花鳥諷詠心得帖21 二、ことばの約束 -13- 「漢字(漢語と俳諧)」

「俳諧」という言葉は結構古い言葉で、既に『古今集』に「誹諧歌」のあることはご存知の方も多いだろう。

表向き真面目な和歌に対して「誹諧歌」は滑稽を主とした「ヲコ」なるものであった。

一方連歌も正式に書き留められなかっただけで、古今集の時代に既に「楽しまれて」いた。
本来一人で詠うべき「五七五七七」を「五七五」と「七七」に分けて二人で作る。
つまり「唱和」をして一作品を為す、というのは楽しいゲームであった。

そんな「五七五」と「七七」に更に「五七五」を繋いだのが「鎖連歌」の発端だ。
「五七五」に「七七」を、その「七七」に「五七五」を、また「七七」と際限なく連想の輪を拡げてゆくゲーム。
これも大いに好まれ、終いには「連歌」を一廉の文芸として楽しむようになる。
室町時代の二条良基・宗祇といった人々は、この連歌の達人であった。

ところで此処で確認をして置かなければならないことは、この「連歌」はあくまで「和歌」の拡大したもので、
「世界」、具体的には「用語」は「和歌」のそれ、つまり純粋な「大和詞」で綴らなければならなかった。

さてそこで室町時代の末近くなって、これら「俳諧」と「連歌」が結びついて「俳諧連歌」なるものが登場、
新興の武士や町人に好まれて、現代的で親しみやすい文芸となった。
江戸時代に入ると世の中の安定と貨幣経済の拡大によってますます文芸は庶民のものとして広まっていく。
この近世の寵児とも言うべき「俳諧」の最初のマイスター(親分)が松永貞徳。
本来古典文芸や連歌に長じていた教養人であったが、多くの庶民を啓蒙的に導く役目から、
俳諧の大御所として君臨した。
この貞徳による「俳諧」の定義こそが「俳言」である。つまり「俳言」のあるなしが、「俳諧」か「連歌」かの違いを見極める目安とされたのだ。

では「俳言」とは具体的にどんな言葉か。
つまりは「俚言」と「漢語」でる。「俚言」は判る。
即ち「和歌」ではとても使えない日常語、方言、下卑た言葉などだ。
そして「漢語」。
前回も指摘したように「和歌」の世界では明治に至るまで「漢語」の使用は認められていない。
現代の日本語は勿論、近世の日本語でも「漢語」の語彙全体に占めるパセンテージは低くない。
分かり易く考えれば漢字を「音読み」した単語だ。

「和歌」はその広大な言葉の地平を無視して創作し続けてきた。
それに対して「俳諧」は「漢語」使用の解禁によって、名実共に現代文学(江戸時代の)としての基盤を得た
と言っても良い。
京・大坂・江戸で毎日繰り広げられている庶民の生活、また交通の発達と共に知られて来た地方の生活、
さらには百姓や漁師の日常が詩歌の対象に初めてなったのだ。
「漢語」こそが俳諧文芸の強い足腰の要だったのだ。