第零句集(第二集)」カテゴリーアーカイブ

湯浅善兵衛『枇杷の花』鑑賞 (渡辺深雪)

湯浅善兵衛『枇杷の花』鑑賞

                                渡辺深雪

 

 見たものを感じたままに素直に詠む、というのが俳句の大前提であれば、湯浅氏の句にはその模範とも言うべきものが多い。

 

小正月過ぎて工場ゆったりと   善兵衛

アジサイの群生雨を待ち焦がれ

 

 年明けの何処かのんびりした情感と、降りそうで降らない梅雨時のすっきりしない感じが伝わって来る。

 

 ありのままに見たものを詠むその姿勢は、景の大きく、かつ着想のユニークな句を作りだす。

 

どこからもグラジオラスに見つめられ  善兵衛

紅葉濃き多摩丘陵に抱かるる

 

花咲きほこる初夏の景と、紅葉に彩られた丘陵の姿が見えるのはもちろん、あたかも自分が「見つめられ」たり、「抱か」れたりしているように受け止めている所が面白い。

 

この写生に忠実たらんとする湯浅氏の姿勢は、特に旅先の景を描き出そうとする時に生きて来る。

 

煙突の古りし小倉の春浅し    善兵衛

沙羅の花木陰や仏陀の国に来し

 

 この句集を何度も読み返し、句から現れる景を楽しもう。湯浅氏がいかにこれを見て描いたのか、理屈ではなく体で感じて解るはずだ。

 

 

初暦あちらこちらに貼り替えて  善兵衛

 季題は「初暦」。知人や得意先からもらったカレンダーが、結構な数にのぼった。これは居間、これは便所という具合に、作者は家中を動きながら新しいものに貼り替えて行く。「あちらこちら」という言葉のリズムに、新しい年への胸の高鳴りが感じられる。

 

口数の少なき息子と試験待つ  善兵衛

 試験のプレッシャーが重くのしかかっているのだろう。息子が日に日に無口になって行くのを、親である作者は見ている。それでも作者は何も言わず、息子をただ黙って見守っている。その姿は、一緒に重圧に耐え忍ぼうとしているかの如くに見える。

 

汽車進むほどに田植ゑも進みたる  善兵衛

 「汽車」の走るのどかな田園地帯の情景。窓の景色を眺めていると、田植をしている人々の姿が見えた。やがて列車が進むにつれて、外に広がる水田が植えたばかりの苗でだんだん青く染まって行く。緑に染まる田園の風景が、風を切って走る汽車の姿と重なって、なんとも清々しい。

 

襖絵の脇涼風の過ぎてゆく  善兵衛

 「襖絵」の置かれている情景からして涼しげだ。部屋中に陰の下りた、大きな座敷の中にいるらしい。開いた障子から入る風が、襖絵の側を吹き抜けて行く。これを見て、いかにも日本の家らしい風情があるな、と作者は感じた。襖絵という舞台装置が、涼風の姿をありありと見せている。

 

新羅より移住の里の曼珠沙華  善兵衛

 新羅は十世紀まで朝鮮半島に実在した国家である。そこから渡って来た人々が移り住んだとされる土地に、紅い曼珠沙華の花が咲いていた。ここに来た渡来人たちも、この花を見ていたのだろうか、とふと作者は思った。伝承の地に咲く曼珠沙華の紅い花が、過ぎし時代への想像力をかきたてる。

 

まだ古き教室もあり柿もあり  善兵衛

 久しぶりに、作者は母校を訪れた。まだ建て替えられていない校舎の中は、なにもかもが昔のままだった。古い校舎の側にたつ柿の木も、昔と変わらず大きな実をつけている。

少年の頃をなつかしむ作者の思いが、秋の静かな学び舎の景を通じて伝わって来る。

 

連結の音の響いて冬立ちぬ  善兵衛

 大きな駅では、車両と車両を連結する時のカチャ―ンという音を耳にする人は多いだろう。駅のホームに立ちながら、作者もこの音を聞いた。が、その音はいつもに比べてやけに大きく響くような気がした。その音の響きに、これから冬が始まるのだなと作者は感じた。車両をつなぐ金属音が、初冬のもの淋しさをより強く印象付けている。

