第零句集(第一集)」カテゴリーアーカイブ

夏潮『第零句集』(第一集)の紹介です。

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.10」 信野伸子『日焼け』~明るく~

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.10」 信野伸子『日焼け』~明るく~

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 「夏潮第零句集シリーズ」、第一巻の最後を飾る第10号は信野伸子さんの『日焼け』。

信野さんは昭和50年生れで、広島県福山のご出身。慶應義塾大学入学後、文学部で同じ専攻であった八木陽介氏や藤永貴之さんに誘われ、慶大俳句に入会。それ以来本井英に師事。「惜春」「山茶花」への投句を経て、平成19年の「夏潮」創刊に運営委員として参加。

途中、JICAのボランティア・プログラムに応募され、2年間コスタ・リカで日本語教師をなさるなど、大変行動的な方であり、俳句も向日的で明るい句に佳句が多い。

窮屈なリズムの句は少なく、定型の容量を理解し、その中で自分のポエジーを発揮されている。一方、恋の句などでは個人の主観が強く現れてしまっており、ごつごつした感じが否めない 。

日焼けして腕まくりして教師たり 伸子

季題は「日焼け」。句集のタイトルにもなった一句。コスタ・リカで日本語教師をされていた時の己を描いた俳句。異国、それも日本にとって馴染みの薄いコスタ・リカで良い緊張感を持って仕事をなさっていたことがよく伝わる。

にこりと笑っている信野さんの様子が目に浮かぶ。勿論、「して」の繰り返しでリズムを弾ませている点がこの句の心地よさを増すことに成功している。

また「日焼け」は名詞ではなく、動詞で使われている点もこの句の場合は成功していると思う。

凍雲の押し畳まれて鈍く濃く 伸子

季題は「凍雲」。信野さんの写生の目は常に冷静である。

冬の暗く不気味な雲が西側(または海側)に浮かんでいる。その様子を中七で的確に写生した上で、下五で印象を明瞭にすることができた。

信野さんのことなので、何か大きなチャレンジをしようと決心をなさった時の一句かもしれない。

色々な事柄に常にチャレンジされて行く信野さんであるので、いつ頃拝見できるか分からないが、ぜひ第一句集を拝見したいものである。

くたくたの英字新聞秋暑し

たとふれば勝気な女沈丁花

打水の終ひはバケツ放るごと

倒れたる稲架の穂束の泥まみれ

風邪の声聞けば逢ひたくなりにけり

浮輪して横断歩道渡りをり

うそ寒や組みたる足に手を挟み

散りばめて膝の高さの吾亦紅

向日葵の種の皮吐き冷房車

降り出して紅くけぶれる桂の芽

(杉原祐之 記)

信野伸子句集『日焼け』を読んで~稲垣秀俊

信野伸子句集『日焼け』を読んで~稲垣秀俊

信野伸子さんとは、慶大俳句の合宿でお会いしたことがある。本書の序で岩松教授が書かれているように快活な方で、元気を分けて頂いたこともしばしばであった。

 俳句のほうでも、しっかりした観察がありつつも、ユーモアを感じさせる句が多い。

打水の終ひはバケツ放るごと

柄杓で掬えないほどの水量になってから、残りの水も足元に流すのではなく、「放るごと」撒き散らすというのは、打水ならではの景であり、観察眼の光る写生句である。

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蟻の列日曜日とは人のこと

週末に外出すると、蟻は曜日にかかわらず甲斐甲斐しく働いている。それを「日曜日とは人のこと」と叙すことによって、蟻には蟻の、人には人の都合があるというユーモアが感じられる句になっている。

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日焼けして腕まくりして教師たり

本書の表題句である。「~して」と繰り返すことで力強いリズムが生じ、日焼けという季題が前面に出てくるため、この句がコスタリカで詠まれた事を知らずとも、どこぞの田舎の体格のいい先生の姿が見えてくる。

