花鳥諷詠心得帖」カテゴリーアーカイブ

花鳥諷詠心得帖24 二、ことばの約束-16- 「変体仮名」

漢字から仮名への話をしながら、話柄が一気にカタカナに移ってしまって、
所謂「変体仮名」の話をしなかったので、それについて若干触れておこう。

「変体仮名」の対立語を無理に言えば「正体仮名」とでも言うのだろうが、不勉強で耳にした事がない。
現在通行している「ひらがな」の字体が権威を得たのは明治三十三年八月の「小学校令施行規則」に
定められたのが初めと言われており、その時点から、他の「ひらがな」は屈辱的な「変体」の二文字を
付けられた訳だ。

それ以前は「万葉仮名」以来どの仮名が正統でどの仮名が異端などと言うことは無かった。
万葉仮名では一つの音に対して複数の万葉仮名が当てられていた。
おそらくは筆者の恣意で使用する万葉仮名を定めていたのであろうが、詳しくは判らない。

ただし単語によって、同じ音なのに一定の法則性をもって万葉仮名を遣い分けていた事から、
有名な「上代特殊仮名遣い」の発見があったことも事実だ。

「上代特殊仮名遣い」というのは万葉仮名使用の「ある法則性」から、日本の古代語には
現在のような五母音ではなく、八母音があった事を突き止めた研究だが、
今回の話には直接関係が無いのでこれ以上は触れない。

ともかく万葉仮名では一音に対していくつかの仮名があり、それはそのまま「ひらがな」にも受け継がれて、王朝時代の物語でも、鎌倉室町時代の随筆でも、およそ「ひらがな」で書かれた部分に登場する仮名文字の種類は現代のそれと違って豊かであった。たとえば「カ」について考えてみると明治三十三年以降学校教育では漢字の「加」を字母とした「か」が正しいとされた。

現に今筆者がNECの「ヴァリュースター」というパソコンに「一太郎」というソフトを乗せて書いているキーボードでは「k」のキーと「a」のキーを連続して押せば、いやでも「か」が画面に現れ、それ以外の「カ」は現れない。
ところが我々の実際の生活場面では可能の「可」を字母とする「カ」も頻繁に登場してくる。
浅草観音様の山門の大提灯の「魚がし」の「か」は「可」を字母とした「カ」であるし、昔から女手紙の文末も、「ゝ」と書いてくるっと豚の尻尾のように巻いて、「し」が真っ直ぐに縦に伸びて、それに続けて「こ」とあるのが女らしくて良かった。

最近では「かしこ」全盛。
それどころか「敬具」、「不一」で終わる女手紙も堂々と往来している。
俳句の短冊の「かな」もどちらかと言えば、「可」「奈」の方が収まりがよく、以前に本欄で取り上げた
「落穂帖」の虚子短冊中の「かな」も「可」使用の方が多かったように記憶している。

変体仮名。
知らなくても何も困らないような気もするが、俳人としては、それでは一寸淋しい。
芭蕉以来の先輩達の短冊や半切に接した時のためにも、知っておいた方が楽しいと思う。

花鳥諷詠心得帖23 二、ことばの約束-15- 「カタカナ」

「カタカナ」は一種の発音記号みたいなものだと前回述べた。

だから擬音語などは「ひらがな」よりリアリティーがあるとも言った。その刹那的な「定め無き」ありようから、無責任なあるいは社会通念上認めがたい「もの」を表す場合も「カタカナ」は重宝だ。

たとえば「ネコババ」「ピンハネ」「インチキ」。どれも「ひらがな」では表し切れない「ヤバイ」感じが伝わってくる。「サクラ」と書けば桜の樹や花より先に、道端の「叩き売り」の前に陣取って、感心したり、買ったりしているその仲間を想像してしまう。

つまりは文字として軽薄なのだ。ということは、俳句にはなかなか用い難い。

たとえば、

ぢぢと鳴く蝉草にある夕立かな 虚子 どかと解く夏帯に句を書けとこそ 々 ひらひらと深きが上の落葉かな 々 たらたらと藤の落葉の続くなり 々 ぱつと火になりたる蜘蛛や草を焼く 々

の中の「ぢぢ」「どか」「ひらひら」「たらたら」「ぱつと」などの「ひらがな」部分を「カタカナ」で表記したら、どうなるだろう。

「ヂヂ」「ドカ」「ヒラヒラ」「タラタラ」「パッと」とした方が確かに臨場感は出るのだが、文芸としての統一されたある美感は完全に損なわれてしまう。一句全体として、あるいは塊として保っている文学的表現に破綻が生じてしまうのだ。

ここで思い出す句がある、

リリリリリチチリリリチチリリと虫  月舟

極端なリアリズムの句として人々によく知られた句だが、確かに臨場感を表さんとするあまり文芸としての枠を逸脱しており、いずれダダイズムなどと合流する傾向すら見られる。かつての「談林」の俳諧師達なら先を争って試みたに違いない、蓮っ葉な世界だ。