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.10」 湯浅善兵衛『枇杷の花』~誠実に~

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.10」 湯浅善兵衛『枇杷の花』~誠実に~

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 「夏潮第零句集シリーズ」の第2巻第10号は、湯浅善兵衛さんの『枇杷の花』。

 湯浅善兵衛さんは昭和三十八年生まれ。慶応義塾志木高校で本井英氏の国語の授業を受講、そのまま俳句の道に誘われそれ以来本井英に師事。慶應義塾大学俳句研究会に入会、以後「惜春」を経て「夏潮」に参加。今年の5月まで長年に渡り慶応義塾志木高校のOBで構成される「枇杷の会」の幹事を務められてきた。その朴訥で誠実な御姿は皆に知られるところである。

 湯浅さんは全く上手に詠もうとされていない。自らの心に映った季題をそのまま全うに詠み下している。幾つかの句は説明的であったり、推敲が若干不足していると感じる句(中八の頻出など)もあるが、それはそれで善兵衛さんが感じたリズムのまま句にされている証左であろう。そのような中にもしっかりと嬉しい景色を読者に想像させ楽しませてくれる句があるのも、花鳥諷詠の写生の道をご一緒させて頂くものとして嬉しい。

 

団体もぽつりぽつりの島の春 善兵衛

→季題は「島の春」。この「春」は「明の春」「老の春」とは違う、2月3日の立春以降の「春」を差すわけだが、この句の場合はどことなく旧正月の雰囲気の「春」の使い方。やはり旧正月の頃の様子ではないか、私には宮古島の様子が浮んできた。温かくなってきた春、それでも観光シーズンとしては外れている季節の島に幾つかの団体が来ていた。目的は分らないが人の少ない島の路地に固まった人数がいると目立つ。それでも、うるさいほどではない。

2月の宮古島と云えばオリックス・バッファローズのキャンプなどあるが、さすがにそれでは「ぽつりぽつり」ではないか。

 

山葵田の梯子を登り覗き見る 善兵衛

→季題は「山葵田」。山葵田は棚田や段々畑のように段を利用し水を流していく。そこに梯子がかかっておりご本人はこわごわと上ってみたのである。そしてそこから覗いてみた山葵田は緑と清流でキラキラとしていたのだろう。山葵田があるような谷の秘境感やひんやりとした空気まで描けていると思う。

 

枇杷の花遠くから見し寄りて見し 善兵衛

→季題は「枇杷の花」。初冬の花の少ない頃、何ともはっきりしない色の花をつける。枇杷の花と知らないと見過ごしてしまう「俳人向き」の花である。この句は遠くから見た際に厚ぼったい緑の葉の上にちょぼちょぼとさくクリーム色の花を見つけた。何だろうと思い、暫くたち作者は「枇杷の花」と認識した。そしてさらに近くに寄りしげしげと見上げる。何となく嬉しい気持ちになる句。

この句には類句があるかもしれない。しかしそれはそれである。この句こそ善兵衛さんの俳句を体現する全く肩の力が抜けた呟きのような俳句を代表する一句であり、その意味では善兵衛さんの「第零句集」の最後を飾るのに相応しい一句かもしれない。

 

その他、印をつけた句を以下に紹介したい。

 

手をつなぐ影が一つに初日影

スロープを上る息子や大試験

地図になきカミオカンデや山笑ふ

春の波来たりて磯を舐め尽くし

薔薇を見る人を見てゐる我のあり

ばあちゃんの買ひ物列車麦の秋

日盛にオオコンニャクの花序折れし

猪追ひの杭打つ村の残暑かな

まだ古き教室もあり柿もあり

錫の都と言われし個旧秋の暮

 (杉原 祐之記)

 

湯浅善兵衛さんにインタビューを行いました。

Mr.ZenbeYuasa

Mr.ZenbeYuasa

Q1:100句の内、ご自分にとって渾身の一句

  →地図になきカミオカンデや山笑ふ

 

