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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第83回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

指先に蕗のあくつけ夕仕度
よき妻を見て、愛情に充ちて、お詠みになった句だろうと思います。たしかに蕗は扱っているうちに、あくが出てきて、指先に入ってしまう。よく詠めていると思います。
新緑や走り来る児の眼の清き
元の句、「新緑や走り寄る児の」。こういうことは単なることばの約束なんで、つまり「走り来る児」だと、こちらに向いてくる児を見て、眼が清いということがわかる。「走り寄る」というのは、自分の方に来るのではなく、第三者的に見ていて、眼が清いというのは頭で考えているだけで、嘘になる。「走り来る児」とすれば、この句が活きてくるということです。俳句会で、人に読んでもらう。そうすると自分は当たり前だと思っていたことが、人には通じない。自分では伝わると思っていたことが、人には伝わらない。だから、俳句会をやる意味があると思いますね。
王冠の空飛ぶごとく朴の花
これでいいんでしょうね。ひじょうに斬新な表現。「王冠の空飛ぶごとく」と言われてみれば、朴の花の豪華な感じは、そんな空想を思い描いても、不思議はないという感じはいたします。「王冠の空飛ぶごとし」とやると、どこかへ吹っ飛んでしまって、わけわからなくなってしまう。やはり、「ごとく」なんでしょうね。    
苗を待つ田に満つる水光るなり
これはちょっと手を入れ過ぎて、ごめんなさい。元の句、「苗を待つ田に満つ水面光るなり」。元の句で一番いけないのは、「水面」です。「田に満つ水面」というと、ごったらごったらしてしまう。田んぼは要らないかもしれませんよ。「苗を待つままに水面の光るなり」。掲句のようにすると、「満つる」と「光る」だと、うるさいですね。とにかく単純に作ることですね。
ピリピリと動く水輪や蝌蚪の池
これ、うまかったですね。作者の今日の句では、これが一番いいのかもしれませんね。まだ蝌蚪が小さい時に、大きくなるとひょろひょろ動くから、ぴりぴりとしません。生まれたばっかりのおたまじゃくしが全部が動くと、細かく揺れるんですね。それをピリピリと言ったことで、よっぽど小さいおたまじゃくしだということがよくわかる。ピリピリという擬態語がほんとうによく活きているということで、作者の今日の句で一番いいでしょう。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第24回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

朴咲いて白馬村なる日和かな
元の句、「白馬の村の日和かな」。『白馬の村』というと、『白馬の騎士』みたいになってしまって、あるいは、白い馬がたくさんいる村みたいになってしまいますね。白馬の村はちょっと無理でしょうね。もしかして信州の白馬村だとすればね。そうしたら、白馬村とおっしゃらなければ無理なんで、掲句のようにすると、なるほど、栂池とか、天気がよければ、上の白馬槍とか杓子とかが見えている。その日和も、想像できると思います。
雨音に明日の牡丹を思ひをり
牡丹が庭に咲いてをった。今日はきれいだった。雨音がしてきた。どうだろう。明日見てみよう。こぼれてしまった花弁があるかもしれないなー。だからと言って、シャッターを開けたり、雨戸を開けたりして見るわけではないんだけれど、頭の中で、今日一日見ていた牡丹と、明日の朝の変わり様を、心配しながら、雨音を聴いているという句。元の句の「思ひやる」だと、ちょっと違う。「思ひやり」とか「思ひやる」だと、情が籠り過ぎてしまって、味が濃くなってしまう。「思ひをり」と少しクールにしてしまった方がいい。
京御幸町上ル西入ル新茶買ふ
どこだか存じませんが、上ル西入ルで、大きな碁盤の目から外れていない部分だということが、この表記の仕方でわかる。古い葉茶屋さんがあって、わざわざ買いに行った。おそらく京都の人皆が好む、新茶が宇治から運ばれて、京の 町中で、売られているのであろうというところまではわかりますね。
密柑山の花の香りに誘はれて
これ、最初から「密柑山の」と字余りでしたね。大分、表現のコツを飲み込まれたことを、嬉しく思います。「密柑山花の香りに(後略)」では歌謡曲になっていってしまう。「密柑山の花の香りに」とすると、突然上品になって、その香りがひじょうにいい香りで、たまたま上る気はないんだけれども、あまりの香りのよさに、「ちょっと上ってみようか」というので、畑につれて上ってみた。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第23回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

なめくぢの通りし跡か光りをり
元の句、「通りし跡や」。『跡か』がいいでしょうね。「や」にすると、切れ字みたいになってしまう。切れ字の「や」にしてしまうと、『跡だー。』と言っておいて、「それが光っている」というと、しつっこくなってしまう。「なめくぢの通りし跡か光りをり」というと、「光りをり」が強くなりますね。「や」で切るのではなくて、「か」と軽い疑問で、止めておく。それがいいと思います。たしかに光っていますね。乾いてね。
蛞蝓の跡らし壁をぬめぬめと
元の句、「(前略)壁のぬめぬめと」。壁全部がぬめぬめとしていたら、気持ちわるいわね。通った軌跡がぬめぬめと見えたとする為には、掲句のように。元の句だと、壁全体、おそろしい景色になってしまう。
橡の花チャペルの庭にこぼれけり
これも面白い句ですね。もちろん、日本のどこか山国の、信州かどこかの小さい庭にチャペルがあって、橡の花がこぼれてをった。信州でなくてもいいんですが、橡の花というのは、マロニエとが仲間という意識がどこかにあって、どこかフランスのチャペルのそばにマロニエが咲き誇っているなんていうのは、いくらでもありそうだけれども、マロニエの花でなくて、橡の花が日本のチャペルの庭にこぼれてをったというと、どこかで遠いイメージとして、西洋のマロニエと栃の花の微妙な気分みたいのがあって、面白いと思いますね。「庭にこぼれけり」で、もしかしたら、そこで今日は結婚式がささやかに行われているのかもしれません。そんな連想も楽しく湧いてくる句だと思います。
蟻つかみそこねたる児のつんのめる
これ、あるんですね。一つ半くらいの児でしょうかね。真下ならいいんだけど、ちょっと先の蟻を掴もうとして、前のめりになったら、まだ頭が重いし、脚力がないから、なるほどこれは実景だったと思いますね。空想でこういう句はできないと思いますね。そして「つんのめる」という言い方も平易で、よろしいと思います。小さい児のむちむちした足首が見えてきますね。
朴咲いて白馬村なる日和かな
元の句、「白馬の村の日和かな」。『白馬の村』というと、『白馬の騎士』みたいになってしまって、あるいは、白い馬がたくさんいる村みたいになってしまいますね。白馬の村はちょっと無理でしょうね。もしかして信州の白馬村だとすればね。そうしたら、白馬村とおっしゃらなければ無理なんで、掲句のようにすると、なるほど、栂池とか、天気がよければ、上の白馬槍とか杓子とかが見えている。その日和も、想像できると思います。