後手に長き梶棒春潮へ   柳沢木菟

 季題は「春潮」。天候によって、また地方によってもさまざまではあるが、何となく穏やかな、それでいて力強い海原が脳裏に浮かぶ。「梶棒」は舟の場合は「舵」を操るための「棒」。つまり板状の「ラダー」に取り付けた棒状の「ティラー」である。長い方が「梃子の原理」で力は軽くて済むが、操作範囲は広くなる。そして「舵」は概ね船尾に付いているから「後手」で操作しなければ、進行方向への注視は出来ない。

 と、ここまで句解をしてきて、この句が実に無駄なく、無理なく「ある動的な場面」を描写出来ていることに思い至った。そして、一方景色としてはまことに平凡な、ありきたりなものであることも確認した。勿論、全てを包み込む「情」は「春潮」が我々にもたらす「やはらかい」何かなのだが、そのこととは別に、この句が私を惹きつける原因は、「ことば」の無駄のない、無理のない、「組み上がり」なのではあるまいか。「花鳥諷詠」・「客観写生」と虚子は言ったが、その中には、こうした「ことば」たちの、「コケ脅かし」や「品を欠く意匠」から最も遠い、一見平凡に見えながらも、実質的に機能した「言葉の組み上がり」の上品さがあるのではなかろうか。当然ながら、それらが作者の、「物欲しげ」とは正反対の「上質な心根」の上に成り立っていることは言うまでもあるまい。(本井 英)

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