Q2:100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み

  →この第零句集の機会を作っていただいた本井主宰と支援をいただいた読者の皆さんに感謝しています。

  今は夏潮会への投句や吟行会に参加して、自らの句作の回数を増やし、レベルを上げていきたいと思っています。

 

Q3:100句まとめた感想を一句で。

  →走馬燈句作が記憶呼び覚ます

 

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.9」 原昇平『アスパラガス』~逃げない男~

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.9」 原昇平『アスパラガス』~逃げない男~

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 「夏潮第零句集シリーズ」の第2巻第9号は、原昇平さんの『アスパラガス』。

 原昇平さんは昭和五十三年埼玉県生まれ。慶応義塾志木高校の授業で本井英氏の授業を受講、俳句の道に誘われそれ以来本井英に師事。噂によると、先輩の原昌平氏と同音異字の名前と言うことで強く勧誘を受けたとも言われる。大学では、慶大俳句の代表を務められ、個性的な先輩、同輩、後輩をしっかりと統率し会を運営されてきた。

 「夏潮」創刊以来、出版業務での業務知識を活用して頂き編集部の要としてご尽力いただいている。少しでも接したことのある人であれば、氏の誠実で、謙虚で、そして任された仕事は100%のクオリティで成し遂げる意志の強さを認めざるを得ない。

 そう、昇平さんは一見の腰の低さと優しさと共に、決して逃げない強い心を持っていらっしゃるのである。そのような、原さんの性格はこの100句にも現れている。己の主観に素直に、季題を通じて何事かを、決して奇を衒うわけではなく、沈着冷静に五七五の詩形を通じて表現されているのだと思う。

 これからも、そんな昇平さんはご自分で御自分のペースを勘案しつつ、着実に御自分の俳句を積み重ねていくことだと思う。

嘘つけば嘘の数だけ蛇苺 昇平

→季題は「蛇苺」。昇平さんにとっては珍しく観念が前面に出た句である。この「蛇苺」は名前こそ恐ろしいが、小さくて粒粒している実。社会人として暮していく中で、止むに止まれず嘘をつくことは多々あり、その嘘に嘘を重ねなければならない苦しさは誰もが体験しているであろう。沈着冷静で誠実で逃げることの出来ない昇平さんは、その苦みを蛇苺に託し表現した。蛇苺をかむとぷちっと赤い汁が飛び散り、服が汚れてしまったことも多々ある。

その時の御自分の主観が、写生を通じ季題「蛇苺」とピッタシ重なったときに出来た功句。

 

休講の屋上におり雲の峰 昇平

→季題は「雲の峰」。学生時代の回想の句であろうか。学生時代、高校、大学問わず休講と言うのは、何とも言えぬ開放感を伴ったものであった。筆者も昇平さんと同じ高校大学に通学していたので、その経験から下記の通り類推する。

その学校に少なからずある休講。その機会に校外に出て一日をそのまま校外実習に当てるものもをするもの少なくなかった。その後の時間に授業がある限りその義務を果たすべきと考える昇平さんは、そのような人のことはさておきリフレッシュするために屋上に上ったのである。校舎の屋上へ上る階段には物が置かれており薄暗く、秘密めいたものがあった。その階段を上った先の屋上には大きな雲の峰があった。そこで10-15分リフレッシュし、ご自分の次の授業の準備のみならず、校外実習に出て帰らない同窓生のために工作をする昇平さんの姿が想像される。

季題「雲の峰」が効果的に現在から回想へと読者を誘導してくれている。

 

真白なる皿に残りし梨の水 昇平

→季題は「梨」。掲句は確か昇平さんが「夏潮」で初巻頭を飾られた時の句だと認識している。

残っている梨の水と白い皿。眼前のものだけを描くことで、それまでの食べている光景を全て省略することに成功している。私は若い夫婦の休みの日の朝食の光景を想像した。「梨」という豊潤な果物から溢れ出た水の瑞々しさが眩しい。この句も誠実、沈着冷静な昇平さんならではの一句。

 

その他、印をつけた句を以下に紹介したい。

 

