実況中継…ができるといいのですが。
漢字から仮名への話をしながら、話柄が一気にカタカナに移ってしまって、
所謂「変体仮名」の話をしなかったので、それについて若干触れておこう。
「変体仮名」の対立語を無理に言えば「正体仮名」とでも言うのだろうが、不勉強で耳にした事がない。
現在通行している「ひらがな」の字体が権威を得たのは明治三十三年八月の「小学校令施行規則」に
定められたのが初めと言われており、その時点から、他の「ひらがな」は屈辱的な「変体」の二文字を
付けられた訳だ。
それ以前は「万葉仮名」以来どの仮名が正統でどの仮名が異端などと言うことは無かった。
万葉仮名では一つの音に対して複数の万葉仮名が当てられていた。
おそらくは筆者の恣意で使用する万葉仮名を定めていたのであろうが、詳しくは判らない。
ただし単語によって、同じ音なのに一定の法則性をもって万葉仮名を遣い分けていた事から、
有名な「上代特殊仮名遣い」の発見があったことも事実だ。
「上代特殊仮名遣い」というのは万葉仮名使用の「ある法則性」から、日本の古代語には
現在のような五母音ではなく、八母音があった事を突き止めた研究だが、
今回の話には直接関係が無いのでこれ以上は触れない。
ともかく万葉仮名では一音に対していくつかの仮名があり、それはそのまま「ひらがな」にも受け継がれて、王朝時代の物語でも、鎌倉室町時代の随筆でも、およそ「ひらがな」で書かれた部分に登場する仮名文字の種類は現代のそれと違って豊かであった。たとえば「カ」について考えてみると明治三十三年以降学校教育では漢字の「加」を字母とした「か」が正しいとされた。
現に今筆者がNECの「ヴァリュースター」というパソコンに「一太郎」というソフトを乗せて書いているキーボードでは「k」のキーと「a」のキーを連続して押せば、いやでも「か」が画面に現れ、それ以外の「カ」は現れない。
ところが我々の実際の生活場面では可能の「可」を字母とする「カ」も頻繁に登場してくる。
浅草観音様の山門の大提灯の「魚がし」の「か」は「可」を字母とした「カ」であるし、昔から女手紙の文末も、「ゝ」と書いてくるっと豚の尻尾のように巻いて、「し」が真っ直ぐに縦に伸びて、それに続けて「こ」とあるのが女らしくて良かった。
最近では「かしこ」全盛。
それどころか「敬具」、「不一」で終わる女手紙も堂々と往来している。
俳句の短冊の「かな」もどちらかと言えば、「可」「奈」の方が収まりがよく、以前に本欄で取り上げた
「落穂帖」の虚子短冊中の「かな」も「可」使用の方が多かったように記憶している。
変体仮名。
知らなくても何も困らないような気もするが、俳人としては、それでは一寸淋しい。
芭蕉以来の先輩達の短冊や半切に接した時のためにも、知っておいた方が楽しいと思う。
だから擬音語などは「ひらがな」よりリアリティーがあるとも言った。その刹那的な「定め無き」ありようから、無責任なあるいは社会通念上認めがたい「もの」を表す場合も「カタカナ」は重宝だ。
たとえば「ネコババ」「ピンハネ」「インチキ」。どれも「ひらがな」では表し切れない「ヤバイ」感じが伝わってくる。「サクラ」と書けば桜の樹や花より先に、道端の「叩き売り」の前に陣取って、感心したり、買ったりしているその仲間を想像してしまう。
つまりは文字として軽薄なのだ。ということは、俳句にはなかなか用い難い。
たとえば、
ぢぢと鳴く蝉草にある夕立かな 虚子 どかと解く夏帯に句を書けとこそ 々 ひらひらと深きが上の落葉かな 々 たらたらと藤の落葉の続くなり 々 ぱつと火になりたる蜘蛛や草を焼く 々
の中の「ぢぢ」「どか」「ひらひら」「たらたら」「ぱつと」などの「ひらがな」部分を「カタカナ」で表記したら、どうなるだろう。
「ヂヂ」「ドカ」「ヒラヒラ」「タラタラ」「パッと」とした方が確かに臨場感は出るのだが、文芸としての統一されたある美感は完全に損なわれてしまう。一句全体として、あるいは塊として保っている文学的表現に破綻が生じてしまうのだ。
ここで思い出す句がある、
