」タグアーカイブ

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第31回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

まだ小さき鮎焼けてゆく雨の宵
元の句、「まだ小さき鮎焼かれをり」。なんか鮎が火炙りになってしまうようで、かわいそうで、『焼かれをり』は残酷ですね。もちろん、強火の遠火で、串にさして、炭火を囲むようにあるんだと思うんです。それでも、「焼かれをり」よりは、「焼けてゆく」とした方が、雨の宵の時間の長さが、ずーっと焼けている、だんだん香りが変わってくるというようなことが見えてくると思います。
白砂糖みるみる染まる苺煮る
元の句、「白砂糖みるみる染まり苺煮る」。「みるみる染まり」というのは、染まっている苺の自動詞的表現。「煮る」は他動詞。それだったら、「白砂糖みるみる染まり苺煮ゆ」なんですね。そっちは自動詞になる。でも「苺煮ゆ」は苺に思いが入り過ぎてしまっている。だとしたら、「白砂糖みるみる染まる苺煮る」としていった方が形にはなるし、脚韻が利くし、若干対句的なレトリックになってくるから、その方がすっきりするのではないかと思います。
紫陽花の雨に打たれて凛とゐて
「凛とゐて」がいいですね。「凛とあり」より若干擬人的に扱っているんだけれども、まだまだ花びらが若くって、色づき初めた紫陽花の佇まいというものが見えてくると思います。
妻の愚痴聞き流しつつ梅雨籠
そういうことなんですね。それ以上、コメントしても仕方ないですね。
葬列に離れ立つ女(ひと)虎が雨
  これ、たいへん人気があって、今日、抜けて、この句がよかったように思いますね。ひじょうに小説的で、葬列があって、みんな故人を悼んでいるんだけれど、一人女の人が立っていて、あの人は会葬者なんだろうか。誰なんだろうか。という人がいたというだけのことなんですけれども、虎が雨と言われてみると、それはどうも愛人だったようだ。企業戦士で、討ち死のように過労死した男がいて、会社の人や家族の人が、「あいつは仕事ばっかりしていたね。仕事の鬼だった。」と言いながら、「待てよ。仕事ばかりではなかったのかな。」「仕事で家に帰らない猛烈社員が、ある場所でつねに癒されていて、それで仕事ができたんだよ。」などというドラマ。虎が雨というものの、一つの物語で、この句は面白いかなと思って、感心した次第です。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第29回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

一呼吸又一呼吸蛍の火
重ね方がひじょうにうまいと思いましたね。弱い光で呼ぶように点滅するのは、雌蛍なんですね。それに対して、飛んで行く蛍は全部雄蛍。大体、夕方七時と、夜十一時と、朝方の三時頃、大体一晩に三回くらい、そういう場面、お見合いみたいな場面が見えてくると思います。
菖蒲田の狭まるは谷戸狭まりぬ
ちょっと変え過ぎたかもしれません。元の句では、意味がもたもたしてしまって、わからない。元の句、「菖蒲田の狭まり谷戸の迫りけり」。「谷戸の迫る」という言い方はしないんですね。谷戸というのは、低い所ですから。谷戸の両方の丘が迫ってくる。谷戸はどこまでも狭まる。だから菖蒲田が狭まったなと思った。ああ、それは菖蒲田が狭まったのでなくて、まわりの山がそこで狭まっているんだ。という一つの発見だと思いますね。
花葵小さきなりに屹立す
これ、面白いですね。小さい葵が真っ直ぐ立っている。それを屹立という若干強いことばで言ってもいい。屹立、そばだって見える。ということですね。
チョコレート色の小さき梅雨茸
うまいですね。秋の茸だと、食べられる茸、食べられない茸。さまざまあるけれども、梅雨茸というのは最初から食べない。食べる気もない。その中に、すごい色をしている。チョコレート色だわ。食欲もわかないような、それでも梅雨茸は梅雨茸で、自分の存在をきちっと形にしているということだろうと思いますね。
行儀よく頭並べてさくらんぼ
今日の苺でもそうなんですが、摘んでいるところ、あるいは農家で作業中の苺、さくらんぼ。店頭に売り出している時の苺、あるいはさくらんぼ。あるいは食卓で出た時。それぞれ皆風情が違います。この句は、巧みに言えていると思いますね。これは、箱にしっかり詰まって売られているさくらんぼ。食べる時には、それはばらされてしまうし、栽培農家ではこういう形は絶対見えない。あ、売られているなということがわかって、町の中でのさくらんぼということが よくわかると思います。
滝壺は群青にして硫黄の香
どういう所かわかりません。水質が若干、火山性の混ざり物があって、とくに青さが強烈であった。そうそう、そういえばここまで火口の硫黄の匂いがしてくるわ。ということで、『滝』という夏の季題が、大きく詠まれているな。「群青世界」という句も、昔、秋桜子にありましたが、あれとは違う。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第28回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