では俳句に「カタカナ」は使用されないか。否。そこに外来語という語群があった。

コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな 虚子 バス来るや虹の立ちたる湖畔村 々

これらの「コレラ」「バス」は「ひらがな」では表せない。みな西洋起源の外来語だ。では何故外来語は「カタカナ」で書くのか。それは日本語の語彙として「最終受け入れ」を拒んでいるからだ、とも言える。つまり「怪しげなもの」として「カタカナ」で、即ち発音記号で、仮に表現しておくのだ。言葉としては認めたくない、でも現実に「物」がある以上無視はできない。それが外来語、「カタカナ語」だ。

日本語という言語は柔軟な言語だ。千何百年前に漢字と出会った時、それに呑み込まれずに漢字を道具にしてしまった。百何十年前に本格的に西洋語と出会うと、またまた呑み込まれずに道具にしてしまう。その巧妙な仕掛けが「カタカナ」とも言える。

花鳥諷詠心得帖22 二、ことばの約束-14- カタカナ

文語・口語の話、仮名遣いの話、漢字・漢語の話、と進めてきた「ことばの約束」。

続いては「カタカナ」の話。

「カタカナ」もその名のごとく「仮名」である。「仮名」の第一号が「万葉仮名」で字体としては「漢字」そのものである点は既に述べた。

またその「万葉仮名」を草書体に崩したところから「草の仮名」即ち「ひらがな」の発展していった話もした、はず。ところで今回の「カタカナ」はと言うと。元々は漢文訓読の場面にその存在の意味があった。「漢字」の項でも触れたように、漢字はもともと「漢文」を表記するための文字。

その漢字で書かれた漢文は、上から順に中国音で読めれば本来。たとえばサンスクリット語で書かれていた「釈尊の教え」を中国へ持ち帰って漢語訳したのが、我々の知っている「お経」。

「お経」は本来の仕来りに則って、漢音で上から順に訓む。だから聴いていても「解らない」。

漢文を日本人にも解るように訓むには、語順を入れ替えながら、「てにをは」を補って訓むしかない。

白文に訓点を施して訓む。

さらに補助的に「仮名」を添えて訓み間違えないようにする。

その場合の「仮名」は字画が単純なのが、場所をとらなくって良い。そこで「万葉仮名」の一部分を用いて代用させた。カタカナの始まりだ。

「草の仮名」から発達した「ひらがな」は主に女性達に愛用され、和歌や物語を記す道具として一人前の地位を築いたのに対して、「カタカナ」は何処までも漢文訓読の補助記号であった。

もともと「カタカナ」の呼称そのものが、「カタ」つまり「不十分」の意味を負っているのだ。赤ん坊の「片言」の「カタ」と同じだ。

明治時代に制定された古い法文(確か「刑法」などそうであったか)が「漢字片仮名混じり文」で表記されていることから、片仮名の方が平仮名より権威あるもののように誤解する向きもあるが、それは間違いで、「漢字片仮名混じり文」中の片仮名は「文字」ではなく漢文訓読上の補助記号と心得るべきものであろう。

因みに日本ではつい最近まで「漢文」が正式だったのだ。たとえばの話、日本の正史とされている「日本書紀」は漢文で書かれているではないか。あるいは江戸時代の俳書などでも序文・跋文は漢文が多い。

ところで「カタカナ」はいわば発音記号である、となると気づくことがある。たとえば「雷鳴」を表す場合、「ごろごろ」より「ゴロゴロ」の方が、実際の音の感じが出る。「ごつん」と殴るより「ゴツン」とやった方が痛そうだ。「あなたを愛してるわ」と手紙に書かれるより「あなたを愛してるワ」と書かれた方が、その娘の顔や口元が想像できる。いわばリアリティーがあるわけだが、それらは結局われわれが「カタカナ」を事柄を象徴する文字というより、音を伝達する「記号」と捉えているからに他ならない。

花鳥諷詠心得帖21 二、ことばの約束 -13- 「漢字(漢語と俳諧)」

「俳諧」という言葉は結構古い言葉で、既に『古今集』に「誹諧歌」のあることはご存知の方も多いだろう。

表向き真面目な和歌に対して「誹諧歌」は滑稽を主とした「ヲコ」なるものであった。

一方連歌も正式に書き留められなかっただけで、古今集の時代に既に「楽しまれて」いた。
本来一人で詠うべき「五七五七七」を「五七五」と「七七」に分けて二人で作る。
つまり「唱和」をして一作品を為す、というのは楽しいゲームであった。

そんな「五七五」と「七七」に更に「五七五」を繋いだのが「鎖連歌」の発端だ。
「五七五」に「七七」を、その「七七」に「五七五」を、また「七七」と際限なく連想の輪を拡げてゆくゲーム。
これも大いに好まれ、終いには「連歌」を一廉の文芸として楽しむようになる。
室町時代の二条良基・宗祇といった人々は、この連歌の達人であった。

