潮騒を聴きながら(雑詠句評)」カテゴリーアーカイブ

おでん屋にゐるかと見ればをりにけり  児玉和子

 季題は「おでん」。季題に関して「厳密」を旨とするという立場を表明している人々なら、「おでん屋」は一年中「おでん屋」で、真夏でも「おでん」を売っているのだから季題にはならないのだ、と宣うのであろうが、一句中に他に季題になると思われる言葉がないのだから、一句の季題は「おでん」で季節は「冬」となるのである。 これで何の問題もない。例えばこれが「おでん屋の客無きときの扇風機」というのであれば、これは「扇風機」が季題で、夏の句となる。こちらはこれで何の問題もない。

 さて一句は誰かを探して夜の巷を訪ね回って居る人物が主人公。探されているのは友人か、仕事仲間か、はたまた家族か。ともかく食事をしているであろうからと、心当たりを探していたのではなく、一杯吞んでいるに違いないと思って、見当をつけて探し当てたのである。そんな「見当」で当たるということは、新宿とか渋谷とかいう繁華街では無く、もう少し狭い範囲の、選択肢の少ない「盛り場」らしい。どこか鉄道沿線の、少々の飲み屋街のある町。「どうせ、どこかで飲み始めていることだろうよ」てな見当で「おでん屋」の縄のれんを跳ね上げて、ガラリと戸を開けてみると案の定カウンターに猫背になってちびちびやっている「尋ね人」を見つけたところである。

 一句の良い所は、いかにも「軽い」内容を、いかにも「軽い」リズム感のなかに貼り付けたところ。深遠な「文学」というのではないが、この場面に到るまでの人間模様などを穿鑿してみると、「おでん屋」の縄のれんにいたるまでの、小寒い「北風」の様子だけでなく、文学以前のような「心の行き違い」などまで見えてこよう。(本井 英)

返納を前にドライブ暮の秋  田中幸子

 季題は「暮の秋」。「秋」の末頃という意味で、「秋の暮」とは違う。「返納」、これだけではさまざまの場合があって、不分明の謗りを免れないようにも見えるが、「ドライブ」という言葉から、近年話題となっている、「高齢者」による「自動車運転免許証」の「自主返納」のことであるらしいことは凡そ見当がつく。読み手が「多分そんなことであろう」と、ある程度の自信をもって想像できたら、それで良い。「返納」という言葉自体は、さまざまな場面で使用されるであろう。だから「いや、こんな場合だってあるだろう」、「こんな可能性だって否定出来ない」などとマイナスの可能性を云々する読者は、俳句には向いていない。「俳句」は出来るだけ「善意」をもって接するべきものだからである。

 さてハンドルを握っているのは作者でも構わないが、場面としては、それなりにお年を召した男性であって欲しい。

 助手席には当然のようにその「細君」。さまざまの判断があって、いよいよ明日には「免許証」を返納することとなって、最後の「ドライブ」に出掛けたのだ。行く先は「箱根」とか「日光」とか。もしかしたら、二人がまだ一緒に暮らすようになる前に訪れた景勝地かも知れない。あれから何十年経ったのだろう。「あのドライブの日」には錦繍を綴るようだった「紅葉」も、今日はすっかり色褪せて、「冬」がもうそこまで来ている。「ああ、時はこうして……」と思わずにはいられない作者の心の裡が厭というほど判る。(本井 英)

敗荷の鉢の並びぬ坂の道   藤田千秋

 季題は「敗荷」。秋も深くなって、葉の破れた蓮である。蓮は、たとえば不忍池などでもそうだが、春、水面に浮葉を浮かべ、夏、花を咲かせ、秋には実を飛ばし、四季折々に人々の目を楽しませるが、この「敗荷」の頃から、ようよう注目されなくなっていく。しかし俳人はこの「敗荷」から、「枯蓮」の時期が大好き。どことなく漂う「あはれ」がたまらないのである。聞いた話だが「蓮」は存外水中酸素を欲しがらない植物の由。従って広々とした水面でなくても、それこそ「鉢」でも充分栽培できるらしい。そう言えば「蓮」はお釈迦様と縁が深いからか、町場のお寺の境内などにところ狹しと「蓮の鉢」の並んでいる景色を見かける。そしてこの句もそんな景色を想像せしめる。一句の面白いところは「坂の道」。勿論作者に言わせれば「事実であった」に尽きるのであろうが、読者としてはその「坂の道」が楽しくて仕方がないのだ。山門を過ぎて庫裏へでも向かう「坂道」、その両脇に、所狭しと並べられた「鉢」。水が残っていても、泥だけになっていても、鉢の「縁」の角度と水面の角度は、どの鉢についても「ややズレている」。そんな些細なことではあるのだが、「一つの景色」として表現されると、「浮き葉」が浮かんでいた季節、花托が伸び上がって見事な「花」を着けた頃。どの季節にも水面の角度と、「縁」の角度に微妙な「食い違い」が想像されて楽しいのである。(本井 英)

母を待つ子らに鈴虫鳴きにけり   原田淳子

 季題は「鈴虫」。「リーン、リーン」と鈴を振るような音色で鳴く虫である。ときどき街で「虫屋」さんが「小さな籠」に入れた「鈴虫」を売っていたりもする。 

 部屋の真ん中には、何時だったか「お父さん」が街で買ってきた「鈴虫」がしきりに鳴いている。籠の中には、子供たちが一生懸命世話して居る証しのナスやキューリが入っているかも知れない。「お母さん」はお出かけ中。「子供たち」はそれぞれ宿題などをやりながら「お母さん」の帰りを待っている。外がだいぶ暗くなってきて、テーブルの上の籠のなかでは「リーン、リーン」と鈴虫が鳴き始めた。「子供たち」は口には出さないが、「お母さん」が早く帰って来ないかなあと、ドアのチャイムの鳴るのを今か今かと待っている。

 なんだか一昔前の童話の世界のような雰囲気が漂う一句である。「鳴きにけり」の下五に、何とも言えない無欲な情感が漂っている。(本井 英)

引揚げ船待ちて野営の夜の長き  牧原 秋

 季題は「夜長」、秋である。「花鳥諷詠」は、どこまでも「季題」が中心。事柄が初めにあって、後から「季題」を便宜的に斡旋するものではない。従って多くの作句の現場は、まず「季題」と出会って、その出合いから、事柄や景が立ち上がってくる。吟行という場面設定が比較的「花鳥諷詠」に叶っている所以である。しかし「季題」によって遠い記憶が呼び覚まされ、その遠い過去の「場面」を写生することも「花鳥諷詠」の範疇を出るものではない。「兼題」を案ずるのもこれと同様である。

 さて掲出句は「引揚げ船」というまことに特殊な言葉によって、読者は一気に七十年以上も前の記憶の世界に引っ張り込まれる。「引揚げ船」は大東亜戦争の敗戦に伴って、海外に於いて居場所を失ってしまった軍人・軍属、および一般市民を日本本土に帰還させるための船。六百万人といわれた在外同胞が祖国の地を踏むには十数年の歳月を要した。一句はその「引揚げ船」を待つ、港近くの「野営地」が舞台。筆者にはなかなか想像の及ばない部分も多いが、ともかく、一日千秋の思いで「船」を待つ身に「秋」が深まり、冬も近づいている「夜長」の夜々。そんな切ない景が焦点の定まらぬままに筆者の脳裏に浮かぶ。「夜長」という季題の持っている「淋しさ」の一面が伝わってくる。(本井 英)