稽古会三日目、B組のみなさんは全日程を終えて帰途につかれました。
かわってD組のみなさんが合流し、午後は24人の句会になりました。
一日のうちに晴・曇・雨がめまぐるしく入れ替わり、それも句材となっています。
「上五」字余りの続き。前回の「て」と同様、結果として「上五」と「中七」でひと塊となって、
「下五」を際だたせ、「二物衝撃」という典型的な俳句表現に収まる例。
蒲団かたぐ人も乗せたり渡舟 虚子
老の頬に紅潮すや濁り酒 々
簗見廻つて口笛吹くや高嶺晴 々
船に乗れば陸情あり暮の秋 々
人形まだ生きて動かず傀儡師 々
慟哭せしは昔となりぬ明治節 々
神にませばまこと美はし那智の滝 々
これらは「中七」の末尾が「乗せたり」「潮すや」「吹くや」「あり」「動かず」「なりぬ」「美はし」と、
いずれも「切れ字」あるいは「終止形」で鋭く「切れ」ているところが注目点で、
「上五」「中七」が大きく一塊りとして捉えられていながら、さらに「下五」が「渡舟」「濁り酒」「高嶺晴」
「暮の秋」「傀儡師」「明治節」「那智の滝」と一単語の体言であることで「二物衝撃」が際だつ。
「字余り」の部分が「膠」のような働きをして言葉を寄せ集め、重量のある塊としておいて、
もう一つの塊と「ぶつけて」印象を濃くしているのだ。
ということは当然、「上五」対「中七」・「下五」という組み合わせもあるはず。
怒濤岩を噛む我を神かと朧の夜 虚子
此秋風のもて来る雪を思ひけり 々
清水のめば汗軽ろらかになりにけり 々
夜学すすむ教師の声の低きまま 々
これらはその例と言っていいだろう。「上五」の字余りで、印象的な言葉をまず投げかけておいて、
ややポーズがあって後に「その言葉」に見合う重さの内容を持った「中七」・「下五」が連なる形だ。
こうして見てくると俳句にとって「切れ」と「つながり」が如何に重要か見えてくる。
次に「中七」の字余りの話。
個人的な好みから言うと、筆者は「中七」の字余りを好まない。
実は『五百句』に十六句もその例のあったことは少なからざるショックでもあった。
しかし次の六句についてはすぐに納得がいった。
そこで次回までのクイズ。以下の六句の「中七」字余りは如何なる効果を一句に与えているか?
御車に牛かくる空やほととぎす 虚子
此墓に系図はじまるや拝みけり 々
蜻蛉は亡くなり終んぬ鶏頭花 々
山吹に来り去りし鳥や青かつし 々
唯一人船繋ぐ人や月見草 々
此村を出でばやと思ふ畦を焼く 々
(つづく)
「上五」の字余りの続き。「て」で余らせている例。
海に入りて生れかはらう朧月 虚子
逡巡として繭ごもらざる蚕かな 々
草に置いて提灯ともす蛙かな 々
コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな 々
烏飛んでそこに通草のありにけり 々
船にのせて湖をわたしたる牡丹かな 々
一を知つて二をしらぬなり卒業す 々
これらの例は、「上五」を字余りにしなくても、何とか意味は通じる句ばかりだ。
例えば第一句目、「海に入り」とすれば字余りにならない。しかも一句の意味には殆ど変化がない。
以下それぞれ「逡巡と」・「草に置き」・「コレラ怖じ」・「烏飛び」・「船にのせ」・「一を知り」とすれば字余りではない。そして筆者も含めて読者諸兄姉も、実際の作句の場面では、敢えて「字余り」の道は選ばずに、「定型」で治定されるのではあるまいか。
では何故か。「通草」の句を除いては、「中七」と「下五」の間に大きな「切れ」がある。勿論「字余り」にしなくても、そこに「切れ」はある。しかし「て」を加えて「字余り」にすることによって、「中七」、「下五」間の「切れ」は強調されて、「下五」のインパクトが増す。
つまり「草に置き提灯ともす」でも内容は変わらないが、「て」と加えることで、「草に置いて」・「そうして」・「提灯をともす」と、一連の人間の所作がありありと描かれて来るのだ。
その人間の姿を包むように「蛙」の鳴き声が立ち上がってくる。此処にいたって「蛙かな」の「かな」の切れ字の面目が立つ仕組みだ。「字余り」の「て」がないと、うっかりすると「蛙」が動作主にも取られかねない。人間の行動と「蛙の声」の対立を際だたせた功績は「て」の一文字と言えるだろう。
同様の例は「コレラ」でも同じことで、「女かな」という「下五」がはっきり独立的に見えてくる。文法的には「綺麗に住める」の「る」は存続の助動詞「り」の連体形だから「住んでいる女」という具合に比較的強固な連体修飾関係にある筈なのに、一句全体のリズムとしては「上五」「中七」で一塊り、 其れへの対立項として「下五」が配置される。
全く同様なことは「船にのせて」でも言える。
おそらく琵琶湖だろうが、湖を横切る船の姿が鮮明に見えてくるではないか。「牡丹かな」への連接の仕方まで同じだ。
こうなると一つの「おきまりの」表現法とさえ言えそうだ。
一方、「一を知って」は若干事情が異なる。こちらは「一を知って十を知る」という慣用句を少し変形させて「二を知らぬ」と機転を利かせた表現。つまり「て」は慣用句を想起させるための大切な「仕掛け」なのだ。「一を知り」とは言えない訳である。 (つづく)
「夏潮」虚子研究号発刊の辞 本井英
小誌「夏潮」も平成十九年八月、創刊以来四年を経過しました。ここまで何とか無事に刊行することが出来ましたのも、ひとえに先輩、同輩諸氏の心強いお力添えのお陰と感謝しております。
今まで何度も書いて参りましたが、「夏潮」は高濱虚子の文学を敬し慕う俳誌です。虚子を学び、虚子の求めた境地を求めることが「夏潮」の使命と考えております。このことは毎月の「夏潮」の誌面に反映されていると自負もしております。しかし、毎月の、限られた頁数では纏まった研究を掲載することは甚だ困難です。このことは創刊当座から予想されたことで、いずれは「研究」を主にした「別冊」を刊行したいと考えておりましたし、何人かの方にはお声をかけて、最近のご研究をご発表下さるようにお願いして参りました。
そして創刊五年目にして、やっと「夏潮 別冊 虚子研究号」発刊に漕ぎ着けました。
今後、「夏潮」本誌とは別に、年に一冊のペースで、「別冊虚子研究号」を刊行して行ければと考えております。また虚子文学の研究に興味のある方、志のある方なら、「夏潮」誌友に限らず、どなたとでも共に虚子研究に励みたいと存じます。ご一読の上ご意見ご感想など賜れば幸甚ですし、もう一歩進んで、日ごろのご研鑽の成果をご寄稿いただければ、これに勝る幸せはありません。
なお今後、でき得る限りは「非売品」として多くの方にお配りしたく存じておりますが、そうも行かぬ事態が訪るるやも知れません。そうなりました節には何卒よろしく、一段の応援をいただきたく存じます。
目次
一、 虚子の子規追善 井上泰至 2 二、 「虚子の書簡」から 栗林圭魚 12 三、 虚子連句私解 大島富朗 20 四、 「白露物語」基礎研究 前北かおる 32 五、 新出資料、虚子「三畳と四畳半」自筆原稿から 本井英 46 六、 記念館だより
ISBN978-4-939116-80-3 C0092