八月や深き疲れに眼閉ぢ  児玉和子

 季題は「八月」。勿論新暦の「八月」であろう。筆者にも『八月』という句集があるが、八月の上旬には「立秋」という厳然たる「秋」の到来はあるものの、「暑さ」はますます猛威を奮う時節であり、さらに近代の日本人にとって決して忘れることのできない「広島」・「長崎」の原爆投下、さらには「終戦記念日」もある。あるいは本来なら「七月十五日」という日付けの「盆」も、さまざまの経緯から一ヵ月遅れの「八月十五日」を中心に執り行われるのが現実である。となれば彼岸の人達との交流もおよそこの頃のこと。そんな「含蓄」の深く籠められた「八月」に作者は「深き疲れ」に襲われ、「眼コ」を「閉じる」という情況にある、というのである。それ以上のことにこの句は触れていない。それが、どのような「疲れ」なのか、さらにはどのような「情況」によってもたらされたのか。一切不明である。しかし、その「深き疲れ」にじっと「眼コ」を「閉づ」状態の自らをじっと感じている作者本人の思いは、自ずから滲み出て来る。さらにそうした「思い」が自分だけのものでは無いのだということを、了解しての一句である。(本井 英)

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