俳句を始めるについて用意したい「品」は幾つかある。
「花鳥諷詠心得帖」カテゴリーアーカイブ
花鳥諷詠心得帖2 一、用意の品 -2- 「書く道具」
さて筆記用具というのは「書く道具」の謂いか、「書かれる道具」の謂いか。判然しないが、取り敢えず「書く道具」から考えてみよう。
花鳥諷詠心得帖3 一、用意の品 -3- 「句帳」
筆者も同じ「句帳」を現在使用中。一三一冊目が終わろうとしている。「吟行」が作句の中心舞台となってからは「句帳」は必需品となったが、明治時代、主として題詠が行われていた頃には「句帳」という感覚は無かったらしい。
筆者が一見した明治期虚子の「句帳」は「帳」ではなく、只の「半紙」だった。俳句会に臨んでは手近の「半紙」に出来た順に句を書き付けていた。ひとしきり書き付けると、さらに行間なども利用して「半紙」に二十句位は書き付けてあった。本来保存する気持ちも薄かったものであろう。筆者の一見した数十枚は希有な例であったのかもしれない。
その後虚子自身の発案で「吟行」が増えると、自ずから「句帳」も必須アイテムになった筈だが、虚子自身に「句帳」を保存する習慣は無かった模様だ。虚子の『俳談』に「句帳」という文章があって、その辺りの事情が詳しく書かれている。前回でご紹介した虚子最後の「句帳」は虚子によって捨てられる事もなく、現在無事に芦屋虚子記念文学館に展示されている。
「吟行」全盛の現代の俳人は皆「句帳」を持っているのかと思っていたら、興味深い話をある方に伺った。それは森澄雄氏とそのお仲間の吟行の話。三四人で奥多摩にでも「吟行」に行った一行は、ただ黙って野山を歩き、宿に着いて、風呂など浴びた後、画帳のようなものを取り出して、全員で一冊のそれに順にその日の収穫を書き記していき、書く句が無くなったところで、各自による句評がなされるのだそうだ。
つまり心の中に一日中温めて置いた句を順番に吐き出していく訳らしい。筆者など作句を覚えていられなくて、風呂など浴びたら全部忘れてしまいそうだが、その方のお話では、夜まで覚えていられない程度の句は意味がないのだそうな。俳句の世界も色々で、そんなやり方もあるらしい。
我等の仲間には句帳に「言葉」を断片で書き付けている人も見かけるが、私はそれはしない。十七字になってから書き付ける。「諷詠」の心構えを大切にしたいからだ。そして推敲によって語順などが替わった場合は、新たに次の行に書き直す。従って似たような句が何行にも書かれていたりすることもある。
花鳥諷詠心得帖4 一、用意の品 -4- 「歳時記・季寄せ」
大正期に始まった「吟行」という作句法は昭和に入って「武蔵野探勝会」をピークとして、 現在なお「花鳥諷詠」の俳句を作る「場」として最重要なものと言える。 そのことから、「歳時記・季寄せ」はハンディーであることが必須の条件となり、 筆者は現在稲畑汀子編『ホトトギス季寄せ』を愛用している。
これはさきに出版された『ホトトギス新歳時記』の簡略版として編集されたものであり、 『ホトトギス新歳時記』の成立には筆者自身が若干関与したことも、愛着の原因かもしれない。 季題の選定から解説文の内容等、およそ現今行われている歳時記類のなかでは 妥当な一書と考えてはいる。 旧来の虚子編『新歳時記』と併用することで一層の充実も得られる。
虚子は『新歳時記』の序文に「俳句の季題として詩あるものを採り、然らざるものは捨てる。 現在行はれてゐるゐないに不拘、詩として諷詠するに足る季題は入れる。 世間では重きをなさぬ行事の題でも詩趣あるものは取る。 語調の悪いものや感じの悪いもの、冗長で作句に不便なものは改め或は捨てる。 選集に入集して居る類の題でも季題として重要でないものは削り、 新題も詩題とするに足るものは採択する。」と記している。
