る門弟はいるが、こと連句については
自分は他の追随を全く許さないくらいに優れているのだと自負している。

それに対して「付句」は連句で「発句」以外の句。
三十六句仕立ての「歌仙」なら「発句」以外の三十五句のこと。
古来「発句」には「切字」が無くてはならないし、逆に「付句」には「切字」があってはならないとされていた。
つまり「発句」でも「切字」無しで「切れる」場合がある、と言っているわけで、
結果として「去来抄」と同じ発言ということになる。