夏暖炉寄れば今日ゐぬ人のこと

避暑地の宿でのことであろうか。夏暖炉を囲んで、この場に来られなかった人の消息について云々している景は、いかにも夏休みの1コマといった感じがする。

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一方で、女性らしい繊細な感性を窺わせる句もある。

あぢさゐに生まれきたりし水の色

アジサイは梅雨時に咲く花で水との結びつきが強く、また色彩が淡いため、「水の色」と言い切っても違和感を生じない。これが他の植物ではこうはいかないであろう。また水の循環についても思いを致すことのできる句になっている。

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暗がりの肌脱ぎと目の合ひにけり

こちらは満州で詠まれた句である。肌脱ぎで涼んでいる男と目が合った瞬間が句になっている。「暗がり」が句全体によく利いているため、偶然視線がぶつかったというよりは、他人にじろじろ見られ、詠み手がアウェー特有の居心地の悪さを感じていたことを推測できる。

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(稲垣秀俊記)

第零句集『日焼け』を読んで         矢沢六平

第零句集『日焼け』を読んで         矢沢六平

 信野伸子さんに初めてお会いしたのは、かれこれ十年くらい前の慶大俳句の石の湯合宿で、キュートでアクティブな元気女子、というのがその第一印象でありました。そして、先達ての夏潮新年会で久しぶりにお目にかかりましたところ、そこが全く変わっておらず、大変うれしく思いました。元気一杯の女性の姿は、しばしば僕らおじさんに勇気を与えてくれます。なんだかこちらまで溌剌としてまいりました。
 だから、ちょっと意外と言うべきなのか、いやいやだからこそなんだ、と言うべきなのか。句集中に一見、東京ヘップバーンな詠みっぷりの俳句がいくつかあり、まずそれらが僕の琴線に触れてきた。
 風邪の声聞けば逢ひたくなりにけり
 お喋りな男はきらひ菜種梅雨
 夏暖炉に寄れば今日ゐぬ人のこと
 雷を前に問ひただしたき事のある
 お分かりいただけたと思うが、これらはすべて季題がよく効いている。したがって、ヘップバーンでもサラリーマン川柳でもない、正真正銘の俳句なのである。
 (だがしかし、今僕が言いたいのは、そことは少し違う。ごめんなさい)
 僕の場合だけかもしれないが、俳句に対して、いわゆる感想というものを抱くことがほとんどない。「これはいい句だなあ」と思い、その感触がしばらく続いて、…それでお終いである。そこが小説や詩に対しての場合と違う。
 しかし、ほんのときおり、具体的な感想を抱く場合がある。
 僕は常々、「一度でいいから、三年くらい、女になってみたいものだ」と思っている。この世の中の人や物や事が、女の人にはどう見えているのかを知りたくて堪らないからだ。興味津々なである。
 さて上掲の句。
 きっと、これらを読んだ女性たちは「そうそう。そうよねえ…」と膝を打っているに違いない。そして口々に、その感想を具体的に述べ合うのだ。そこが知りたい!
 でも、無理なんですよねえ…。
 だから作者さん、そして全国の女性の皆さん、一度でいいから僕だけにこっそり、そこんところを教えてください。
