花鳥諷詠心得帖23 二、ことばの約束-15- 「カタカナ」

「カタカナ」は一種の発音記号みたいなものだと前回述べた。

だから擬音語などは「ひらがな」よりリアリティーがあるとも言った。その刹那的な「定め無き」ありようから、無責任なあるいは社会通念上認めがたい「もの」を表す場合も「カタカナ」は重宝だ。

たとえば「ネコババ」「ピンハネ」「インチキ」。どれも「ひらがな」では表し切れない「ヤバイ」感じが伝わってくる。「サクラ」と書けば桜の樹や花より先に、道端の「叩き売り」の前に陣取って、感心したり、買ったりしているその仲間を想像してしまう。

つまりは文字として軽薄なのだ。ということは、俳句にはなかなか用い難い。

たとえば、

ぢぢと鳴く蝉草にある夕立かな 虚子 どかと解く夏帯に句を書けとこそ 々 ひらひらと深きが上の落葉かな 々 たらたらと藤の落葉の続くなり 々 ぱつと火になりたる蜘蛛や草を焼く 々

の中の「ぢぢ」「どか」「ひらひら」「たらたら」「ぱつと」などの「ひらがな」部分を「カタカナ」で表記したら、どうなるだろう。

「ヂヂ」「ドカ」「ヒラヒラ」「タラタラ」「パッと」とした方が確かに臨場感は出るのだが、文芸としての統一されたある美感は完全に損なわれてしまう。一句全体として、あるいは塊として保っている文学的表現に破綻が生じてしまうのだ。

ここで思い出す句がある、

リリリリリチチリリリチチリリと虫  月舟

極端なリアリズムの句として人々によく知られた句だが、確かに臨場感を表さんとするあまり文芸としての枠を逸脱しており、いずれダダイズムなどと合流する傾向すら見られる。かつての「談林」の俳諧師達なら先を争って試みたに違いない、蓮っ葉な世界だ。

では俳句に「カタカナ」は使用されないか。否。そこに外来語という語群があった。

コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな 虚子 バス来るや虹の立ちたる湖畔村 々

これらの「コレラ」「バス」は「ひらがな」では表せない。みな西洋起源の外来語だ。では何故外来語は「カタカナ」で書くのか。それは日本語の語彙として「最終受け入れ」を拒んでいるからだ、とも言える。つまり「怪しげなもの」として「カタカナ」で、即ち発音記号で、仮に表現しておくのだ。言葉としては認めたくない、でも現実に「物」がある以上無視はできない。それが外来語、「カタカナ語」だ。

日本語という言語は柔軟な言語だ。千何百年前に漢字と出会った時、それに呑み込まれずに漢字を道具にしてしまった。百何十年前に本格的に西洋語と出会うと、またまた呑み込まれずに道具にしてしまう。その巧妙な仕掛けが「カタカナ」とも言える。