リリリリリチチリリリチチリリと虫 月舟
極端なリアリズムの句として人々によく知られた句だが、確かに臨場感を表さんとするあまり文芸としての枠を逸脱しており、いずれダダイズムなどと合流する傾向すら見られる。かつての「談林」の俳諧師達なら先を争って試みたに違いない、蓮っ葉な世界だ。
では俳句に「カタカナ」は使用されないか。否。そこに外来語という語群があった。
コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな 虚子 バス来るや虹の立ちたる湖畔村 々
これらの「コレラ」「バス」は「ひらがな」では表せない。みな西洋起源の外来語だ。では何故外来語は「カタカナ」で書くのか。それは日本語の語彙として「最終受け入れ」を拒んでいるからだ、とも言える。つまり「怪しげなもの」として「カタカナ」で、即ち発音記号で、仮に表現しておくのだ。言葉としては認めたくない、でも現実に「物」がある以上無視はできない。それが外来語、「カタカナ語」だ。
日本語という言語は柔軟な言語だ。千何百年前に漢字と出会った時、それに呑み込まれずに漢字を道具にしてしまった。百何十年前に本格的に西洋語と出会うと、またまた呑み込まれずに道具にしてしまう。その巧妙な仕掛けが「カタカナ」とも言える。
文語・口語の話、仮名遣いの話、漢字・漢語の話、と進めてきた「ことばの約束」。
続いては「カタカナ」の話。
「カタカナ」もその名のごとく「仮名」である。「仮名」の第一号が「万葉仮名」で字体としては「漢字」そのものである点は既に述べた。
またその「万葉仮名」を草書体に崩したところから「草の仮名」即ち「ひらがな」の発展していった話もした、はず。ところで今回の「カタカナ」はと言うと。元々は漢文訓読の場面にその存在の意味があった。「漢字」の項でも触れたように、漢字はもともと「漢文」を表記するための文字。
その漢字で書かれた漢文は、上から順に中国音で読めれば本来。たとえばサンスクリット語で書かれていた「釈尊の教え」を中国へ持ち帰って漢語訳したのが、我々の知っている「お経」。
「お経」は本来の仕来りに則って、漢音で上から順に訓む。だから聴いていても「解らない」。
漢文を日本人にも解るように訓むには、語順を入れ替えながら、「てにをは」を補って訓むしかない。
白文に訓点を施して訓む。
さらに補助的に「仮名」を添えて訓み間違えないようにする。
その場合の「仮名」は字画が単純なのが、場所をとらなくって良い。そこで「万葉仮名」の一部分を用いて代用させた。カタカナの始まりだ。
「草の仮名」から発達した「ひらがな」は主に女性達に愛用され、和歌や物語を記す道具として一人前の地位を築いたのに対して、「カタカナ」は何処までも漢文訓読の補助記号であった。
もともと「カタカナ」の呼称そのものが、「カタ」つまり「不十分」の意味を負っているのだ。赤ん坊の「片言」の「カタ」と同じだ。
明治時代に制定された古い法文(確か「刑法」などそうであったか)が「漢字片仮名混じり文」で表記されていることから、片仮名の方が平仮名より権威あるもののように誤解する向きもあるが、それは間違いで、「漢字片仮名混じり文」中の片仮名は「文字」ではなく漢文訓読上の補助記号と心得るべきものであろう。
因みに日本ではつい最近まで「漢文」が正式だったのだ。たとえばの話、日本の正史とされている「日本書紀」は漢文で書かれているではないか。あるいは江戸時代の俳書などでも序文・跋文は漢文が多い。
ところで「カタカナ」はいわば発音記号である、となると気づくことがある。たとえば「雷鳴」を表す場合、「ごろごろ」より「ゴロゴロ」の方が、実際の音の感じが出る。「ごつん」と殴るより「ゴツン」とやった方が痛そうだ。「あなたを愛してるわ」と手紙に書かれるより「あなたを愛してるワ」と書かれた方が、その娘の顔や口元が想像できる。いわばリアリティーがあるわけだが、それらは結局われわれが「カタカナ」を事柄を象徴する文字というより、音を伝達する「記号」と捉えているからに他ならない。