潮騒を聴きながら(雑詠句評)」カテゴリーアーカイブ

八月や深き疲れに眼閉ぢ  児玉和子

 季題は「八月」。勿論新暦の「八月」であろう。筆者にも『八月』という句集があるが、八月の上旬には「立秋」という厳然たる「秋」の到来はあるものの、「暑さ」はますます猛威を奮う時節であり、さらに近代の日本人にとって決して忘れることのできない「広島」・「長崎」の原爆投下、さらには「終戦記念日」もある。あるいは本来なら「七月十五日」という日付けの「盆」も、さまざまの経緯から一ヵ月遅れの「八月十五日」を中心に執り行われるのが現実である。となれば彼岸の人達との交流もおよそこの頃のこと。そんな「含蓄」の深く籠められた「八月」に作者は「深き疲れ」に襲われ、「眼コ」を「閉じる」という情況にある、というのである。それ以上のことにこの句は触れていない。それが、どのような「疲れ」なのか、さらにはどのような「情況」によってもたらされたのか。一切不明である。しかし、その「深き疲れ」にじっと「眼コ」を「閉づ」状態の自らをじっと感じている作者本人の思いは、自ずから滲み出て来る。さらにそうした「思い」が自分だけのものでは無いのだということを、了解しての一句である。(本井 英)

掬はれて名前を貰ひ屑金魚  村田うさぎ

 「金魚」は夏の季題。大きさも値段も「ピンキリ」で「蘭鋳」などとなると一尾何万円もするらしい。一方、金魚掬い用の安物はまさに「屑金魚」、もっとひどいのになると他の動物や魚の為の「生き餌」として売り買いされるものもあるらしい。さて本句の「屑金魚」は「掬はれて」とあるように「金魚掬い」のための「金魚」だ。そんな「金魚」だったが、家に連れて帰られて、水槽に放たれると、なんとなく家族の一員のように扱われ、「名前」を付けてもらって、「餌」を貰うような幸運を得たというのである。まさに「赤いべべ着た 可愛い金魚 おめめさませば 御馳走するぞ」の境遇だ。心優しい「子供」とその家族の振る舞いを、あっさりと表現していながら、よく考えると、「生きる」とか「運命」とかいう重い言葉が背後にちらちら見える句になっていると思えた。(本井 英)

競馬場のスタンド見ゆる植田かな  冨田いづみ

 季題は「植田」。早苗を植えてまだ間も無い頃の田圃である。「代田」との違いは、勿論、植えて有るか無いかの違いで判りやすいが、「青田」との違いは微妙である。筆者は「空」が映り込む間は「植田」。水面が見えなくなるのが「青田」というぐらいの目安で考えている。そう考えると「植田」という時期はそう長くは無いかも知れない。「競馬場」のスタンドは馬場の遠くまで見渡す必要もあって、なかなか高い建物が多いようであるが、筆者は、この句の作者ほどには「競馬場」を訪れたことが無いので、詳しくは知らない。脳裏に浮かぶのは「右に見える競馬場、左はビール工場」といった歌詞ぐらいだが、あんな処に「田圃」はあったかしら?と思うと、いささか不安にもなる。

 あるいは「その道の達人」になると「新潟」とか「福島」とかの競馬場まで進出するのかも知れないが、さすがにそれらの「競馬場」のロケーションについて筆者の知るところではない。ともかく一面に広がった「植田」越しに「競馬場のスタンド」が仰がれ、良く見ると「田の面」にちらちらとそれらしい色が映っているのである。初夏の気持ちいい風が戦いでいる。(本井 英)

雉子啼く喉に力を入れて啼く 北原みゆき

 季題は「雉子」。「きじ」とも呼べば、「きぎす」ともいう。筆者が自覚的に雉の声を聴いたのは、随分大人になってからのこと。それまで知識として和歌に詠まれたものや、あるいは「雉も啼かずば撃たれまい」のような諺では、知ってはいたが、雄の雉が、二声づつ、もの悲しげに啼く声を知ってからは、特別の心の揺れを覚えるようになった。そして富山、呉羽山で聴いた「雉」の、ちょっともの悲しげな、そして遠くまで聞こえる「あの声」は今でも、耳に甦る。この句の魅力の在りどころは、「啼く」の繰り返し。先ず一度「啼く」と提示しておいて、さらに重ねて、「喉に力を入れて」と繰り返す。そこに雌の雉を慕う、「雉の夫」の切ない気分が否応なく籠められている。作者の心が「雉の夫」に「ひたっ」と寄り添っていることが判る。(本井 英)

楽隊のラッパより春溢れ出す   釜田眞吾

 季題は「春」。抽象的な「春」という季題が「ラッパ」から「溢れ」出るという感じ方が、やや感覚的ながら、どこかに実感がある。一句の工夫は「ラッパ」。あえて金管楽器を、大雑把に言いなしたために、トランペットやホルン、さらにはチューバ、スーザホンに至るまでさまざまの形を読者は頭の中で想像する。「楽隊」というのであるから何人かの隊員がいて、あるいは行進をしている最中かもしれない。ともかく筆者の頭に浮かんだのは、いろいろある「ラッパ」の音の「出口?」の形状であった。「管」が、同じような太さで、ぐるぐる巻いていたものが、最後に「ふわっと」膨らみ、拡がって、「音」が溢れ出てくる。この「溢れ出る」様子が、まさに「春」を迎えた喜びの心に通じると作者は直感したのである。難しい言い回しはどこにも無いが、作者の、あるいは読者も含めて、生きているものが等しく感じる「喜び」を歌いあげてくれた句だと思った。(本井 英)