ところで此処で確認をして置かなければならないことは、この「連歌」はあくまで「和歌」の拡大したもので、
「世界」、具体的には「用語」は「和歌」のそれ、つまり純粋な「大和詞」で綴らなければならなかった。

さてそこで室町時代の末近くなって、これら「俳諧」と「連歌」が結びついて「俳諧連歌」なるものが登場、
新興の武士や町人に好まれて、現代的で親しみやすい文芸となった。
江戸時代に入ると世の中の安定と貨幣経済の拡大によってますます文芸は庶民のものとして広まっていく。
この近世の寵児とも言うべき「俳諧」の最初のマイスター(親分)が松永貞徳。
本来古典文芸や連歌に長じていた教養人であったが、多くの庶民を啓蒙的に導く役目から、
俳諧の大御所として君臨した。
この貞徳による「俳諧」の定義こそが「俳言」である。つまり「俳言」のあるなしが、「俳諧」か「連歌」かの違いを見極める目安とされたのだ。

では「俳言」とは具体的にどんな言葉か。
つまりは「俚言」と「漢語」でる。「俚言」は判る。
即ち「和歌」ではとても使えない日常語、方言、下卑た言葉などだ。
そして「漢語」。
前回も指摘したように「和歌」の世界では明治に至るまで「漢語」の使用は認められていない。
現代の日本語は勿論、近世の日本語でも「漢語」の語彙全体に占めるパセンテージは低くない。
分かり易く考えれば漢字を「音読み」した単語だ。

「和歌」はその広大な言葉の地平を無視して創作し続けてきた。
それに対して「俳諧」は「漢語」使用の解禁によって、名実共に現代文学(江戸時代の)としての基盤を得た
と言っても良い。
京・大坂・江戸で毎日繰り広げられている庶民の生活、また交通の発達と共に知られて来た地方の生活、
さらには百姓や漁師の日常が詩歌の対象に初めてなったのだ。
「漢語」こそが俳諧文芸の強い足腰の要だったのだ。

花鳥諷詠心得帖20 二、ことばの約束 -12- 「漢字(仮名の出現)」

本稿を愛読して下さっている、筆者の中学時代の恩師から、本欄について叱られた。

誰でも判っているような話をだらだら書くのは貴重な誌面の無駄遣いであると。
洵に先生の仰る通りなのだが、日本語についての筆者の「復習」のつもりということでお許し頂きたい。

前回触れた通り、大和の国家経営にとって漢字は大切なツールだった。
従ってその読み書きに堪能な帰化人は役人として重宝された。
それが「史人(ふひと)」と呼ばれる人々だ。
彼らは家の芸として漢語・漢字を操り、代々その職に就いた。
しかし帰化人達の漢字能力も、子や孫の代になると大和言葉の日常生活の中で徐々に衰えていく。
そんな環境の中で漢字使用の日本語化が進んでいったに違いない。

一方、日本のさまざまのことを「漢文」で表現して行く上でどうしても漢訳出来ない部分がある。
例えば固有名詞だ。
そこで漢字の「音(おん)」に頼って日本の固有名詞を漢字で表記してしまう方法が工夫された。
丁度近代になって英語で表現できない地名などをローマ字で表現したのに似ている。
(山上の)オクラという人名を「憶」と「良」の字音を利用して「憶良」と表す類である。
このように大和の言葉を漢字で表現したのが所謂「万葉仮名」である。

仮名とは呼ぶが見た目は漢字の文字列そのものである。
つまり「万葉仮名」という文字があるのではなく、「万葉仮名」という漢字の使用方法があるのだ。
因みに「仮名」の対立語は「眞名」、漢字の本来の使用法の意である。
これらの万葉仮名の字体が時間とともに「草書体」となって行くと「草の仮名」、
すなわち今の「ひらがな」になって行く。

ひらがなの出現は基本的には漢文を修得しないことになっている女性達に筆録の機会を与えた。
やがて女流歌人が活躍し、『源氏物語』や『枕草子』が登場する素地が用意されたことになる。
それでも男は何処までも漢文で公的事務をこなし、日記も漢文で記す。
再び現代の英語と日本語の関係に準えるなら、男は毎日オフィスで英語の書類を処理し、
日記も詩も英語で楽しむ。
一方女性は家庭内にあって日本語で暮らし、手紙や和歌はローマ字でつづる、といったところか。

ここで一つ重要な事がある。それは当時の男性が女性と心を通じようとするなら漢文では駄目で、
宜しく和歌をもって語り掛けなければならなかった。
ということは原則として漢語は使用出来ない。
勿論その根幹にはもっと呪術的な理由もあるのだろうが、ともかく和歌に漢語は現れない。
明治に至って新派の歌人達が大革新を行うまで和歌はどこまでも「大和詞」で綴られたのだ。

この和歌ならびに純正連歌の厳格な語彙制限に風穴を開けたのが「俳諧」。
次回はその辺のお話。(つづく)