木蓮の白さばかりが雨の中

空蝉の脚の一本欠けてをり

嘘ついて四月一日始まりぬ

潰れたる柿のぬらりとしてをりぬ

アネモネの芯の黒きに触るゝ指

底紅の底に残りし雨滴かな

ブラウン管越しの男の赤い羽根

晴るゝの日の少なくなりて神の留守

狛犬の脚に冬日の温みかな

寒鯉の水面に触るゝことのなく

アスパラの穂先で空に落書す

 (杉原 祐之記)

 

Mr. Shouhei Hara

Mr. Shouhei Hara

原昇平さんにインタビューを行いました。

Q1;100句の内、ご自分にとって渾身の一句

  →アスパラの穂先で空に落書きす

渾身というのではありませんが、句集名のもとになった句でもあり、

大事にしている句の1つです。

 

Q2;100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

→「花」の句はもちろんですが、もう少し「鳥」の句も詠んでいきたいと思っています。

 

Q3;100句まとめた感想を一句で。

→一つ摘み一つ捨てては蛇苺

『アスパラガス』読後感 (矢沢六平)

   第零句集『アスパラガス』を読んで

 快感俳句を読む快感

                   矢沢六平

 

木蓮の白さばかりが雨の中

 本井先生の序文によれば、この句は作者が高校生の時の作という。さぞかし驚かれたことだろう。端正で、立姿のすっきりと美しい、名優を見るかのような俳句である。

 これを、高校生が作ったなんて…。

 

 ただ端正なばかりではない。この句の真骨頂は『集中力』にある。

 雨模様という大きな景があり、その中の花咲く木蓮の木一点に、グーッとフォーカスが絞られていくことで、白さが際立った。際立たせることで、読者に強い印象を残すことに成功しているのだ。

 

 こうした、ある一点に「焦点を集めていける」集中力は、慶大俳句研究会の伝統であるのかもしれない。出身者の俳句にしばしば見られる特長で、文学的な俳句(人事ばかり詠むという意味で)一本槍の私などには、到底真似することができない。

 王道であり、研鑽の賜物であると思う。

 

 夏潮誌上で見て、ながく私の心に残る句があった。

 白い皿の上に(透明な)梨の水だけが残っている、という俳句だ。作者はもちろん、昇平さんであった。

真白なる皿に残りし梨の水

 白の上にわずかに残る透明に視線を集中させていくという、『フォーカス力』が、いかんなく発揮されている。印象的で、なんとも感じのある名句に仕上がった。

 

 写真の撮り方のひとつに、「ナメル」というのがある。

 ○○越しに撮る、ということで、その物体の先にある被写体をよりいっそう印象づける手法だが、言うなれば…

ブラウン管越しの男の赤い羽根

 という俳句が、ほぼこれに等しい。

 ある男の胸に付けられた赤い羽根に気が付いた時、それをテレビ画面の中に置くことで、視線が集中する効果を生み、きわめて印象的な「赤」になるわけである。

 

 ナメルのは、露出やら焦点距離やら、いろいろな適正値を算出した上で撮らなくてはならないので、素人にはなかなか難しい撮影方法の一つだ。

 次の句に注目してほしい。

 「指」を出してきたところが凄い。カメラでいうところの、「絞り」の役割を果たしているのだと思う。

アネモネの芯の黒きに触るる指

 

 指の先にアネモネを配置したことで、私たちの視線は、芯の黒へぎゅう〜っと集中していく。

 カメラのファインダーを覗いて、レンズリングを回していくと、やがてピントが合い、ぼやけていた画面がクッキリと像を結ぶ。あの『快感』が、この俳句にはある!

 花弁の赤と蕊の黒…。指…。蠱惑的、という以外の言葉を思い付かない。

 句集中、随一を挙げるなら、ぜひともこの句としたい。

 

 久々に「秒殺」されました。私の完敗です。

 私に、「ピントが合う快感」を堪能させてくれた句を書き写して、筆を擱くことと致します。謝々。

 

