潮騒を聴きながら(雑詠句評)」カテゴリーアーカイブ

どつさりと高く黄色く棕櫚の花  原 昌平

 季題は「棕櫚の花」。まことに特徴のある「花」であるが、また一方、俳句を詠むようになるまでは、なかなか気が付かない「花」でもある。全体、様子の変わった樹木で「毛むくじゃら」の幹などは鐘を撞く撞木ぐらいしか使い道もなさそうだ。そして「花」ははじめグロテスクな黄色い「舌」のように頂きから垂れ下がり、ぼろぼろと粟状の小花を咲かせる。そんな「棕櫚の花」を「どっさりと」と形容した視点はまことに的確で、「量感」「質感」ともに表現しえて「妙」というべきであろう。決して派手な句ではないが、誠実な写生の眼差しが捉えた「ひとつの景色」である。(本井 英)

酸実の花日影にはかに夏めきぬ  青木百舌鳥

 「酸(ズ)実(ミ)の花」は「小梨の花」とも呼ばれ、山地の荒地や湿原などで見かける。上高地の河童橋近くの「小梨平」など、この花に因んだ命名であろう。純白な清楚な五弁花は印象深い。「酸実の花」でも夏の季題として採用している歳時記は少なくないが、この句の季題は「夏めく」。つまり一句の主役は「酸実の花」ではなくて、その花を咲かせている木立の作る「日影」の様子から、作者は「夏の到来」を実感したというのである。さきほど「上高地」の地名に言及したが、筆者が初めてこの花を認識したのは軽井沢でのこと。ご一緒だった清崎先生が「ズミだよ」と教えて下さった。この句、つまりは「酸実の花」の咲く頃の信州の「空気感」みたいなものが間違いなくある。それも「日向」でなく「日影」。筆者のような関東者にとって「夏の信州」は憧れの対象、その象徴のように「酸実の花」は咲いている。(本井 英)

後手に長き梶棒春潮へ   柳沢木菟

 季題は「春潮」。天候によって、また地方によってもさまざまではあるが、何となく穏やかな、それでいて力強い海原が脳裏に浮かぶ。「梶棒」は舟の場合は「舵」を操るための「棒」。つまり板状の「ラダー」に取り付けた棒状の「ティラー」である。長い方が「梃子の原理」で力は軽くて済むが、操作範囲は広くなる。そして「舵」は概ね船尾に付いているから「後手」で操作しなければ、進行方向への注視は出来ない。

 と、ここまで句解をしてきて、この句が実に無駄なく、無理なく「ある動的な場面」を描写出来ていることに思い至った。そして、一方景色としてはまことに平凡な、ありきたりなものであることも確認した。勿論、全てを包み込む「情」は「春潮」が我々にもたらす「やはらかい」何かなのだが、そのこととは別に、この句が私を惹きつける原因は、「ことば」の無駄のない、無理のない、「組み上がり」なのではあるまいか。「花鳥諷詠」・「客観写生」と虚子は言ったが、その中には、こうした「ことば」たちの、「コケ脅かし」や「品を欠く意匠」から最も遠い、一見平凡に見えながらも、実質的に機能した「言葉の組み上がり」の上品さがあるのではなかろうか。当然ながら、それらが作者の、「物欲しげ」とは正反対の「上質な心根」の上に成り立っていることは言うまでもあるまい。(本井 英)

薫風や鉋の背より鉋屑   山口照男

 一読、「鉋の背より鉋屑」のフレーズに心を奪われて、とびついてしまう読者も少なからずあるかと思うが、この句はどこまでも「薫風」が季題。「薫風」がテーマである。確かに映像的にこの句を味わおうとすると、「鉋」の「刃」の裏側、即ち「背」からしゅるしゅると飛び出して来る極々薄い木の片が印象的に眼に焼き付き、読者は作者の「技量」をそこに見ようとする。一句の中心がそこにあるなら、「薫風や」でも「万緑や」でも「五月晴」でも、作者の手柄は大して変わらないことになる。たしかに「鉋の背より鉋屑」は気持ちの良い、スピード感のある表現には違いないが、「薫風」という季題の持つ乾いた清涼感の中に置いて、はじめて活き活きと目に見えてくる点を忘れてはならない。浮世絵版画にでもありそうな、肯定的な空気感、清潔な生活感が一句を包んでいる。それもこれも「薫風」がもたらしているものである点を強調したい。(本井 英)

吾が帽子かぶせてやりぬ磯遊  前北かおる

 季題は「磯遊」。「野遊」、「山遊」と並んで人気のある春の行楽である。「潮干狩」とはややことなるが、春の大潮は干満の差が大きいので殊に面白い。作者はまだ幼い子供を連れて、ここの磯場に来てみたのであろう。子供は夢中になって潮だまりを覗き込んだりしている。思いの外に磯で遊ぶ時間が長くなって、「子供」に帽子を被らせて来なかったことに気が付いた。春の磯の日ざしは存外強い。

 そこで一心に潮だまりを覗き込んでいる幼子に「吾が帽子」を被せてやることとなったのである。一句の味わいどころは、大きな「大人の帽子」をまだまだ幼い「子供の頭」に被せた、不思議なアンバランス。それでいて一層、あるいはだからこそ、その可愛らしさが心に沁みるところ。「ことば」の遊びではなく、実景に裏打ちされているところが一句の強みである。(本井 英)