要は季題には「詩」が必要であること、編集は「網羅的」の逆で、季題を「選別し」、 「篩い落とす」ことに意を用いたことを宣言している訳だ。 吟行会、俳句会への携帯には『ホトトギス新歳時記』・『ホトトギス季寄せ』・虚子編『新歳時記』等が 便利だが、一方、家で他人の句集をを読む時などは、やはり「網羅的」に一万も二万もの季題が 収録されているものがあるに越したことはない。
近代における大規模「歳時記」の嚆矢はやはり戦前の改造社版『俳諧歳時記』五冊本。 戦後の大事業としては角川の『図説大歳時記』五冊が現在でも頼りになる。 難点を言えば、出版当時自慢だった「写真」が今となって古びて違和感を感ずること。 人によってはそのレトロな感じを楽しんでいる向きもあるが…。
更に講談社の『日本大歳時記』五冊本も悪くない。 この講談社版は随分普及したものだが、筆者は「座右版」と称する一冊本を便利に使っている。 角川の『ふるさと大歳時記』は書棚に飾ったままで、未だに「うまい使い方」が判らぬままなのは洵に残念。 「歳時記・季寄せ」に眼を晒して季題の本情、季題の詳細に通じる事は花鳥諷詠俳人の必修科目。 しかし「歳時記・季寄せ」は「憲法」では無い。 眼に触れ、「詩」を感じた季節の言葉があったら、「新題」とても試みる柔軟さを忘れずにいたいものだ。
花鳥諷詠心得帖5 一、用意の品 -5ー 「辞書」
俳句会は学校の「書取り」の試験ではないから、判らない漢字や、自信のない漢字は「辞書」を引いて正しく書けば良い訳だ。また意味についても、おぼろげなものは、確認の為にも、やはり辞書にあたって見るべきであろう。そこで俳句会、吟行会に相応しい辞書について考えてみる。
まず必須条件として携帯に便利でなければならない。私は何時の頃からか三省堂の『新明解国語辞典』を愛用している。そもそもの付き合いが、中学に入学して初めて自分の為に買ってもらったのが、旧版の『明解国語辞典』だった。編者は金田一京助で、妙な名前もあるものだと思ったことを今でも覚えている。
三十年以上前のことになるが、国文科の学生時代には毎日『広辞苑』を持って通学して平気だった。近年は体力的にとても無理になってしまった。「新明解」は「明解」よりやや嵩ばるが、何とか現在でも持ち歩きに叶う。
二十年ほど前からだろうか、老眼向けに漢字だけ大きな活字で載っていて、意味は省略した「字書」の類が流行り始めた。「意味」が無いのは少々不安な気がしたが、作句に関連して辞書を使用すると言うことは、知らない言葉を引くわけではないのだから、意味はいらない訳だ。そう言えば江戸時代の軽便な字引である「節用集」がこのタイプだった。近年の発明では無かったのだ。この一、二年は「電子辞書」の真っ盛り。俳句会、締切直前の静寂を「ピッ、ピッ」という電子音が駆け回る。私は持っていないが、字が大きく画面に現れるので具合が良いそうだ。今や『広辞苑』が手のひらサイズになってしまった訳だ。
さて自分の家に帰って、他人の句集などを読む場合には、もう少し大型の辞書が有り難い。
一般的には『広辞苑』・『大辞林』あたりが手頃だが、もう少し沢山の言葉を調べたいとなると、昔は『大言海』・『大日本国語辞典』ということになった。近年では小学館の『日本国語大辞典』が収録語数が多い。用例などが丁寧で信用できるが、全二十冊というのは置く場所に困る。いよいよと言うときに図書館で利用すればいいだろう。
漢字については『大字典』あたりが適当かと思うが、折角だからという向きには諸橋轍次の『大漢和辞典』が世界的に見ても最高峰だ。何世代にも亘って利用出来るのだから少々高くても意味はある。もっと詳しくと言う方には白川静の『字統』・『字訓』・『字通』の三部作がお薦めだが、こうなると俳句より漢字の不思議の方に興味が行ってしまって困ったことになる。
虚子先生は『言海』をご愛用だったらしい。
水仙や表紙とれたる古言海 虚子