木犀の花降るところ土黒し

飛石に零れて軽し百日紅

緑陰の鉄棒の端錆びてをり

青梅の転がる先の青梅かな

ためらひの鋏を入れて鶏頭花

酉の市のおかめの頬にひそと影

水面に桜の像の結ばれぬ

花屑を転がす風の絶ゆるなく

鉄塔の尖の刺される冬の空

狛犬の脚に冬日の温みかな

アスパラの穂先で空に落書きす

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.8」石神主水『神の峰』~ちよと甘めに~

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.8」石神主水『神の峰』~ちよと甘めに~

 「夏潮第零句集シリーズ」の第2巻第8号は、石神主水さんの『神の峰』。

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 石神主水さんは昭和四十八年千葉県鎌ヶ谷市生まれ。大きな梨畑に囲まれて過されてきた。慶応義塾大学入学後、俳句研究会に入会。代表などを務める。学業も考古学を専攻し、現在はその道のスペシャリストとして知る人ぞ知る学者であられる。慶應義塾大学には博士課程まで所属していたこともあり、幅広い世代の後輩の面倒を見てこられた。私もその面倒を見て頂いた一人である。

 私は常々主水さんからしっかりものを見ることの大切さを教わってきた。それは考古学というまさに時空を越えた「もの」を扱う分野を志す学者としての視点であろうか。その一で大変ロマンティックな輝かしいような、甘いような句も多い。しかしながら、それらの句の多くは甘くなり過ぎないよう抑制されている。それは何故なら、季題の斡旋が的確であり、一区の中でその重みを失っていないからであろう。

 主水さんはキャリアの中で、本井英のほかにも、高木晴子氏、高田風人子氏などにも師事しており、その教えの中で個性を発揮されているのだろう。

下闇の先ゆく君の腕白し 主水

→季題は「下闇」。「君」とは彼女であろう。主水さんの俳句には「君」が頻出する。この句は甘いだろうか、確かに甘い。しかしながら、「下闇」という周りが明るいからこそいっそう暗く感じる場所、そこに浮かぶ女性の腕の白さということで、何とも言えぬエロティシズムを表現することに成功している。

 

店じゆうがイルカ見にゆき春の潮 主水

→季題は「春の潮」。この句もエロティシズムを感じる。特に上五の「店じゆうが」にである。「春の海」ではなく、「春潮」にイルカという可愛らしく知的な哺乳類が泳いでいる。ただ漂っているのではなく、イルカは海面を跳ねたりしかなり動きがある。そんな愛らしいイルカを見に他のお客が出払ったお店に二人だけ残った「僕」と「君」。

 

枯芝のベロアの如き起伏かな 主水

→季題は「枯芝」。ベロアはVelour と呼ばれるビロードに似た毛皮の素材。枯芝の丘に冬日が差し込んできてる。その日差しは角度があり、枯芝の丘の起伏を艶々と照らしている。この句もそこはかとなきエロティシズムが存在している。

 

 御伴侶やご子息も得られ、学業でもご多忙な用であろうが、句作のペースを保ち早期の第一句集の刊行を心待ちにしたい。

その他、印をつけた句を以下に紹介したい。

 

負け蛍ぽつりと一つ葉ごもりす

大根の干され始めの白さかな

梅の香のわつと山門ぬけて来し

永き日の磨きこまれし廊下かな

春浅し発掘現場砂嵐

幸せな恋などなくて業平忌

芝区てふ表示のありて四葩かな

大花野行けば誰かに逢へさうな

枯芝のベロアの如き起伏かな

自炊部に野太きつららありにけり

西の空見る蚕豆のゆでるまで

長き眉引きさめざめと泣く師走

古伊万里のかけら打ち寄せ春浅し

山眠るけもののごとき肌もて

湖に向く村の惣墓班雪

神の峰霧生れてまた霧生れて

(杉原 祐之記)

 

石神主水さんにインタビューを行いました。

Mr. Mondo Ishigami

Mr. Mondo Ishigami

Q1;100句の内、ご自分にとって渾身の一句

  →雛くるむ古新聞の昭和かな

  渾身というか、明治・大正と来て、ついに昭和も遠くなったなぁと思うと感慨深

い句です。

 

Q2;100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

→第一句集の刊行。。。還暦くらいかねぇ()

 

Q3;100句まとめた感想を一句で。

→春風に新しき歩を踏み出して 主水