 お返しに、恋に仕事に頑張った元気男子だった頃のことを思い出して、ここに男の感想戦を公開しておきます。
風邪の声聞けば逢ひたくなりにけり
 電話の声はその人と分かるが実際の声とは少し違う。風邪ひきとなればそれは尚更だ。だから本人に逢いたくなったのだ。(同情を買おうという作戦は、ことごとく失敗だったなあ。見え見えだったんだなあ)
 お喋りな男はきらひ菜種梅雨
 なるほど菜種梅雨がよく付いていると思う。卯の花腐しでは、鼻白んでしまう。(何かを取り繕ろおうとするとき、必ずお喋りになってしまったなあ。だから見破られてしまうんだな。俺の場合、昔は悪かった、という自慢話はしなかったな)
 夏暖炉に寄れば今日ゐぬ人のこと
 炎は人を思索的にさせる。だから人は炉に寄って来るのですね。(逢っていないときも想われていたことがあったなんて、考えたこともなかったなあ。そんな発想がなかったんだ)
 雷を前に問ひただしたき事のある
 この「前」は、イン・フロント・オブではなく、ビフォアですね。雷鳴が轟いてしまえば、あとはだんまりしかないから。(言ってる事とやってる事がてんで一致してなかったなあ。今もそうだなあ)
 もっとお姉様な、アラサー俳句・アラフォー俳句ともいうべき名吟もありました。
  たとふれば勝気な女沈丁花
  著膨れて女の厄の話など
 これは、男でも女でも作者たりうると思いますが、僕には到底詠めません。深くて、かつ感じのある句だと思います。感服いたしました。
 一日に葉書一枚灯火親し
 この句に出会う数日前、新聞のコラムに永六輔さんが渥美清さんの思い出を書いておられました。
 渥美さんは旅先で毎日必ず手紙を書いたそうです。文面はいつも同じで、「お袋。俺。元気だよ」だったそうです。簡潔にして、言いたいこと伝えたいことは全部書いてある。
 まさにこの句のことであり、人の愛と優しさが心に染みわたります。
 前回の青木百舌鳥くんの回で僕は、「モズ君は食うことが大好きなんだな」と書きましたが、今回はこう思います。
 「のんちゃんは、人が、生きていることが、好きでたまらないんですね」
 それが、序文で岩松先生が仰っている『冷静にをかしく見ている』姿勢になって現れているのだと思います。
 くたくたの英字新聞秋暑し
 少年の輪の真ん中のばつたかな
 打水の終ひはバケツ放るごと
 浮輪して横断歩道渡りをり
 秋風や背中で話聞いてゐる
 日焼けして腕まくりして教師たり
 冬帽の人ふり返る似てをらぬ
 少し趣の違う句として、こんな句もありました。
  湧きおこる土の匂ひや夕立来る
  初旅は先住民の村祭
  ワンピース干しある庭の酔芙蓉
 俳人は、アーキテクトではなく、宮大工であるべきだ。
 僕はこの頃、そんなふうに思います。僕達に求められているのは、まずは先人が受け継いできた「技術」を習得し、そしてそれを次代へ引き継いでいくことなのではないのか。作るべきは『スカイツリー』という目新しさやオリジナリティーではなく、見慣れてはいるが見れば見るほど美しい『五重の塔』。
 伸子さんのこれらの句は、僕らが受け継ぎ、受け渡していかなければならない花鳥風月という五重の塔を建てるのに必要な、写生・写実という鑿の技を、すでに会得しているように思いました。
 俳句という「技芸」をおおいに堪能できる句集でありました。読ませてくれてありがとう!
 順番が逆になってしまいましたが、今回の『秒殺句』を書き写して筆を擱くことと致します。
  炎天のかの日も斯くや太田川