大川に纜(ともづな)垂らし虎が雨
大川という川は世の中にいくらでもあるわけですが、黙って大川と言えば、隅田川の部分称、隅田川の河口付近を大川というのが、普通の鑑賞でしょうね。ともづなというのは、艫(とも)から来る綱ですから、厳密に言えば船尾にある綱ということになりますが、舳先の綱が張っていて、艫側の綱が少し弛んで垂れて、水中に没している。川がゆっくり川上から川下へ流れて、舟も静かにそこに舫ってあったということなんだと思います。風がなければ静かなんだけれども、雨だけがざーっと降っているという、江戸の下町の風情が感じられますね。
水の辺の管理人小屋牛蛙
何の管理人小屋だかわかりません。うっかりすると、食用蛙とか牛蛙とかの 養殖池の管理人小屋かもしれません。そういう蛙を飼っていて、管理人小屋がしょぼしょぼとあって、とても家族で住めるようなものでない。何か仕事に破れてしまったような男がぼそーっと一人で住んでいるような、いぶせき小屋がそこにあった。「水の辺の」という、なかなか見かけない景をしっかりと捉えていると思いますね。
今年またバラ咲き初めし礼拝堂(チャペル)哉
礼拝堂と書いて、わざわざチャペルとふって、切れ字の「かな」が漢字である。という、大分意図がある。その意図が過ぎるとスランプになる。これも、ぎりぎりです。堀辰雄の「美しい村」の一場面のような感じが見えます。
麦秋の筑後平野に橋いくつ
筑紫次郎が流れておりますが、それに限らず、たくさんの川が流れて おります。また、大川とか柳川あたりは、小さいクリークがたくさんありますから、その平野、たくさん橋があるわけです。この句、元句が「麦秋の筑後平野の橋いくつ」。「の」でもいいんですね。「葛の花嬬恋の字いくつ」。「の」って言うと、「筑後平野の橋」というのがあって、それがいくつか。「に」だと、「筑後平野というものがあって、そこにいくつの橋があるの」ということになりますね。「に」の方が、臨場感というか現実性がある。「の」だと、若干概念的に捉えているきらいがあるという気がします。
今朝摘みし苺は五粒ジャムにせむ
大体これで、プランターかなにかで、ささやかにやっている苺ということがわかります。朝採れたのが、今日は五つ、明日はいくつっていう程度のもので、それを楽しみにして、毎朝、どうだろう。あれはまだ明日だな。あれはもう少し色づいてからにしよう。といった暮らしぶりが見えてくると思います。
抱擁の男女の看板虎が雨
中七の字余りが、ちょっと気になります。抱擁というと、男女なんでしょうね。だから男女はなくてもいい。まあ、映画の絵看板、仰々しい男女が抱き合った看板を想像すればいいんでしょう。それが町中に大きく掲げてある中で、雨がしとしとしとしと降っている。その兄弟の時代の女心、男の雄々しさ。そして今の映画に出てくる暮らしぶり。どうなんだろうなとちょっと思っている。これも虎が雨の情だろうと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第27回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

ひと巡りしたれば閉ぢて未草
之は巧みな句で、俳句のことがよくわかってますね。どっか公園みたいな所で池があって、睡蓮が咲いてたんですね。バラ園があるからって、ぐるっと回ってきた。また入口の池の睡蓮の所に来たら、もう閉じていた。さっき咲いていたわね。もう閉じちゃった。ご承知と思いますが、未草は、未の刻に閉じるので、未草。大体午後二時頃。朝、咲いて、夕方になると閉じるから、未草という別名を持っている。それにちょっと凭れかかり過ぎている危険もなくはないけれど、実景があるから、いいでしょうね。
木下闇抜けて対峙す桜島
まあ磯庭園か何か、そういった所の木立をずっと歩いてきて、木立が繁っていますから、その時には見えないんだけれども、その木下闇を抜けて、汀に来たらば、桜島が向こうにどんとあった。ちょうど自分と桜島が一対一で、対峙しているようだった。
話とてなき老夫婦虎ヶ雨
虎が雨の一つの風情かもしれませんね。虎が雨だなと思いながらも、そのことを夫に告げるでもない。夫も兄弟のことを思いながらも、今更に妻に話もしない。でもお互いに虎が雨だということはわかっているという句だと思います。ただ、この句の場合、語順に研究の余地があるかもしれません。「虎が雨話とてなく老夫婦」。その方が落ち着きがいいかもしれませんね。
虎が雨静かに碓と降りにける
うまい句ですね。虎御前というのは、大変しっかりとした人で、十郎の愛人だったようですが、『碓と』というところに、女の人の強さ、あるいは兄弟を支えた様々の功績、そんなことを考えると、女の涙が静かに碓としているということは、いかにも虎御前という人の大きさが出ていて、うまい句だなと思って、感心しました。
たまゆらの跡を残して蛍飛ぶ
一種の残像現象なんでしょうね。蛍がふーっと飛んでいったのを見たら、その光跡のようなものが、瞬間ちょっと見えた。それを「たまゆらの跡を残して」ときれいに叙したところが、句の格ですね。それがいいと思いました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第26回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

