敗荷の鉢の並びぬ坂の道   藤田千秋

 季題は「敗荷」。秋も深くなって、葉の破れた蓮である。蓮は、たとえば不忍池などでもそうだが、春、水面に浮葉を浮かべ、夏、花を咲かせ、秋には実を飛ばし、四季折々に人々の目を楽しませるが、この「敗荷」の頃から、ようよう注目されなくなっていく。しかし俳人はこの「敗荷」から、「枯蓮」の時期が大好き。どことなく漂う「あはれ」がたまらないのである。聞いた話だが「蓮」は存外水中酸素を欲しがらない植物の由。従って広々とした水面でなくても、それこそ「鉢」でも充分栽培できるらしい。そう言えば「蓮」はお釈迦様と縁が深いからか、町場のお寺の境内などにところ狹しと「蓮の鉢」の並んでいる景色を見かける。そしてこの句もそんな景色を想像せしめる。一句の面白いところは「坂の道」。勿論作者に言わせれば「事実であった」に尽きるのであろうが、読者としてはその「坂の道」が楽しくて仕方がないのだ。山門を過ぎて庫裏へでも向かう「坂道」、その両脇に、所狭しと並べられた「鉢」。水が残っていても、泥だけになっていても、鉢の「縁」の角度と水面の角度は、どの鉢についても「ややズレている」。そんな些細なことではあるのだが、「一つの景色」として表現されると、「浮き葉」が浮かんでいた季節、花托が伸び上がって見事な「花」を着けた頃。どの季節にも水面の角度と、「縁」の角度に微妙な「食い違い」が想像されて楽しいのである。(本井 英)

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