青木百舌鳥『鯛の鯛』鑑賞_渡辺深雪

青木百舌鳥『鯛の鯛』鑑賞    渡辺深雪
 俳人としての青木百舌鳥氏の経歴は長い。この句集に掲載されているどの句をとっても多彩に富んでいる。何より句集全体を通じて、独自の世界のようなものが感じられる。他とは違う趣のある同氏の句を論ずるのは容易ではないが、できる限りその魅力に迫って行きたい。
青木氏の句作を特徴付ける要素のひとつに、まず独自の視点がある。
人多くあれど噴井の水の音 百舌鳥
伐られたる株の平らや落葉中
人のざわめきの中で聞こえて来る音からは、噴井の水の勢いが伝わって来るし、その冷たさも想像できる。また株を中心に置くことで、かえって落葉に埋もれた地面の様子が見えて来る。いずれも視点を少しずらすことで、景の見える句を作り出している。
こうした独自の視点から生まれた句には、時に不思議な世界のようなものを垣間見せるものが多い。
枯木あり月あり海の底の如 百舌鳥
先生の傘か花野に動かざる
 冬の夜の情景は、なるほど何もかもが静かに眠る暗い海底のようにも見える。師匠が置き忘れたに違いない花野の傘も、ずっとそこで花を見ていたいという持ち主の想いを代弁しているかのようだ。独自の視点からとらえた情景が、想像する楽しみをもたらしている。
 独自の視点から生み出される青木氏の句には、ユーモアやおかしみを感じるものも多い。
僧正の豆撒きこぼしたまひけり    百舌鳥
猫迎へ来たりてくしやみくしやみかな
 豆撒きの行事に現れたいかめしい僧正の失敗が、「たまひ」という敬語を用いながら皮肉を効かせて描かれている。猫アレルギーの人間が二回続けてくしゃみ(くさめ)をする様子も、「くしやみくしやみ」と同じ言葉を繰り返してコミカルに表現されている。
 青木氏の句を特徴付けるものはこれだけではない。句作を通じて経験を積み重ねて来た同氏の句には、人生に対するある感覚のようなものが感じられる。
別れたる子猫ふり返りもせぬよ 百舌鳥
人生きて病ひも生きぬ永き日を
 親猫の元から巣立つ猫、病と共に春の長い午後を過ごす人の姿を通じて、四季と共にうつろう世に対する作者の想いが見てとれる。ともすれば主観的になりがちなこの感性も、客観写生という原則の中で、抑制の効いた深みのある描写に変わる。
浮く羽をとどめて春の水の綾  百舌鳥
草舐めし風に糸とんばう消ゆる
 春の水のやわらかさ、糸とんぼのはかない様子が、それぞれ水の上に浮く羽と、そっと吹く風の中に『消える(消ゆる)』描写により見事に表現されている。独自の視点と豊かな感性が、季節の気分を伝える味わいある句を作り出しているのだ。一見シンプルに見えるこれらの句は、俳句の本来あるべき姿を映し出しているのである。
明日雪とスープ煮ながら思ひけり 百舌鳥
 季題は『雪』。が、肝心の雪そのものは描かれていない。描かれているのは、体を温めようと夕食のスープを作っている情景だ。作者は美味しそうにスープが出来上がるのを見て、明日雪が降ると天気予報で言っていたのを思い出した。台所の冷たい空気の中、白い湯気を立てるスープが作者にこれを思い出させたのだ。熱いスープを作る様子が、これから降る雪を予感させるところが面白い。
夏草のぼつぼつ生ふる売地かな 百舌鳥
 以前人のものであった土地が、何らかの理由で売りに出されているのだろう。ここにあった建物はすでに取り壊され、跡には青い夏草が少しずつ生え始めている。夏草といえば、芭蕉の『夏草や 兵共が 夢の跡』という句があまりにも有名であるが、草が生えるだけとなったこの売地にも、人の世のはかなさがよく表れているではないか。地面に生える夏草は、人の営みには目もくれずすくすくと成長して行く。いつの世にも変わることのない自然の姿が、この句には描かれているのである。
日溜りをうはすべりして春の水 百舌鳥