十薬の雨を待ってる線路際
これはいろんな言い方があって、「雨を待ってる」というのは、ちょっと口語的で、「十薬の雨待ってゐる」とか、どちらもそれなりの主張があるんですが、外の言い方もあるということを、一応心得ておいた方がいいかもしれません。いかにも十薬、どくだみですが、いわゆる雑草ですが、その十薬がしばらく雨が降らないので、すっかり錆びたような色になってしまっている。もともと、紫っぽい色が多いんですが、それが乾いたような色になっている、それを線路際に見かけたという句ですね。
次々と植田に雨の走り来る
いかにも梅雨を前にした、あるいは梅雨の初めの植田の様子がよく出ていると思いますね。青田と植田の違いは、青田は青青と苗が育っていますけれども、植田は植えたばかりですから、苗がひょろっとして、ものがよく映りますですね。植田の頃の夜の田舎の景色なんか見ると、水の中に全部家の灯火なんかが浮かんでいるように見えるのは、植田が全部映し出してしまうからなんですね。植田と青田の違いをこの句はよく知っていて、ぱーっと雨の駆け抜けた感じが青田ではなくて植田なので、なるほどなと思いました。
婚礼の舟しめやかに花菖蒲
婚礼はもっと賑々しくいくもんだけど、お葬式はしめやかにやります。それをあえて婚礼が「しめやか」だというところに、潮来あたりのそういう舟に乗って、花嫁さんが静かに進んでるというようなことを言わんとしているのだと思います。一つの花菖蒲の景色として面白いと思いました。
弱りゆく子にすべもなき鴨の親
「鴨の子」と言ってもいい、「軽鳧の子」と言ってもいい。夏の季題です。それがどういう理由かわからないんだけれども、育たない鴨の子がいて、それが徐々に弱っていくのに、すべもないという句です。厳密にいうと、僕の記憶では、たとえば鴨の子が六羽くらいいると、大きいのは巣立ってしまって、一番小さい子は、皆からいじめられて、親からもいじめられてしまう。だから、「すべもなき」というのは、人間的に見た、きれいな言い方で、実際に動物の世界では一番育たない子は親にもいじめられるというのが、本当の姿かなと思います。ただ、科学のレポートではありませんから、人間の気持ちとしては、「すべもなき」という人間の親心に照らし合わせることは、文学としてはいいんだと思います。ただ、現実はもっともっと残酷なものだということを、僕は見た覚えがあります。
合羽着て梅雨ニモ負ケズ小犬行く
まあ、この句を採るか採らないかで、悩ましいところでした。もちろん「梅雨ニモ負ケズ」の「ニモ」と「ケズ」を片仮名で書いてありますから、宮沢賢治を百二十パーセント意識して、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のパロディーとして、そんな贅沢な子犬が合羽を着て、歩いている。というのを、皮肉に詠んでいるんですけれど、あんまり皮肉の要素が強くなっていってしまうと、花鳥諷詠でなくなってしまう。つまり、この句の場合、「梅雨」がどこまで生きているかというと、あやしいですね。皮肉とか、作者の主張が、こんなふうに読んでねというメッセージ性が強いと、その分だけ季題の働きがわるくなる。不思議なもんですね。季題だけ詠んでいこうとすると、季題がどんどん生きてきますが、今日、お採りしなかった句の多くは、それですね。作者がこう読んでという付帯条件というか、付帯意見を付けてしまっているんですね。読む方は、こう読めと言われると、違うふうにだって読めるじゃないかとなってしまう。どこまでも季題諷詠でいこうとすると、もっともっとメッセージ性が弱い方が、季題の風情が生きるんです。そこが花鳥諷詠の微妙なところです。この場合、片仮名で書いたところに、作者の意図が露わ過ぎて、採れない。採れないけれど、ぎりぎりかというところで、これ以上、作者の季題でない部分のメッセージが強いと、それは採れません。秋雨でもいいし、雷でもかまわない。それを言っておきたいと思います。