日別アーカイブ: 2011年8月20日

小諸日盛り俳句祭 高原列車吟行(杉原祐之)

【小諸日盛り俳句祭 高原列車吟行】

7月30日(土)今回の日盛り俳句祭から登場した「高原列車吟行」に参考しました。

記念すべき第一号に乗車しました。その模様をご紹介します。

 

前日の「夜盛会」の影響で二日酔い気味の状態で、小諸の町の坂を下り小諸駅待合室

9時15分に集合、受付。

参加名札を見せて改札口を通過できました。

 

小諸駅9時38分発で野辺山駅まで行って折り返してくるルート。

40人の参加者+スタッフ俳人は 奥坂まやさんと行方克巳さん。

40人の句会なので、他の通常の句会25人と比べて大分多く感じます。

そのうち「夏潮」勢は15名程度。さすが「鉄道の夏潮」!?です。

お手伝いとして、小諸の小山さんと、本井先生の奥様ほかも乗車。

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの学生新聞記者さんも同乗。

 

皆さんホームでおおはしゃぎ。本井先生の見送りを受け予定通り9時38分に小諸駅を出発。

小諸駅ホームで乗車

車輌の座席にテーブルを取り付けてあり、一部の人には画板が配られました。

(乗込むのが遅れた私は、トイレの前のロングシートで画板を抱えていました)

道中は遠足気分で、沿線の田園風景、高原風景、万緑にそれぞれ右往左往しながら句作。

奥坂まやさんがじっと車輌の前方を凝視して句を読み続けていたのが印象的でした。

 

さて、往路は時間調整は余りなく、野辺山駅には11時過ぎに到着。

ここで1時間余り吟行、昼食時間。

私は、5分ほど離れた場所にある中華料理屋へ。

付近を今朝獲れ立てのレタスを満載したトラックが頻繁に行き帰っていました。

高原列車吟行の舞台はJR最新のハイブリット電車

投句〆切は復路乗車時、5句。投句場所は投句籠を背負った小山さんを探さなければなりません。

帰りの鉄路で句会。

酔ってしまうことを心配していましたが、丁度短冊を配りきった段階で電車が

1時間30分ばかし停車。その間に清記と選句を済ませることが出来ました。

 

披講及びスタッフ俳人による講評(ここも、他の句会とやり方が変っていました)は移動する車中で。

お二人の軽妙なやり取りに場は盛り上がっていました。

電車は15時過ぎに小諸駅入線。句会が終り解散したのは15時15分頃でした。

 

なお、句会の成果ですが、さすが「鉄道の夏潮」と呼ばれることだけあり、

 

★行方克巳特選

盆花も大豆も一つ畑かな 児玉和子

★奥坂まや特選

一ト雨に青田の密度増しにけり 杉原祐之

 

を初め、「夏潮」勢大活躍でありました。

 

今回の「高原列車吟行」に関しては、5月末に行ったテストが効果的であったと思います。

準備に携わった皆様、本当に有難うございました。

ぜひ、皆様次年度以降チャンスがあれば乗車してみてください。

 

花鳥諷詠心得帖20 二、ことばの約束 -12- 「漢字(仮名の出現)」

本稿を愛読して下さっている、筆者の中学時代の恩師から、本欄について叱られた。

誰でも判っているような話をだらだら書くのは貴重な誌面の無駄遣いであると。
洵に先生の仰る通りなのだが、日本語についての筆者の「復習」のつもりということでお許し頂きたい。

前回触れた通り、大和の国家経営にとって漢字は大切なツールだった。
従ってその読み書きに堪能な帰化人は役人として重宝された。
それが「史人(ふひと)」と呼ばれる人々だ。
彼らは家の芸として漢語・漢字を操り、代々その職に就いた。
しかし帰化人達の漢字能力も、子や孫の代になると大和言葉の日常生活の中で徐々に衰えていく。
そんな環境の中で漢字使用の日本語化が進んでいったに違いない。

一方、日本のさまざまのことを「漢文」で表現して行く上でどうしても漢訳出来ない部分がある。
例えば固有名詞だ。
そこで漢字の「音(おん)」に頼って日本の固有名詞を漢字で表記してしまう方法が工夫された。
丁度近代になって英語で表現できない地名などをローマ字で表現したのに似ている。
(山上の)オクラという人名を「憶」と「良」の字音を利用して「憶良」と表す類である。
このように大和の言葉を漢字で表現したのが所謂「万葉仮名」である。

仮名とは呼ぶが見た目は漢字の文字列そのものである。
つまり「万葉仮名」という文字があるのではなく、「万葉仮名」という漢字の使用方法があるのだ。
因みに「仮名」の対立語は「眞名」、漢字の本来の使用法の意である。
これらの万葉仮名の字体が時間とともに「草書体」となって行くと「草の仮名」、
すなわち今の「ひらがな」になって行く。

ひらがなの出現は基本的には漢文を修得しないことになっている女性達に筆録の機会を与えた。
やがて女流歌人が活躍し、『源氏物語』や『枕草子』が登場する素地が用意されたことになる。
それでも男は何処までも漢文で公的事務をこなし、日記も漢文で記す。
再び現代の英語と日本語の関係に準えるなら、男は毎日オフィスで英語の書類を処理し、
日記も詩も英語で楽しむ。
一方女性は家庭内にあって日本語で暮らし、手紙や和歌はローマ字でつづる、といったところか。

ここで一つ重要な事がある。それは当時の男性が女性と心を通じようとするなら漢文では駄目で、
宜しく和歌をもって語り掛けなければならなかった。
ということは原則として漢語は使用出来ない。
勿論その根幹にはもっと呪術的な理由もあるのだろうが、ともかく和歌に漢語は現れない。
明治に至って新派の歌人達が大革新を行うまで和歌はどこまでも「大和詞」で綴られたのだ。

この和歌ならびに純正連歌の厳格な語彙制限に風穴を開けたのが「俳諧」。
次回はその辺のお話。(つづく)