 雪解けの水が川や湖に流れ込むこの頃、温かな春の光が少しずつ差し始める。作者がふと水辺に目をやると、陰一つない日溜りの中にやわらかな春の水が流れていた。川の水はなめらかに、日溜りの上をさあっと滑って行く。日溜りの明るさと温かさが、春の水の軽やかさを際立たせているようだ。おだやかな春の情景を描いたこの句の中に、作者のものを見る姿勢と描写の巧みさを見ることができる。
平滑な風を得たりし蜻蛉かな 百舌鳥
 涼しい秋に蜻蛉はよく似合う。さわやかな風を受けて飛んでいるのを見ると、秋の訪れをしみじみと実感する。さて蜻蛉が飛ぶのを見ていると、そこに一筋の風が吹いた。風に流されながら、蜻蛉は気持ちよさそうに飛んで行く。これが作者の眼には、文字通り蜻蛉が『風を得た』ように見えた。一見説明調にも見えるが、蜻蛉が風と戯れる澄み切った秋の情景を、この句は見事に描き出している。
剥製の熊にしてこめかみに孔 百舌鳥
 季題は『熊』。北国の裕福な家庭かそれとも郷土博物館の中か、大きな熊の剥製が生前さながらの姿で立っていた。ふとその頭に眼をやると、こめかみに穴のようなものが開いていた。それがこの熊を倒した弾の貫通した跡であることに、作者はすぐ気づいた。それが無かったことであるかのように、剥製の熊は堂々と立っている。かつてこの熊が生きていた証であるこの穴を通じて、なにか触れてはならない深淵のようなものを作者は垣間見たに違いない。
清水くみ受けたる缶の冷たかり 百舌鳥
 暑い夏の一日、涼を取ろうと山の湧水を手ですくった者は多いだろう。岩間から流れ出る清水は、痛みを感じるほどに冷たい。が、これが熱い日差しの下では何とも心地よい。後でゆっくり味わおうと、この水を缶で汲み取った。すると清水を汲み取った缶そのものが、急に冷たくなるのを感じた。その冷たさがまた気持ちよい。清水の清涼感が、手触りの感覚を通じて読む者に伝わってくる。
踏跡の尽きて枯野のあるばかり 百舌鳥
 季題は『枯野』。誰かが先に足を踏み入れたのであろうか。何もかもが枯れ果てた野原に、人の足跡が続いているのが見えた。作者がこれをたどって行くと、突然枯野の真ん中で途切れてしまった。周りを見渡すと、ただ荒涼とした大地が広がっているばかりである。足跡の主はこの光景に幻滅して、あるいは恐怖のようなものを感じて引き返したのだろうか。途中で止まった足跡が、『あるばかり』という言葉の余韻と共に、枯野の物寂しい情景を際立たせている。
蛤の開けば湯気吐く網の上 百舌鳥
 『蛤』は春の季題。一言で言えば美味そうな描写である。海に近い店かどこかで、とれたての蛤を網焼きにしているのだろう。固く殻を閉じていた蛤も、熱さに耐えかねたのかゆっくり殻を開け始めた。すると真っ白な湯気が、開いた蛤の中からじゅうという音と共に上がった。勢いよく立ちのぼる湯気の下で、蛤は相変わらず網に横たわって焼かれている。蛤から上がる白い湯気が、ある意味で春の訪れを告げているように感じられる。
あめんぼの底の影こそよく見ゆれ 百舌鳥
 季題は『あめんぼ(あめんぼう)』。最近では、都市化と共に小さな川のほとんどが暗渠となり、この虫を見る機会も少なくなった。さて、あめんぼは水の上を結構早く泳ぐので、なかなか人間の視界に入りづらい。が、作者が覗いた水の底には、あめんぼの影がはっきりと映っていた。水底に映るこの影は、水面の本体よりはるかにあめんぼらしい形を見せている。人とあめんぼ、生命と生命が戯れる小川の水の澄み切った様子が、水底の影を通じて浮かび上がる。
稲穂よく稔り葉先のよく尖り 百舌鳥
 『よく稔り』『よく尖り』という言葉のリズムが、稲穂の波打つ様子をそのまま連想させる。あたかも作者自身が風となり、目の前の稲穂を踊らせているかのようだ。よく尖ったその葉先は、稲の出来が非常によいことを表している。尖った葉先が風に吹かれて揺れるのも、見る者にとっては何とも心地よい。まもなく、美味しいお米がここから沢山採れるのであろう。作者独特の言葉のリズムと、確かな観察眼が生んだ秀逸な句である。
 今回の鑑賞を通じて、写生という行為のあり方を改めて学んだ気がする。これからの句作を通じて青木氏の句がどう進化して行くのか、楽しみである。

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.9」 青木百舌鳥『鯛の鯛』~破壊力は収まってしまったのか?~

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.9」 青木百舌鳥『鯛の鯛』~破壊力は収まってしまったのか?~

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 「夏潮第零句集シリーズ」。第9号は青木百舌鳥さんの『鯛の鯛』。

百舌鳥さんは、昭和四十八年東京都生れ。慶應義塾志木高等学校在学中に本井英主宰と出会い、そのまま俳句の道に入り込んでしまったようだ。その後慶應義塾大学俳句研究会では代表を務め、「惜春」を経て「夏潮」に創刊参加。創刊以来、運営委員として、経理の御仕事をしてくださっている。

 一時お仕事が忙しく句作を中断していたが、「夏潮」創刊と共に本格的に句会の道に復帰。現在では東京吟行会の幹事もしていただいている。

百舌鳥さんといえば、慶大俳句時代から数々の御酒と共に伝説を残された方で、その破壊力たるや絶大なものであった。その百舌鳥さんの俳句というのも、破壊力抜群で自身の感情を定型と季題に目一杯ぶつけるようなものが多かった。

実生活でも、単なるサラリーマンに収まることを嫌い色色な分野に打って出るなど、積極性が百舌鳥さんの持ち味である。一方でこの句集に釣の句が多いことで分るよう、冷静に好機を待つことも出来るのが百舌鳥さんである。

昨今では、主宰の前書きにある通り「他人に分る」よう抑制された俳句を心がけているようである。勿論、その中でも百舌鳥さんらしい句が沢山拝見できた。しかしながら、百舌鳥さんの本来の魅力である「破壊力抜群」の句群にも興味がある。是非「第一句集」を出される際は、そのような俳句も見せて頂きたい。

 なお、句集名の「鯛の鯛」は、2012年1月号で巻頭を獲得された「ちぬ釣つて而して椀の鯛の鯛」に由来する。

經世濟民朦朧として卒業す 百舌鳥

 季題は「卒業」。この句は百舌鳥さんが勢いで詠まれた句ではないか。経済学部を卒業したが、その「経済」の「經世濟民」とは如何なる意味か、結局理解できないまま卒業した。このまま社会人として「経済活動」に携わることになる自分の未来に対しての不安と、「何とかなるか」という肯定的な心境の幅で揺れる心理が描けている。

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 空負うて鵙ゐずまひを正しけり 百舌鳥

 季題は「鵙」。鵙は百舌鳥です。その鵙が枝に立って餌を探しているところを詠んだのだろうか。確かに鵙は凛と立っている様に見える。「ゐずまひを正す」に鵙に対する愛情が籠められた一句。

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『鯛の鯛』抄 (杉原祐之選)

負馬の踵返して走りけり

恋猫の鳴きながら角まがりけり

平滑な風を得たりし蜻蛉かな

素魚のゐなりなりたる鉢の水

虎尾草のよき名もらひて曲がりたり

天球に流星の傷生れて消ゆ

防風を摘みし袋のもう蒸るる

あめんぼの底の影こそよく見ゆれ

逃げ落ちし豆鰺に幸あれかしと

箒目に早や山茶花の五六片

青木百舌鳥さんにインタビューをしました。

青木百舌鳥さん

 

Q:100句の内、ご自分にとって渾身の一句

A:「傍らに虫襲はせて蟻の道」

見えたものを見えたとおりに詠めたと思っている句です。

Q:)100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

A:歳時記ある魚を釣り、食べ、詠みます。魚のほかも然り。

ちかごろは歳時記が食品リストに見えます。

Q:100句まとめた感想を一句で。

A:前屈し反りて人日空円か