久々に自然教育園での吟行を楽しみました。いやー。吟行は愉しいですね。英
東京吟行会がありました
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課題句「草餅」 辻 梓渕 選 摘まみたる草餅指に吸ひつける 山内裕子 やはらかき雨の降る日や蓬餅 本題の前にとすすめよもぎ餅 岩本桂子 草餅を食うても思ひだし泪 藤永貴之 草もちやそろそろ下の子が帰る 前北かおる 草餅やヘギ経木のうす皮座布団に 前田なな
季題は「おでん」。季題に関して「厳密」を旨とするという立場を表明している人々なら、「おでん屋」は一年中「おでん屋」で、真夏でも「おでん」を売っているのだから季題にはならないのだ、と宣うのであろうが、一句中に他に季題になると思われる言葉がないのだから、一句の季題は「おでん」で季節は「冬」となるのである。 これで何の問題もない。例えばこれが「おでん屋の客無きときの扇風機」というのであれば、これは「扇風機」が季題で、夏の句となる。こちらはこれで何の問題もない。
さて一句は誰かを探して夜の巷を訪ね回って居る人物が主人公。探されているのは友人か、仕事仲間か、はたまた家族か。ともかく食事をしているであろうからと、心当たりを探していたのではなく、一杯吞んでいるに違いないと思って、見当をつけて探し当てたのである。そんな「見当」で当たるということは、新宿とか渋谷とかいう繁華街では無く、もう少し狭い範囲の、選択肢の少ない「盛り場」らしい。どこか鉄道沿線の、少々の飲み屋街のある町。「どうせ、どこかで飲み始めていることだろうよ」てな見当で「おでん屋」の縄のれんを跳ね上げて、ガラリと戸を開けてみると案の定カウンターに猫背になってちびちびやっている「尋ね人」を見つけたところである。
一句の良い所は、いかにも「軽い」内容を、いかにも「軽い」リズム感のなかに貼り付けたところ。深遠な「文学」というのではないが、この場面に到るまでの人間模様などを穿鑿してみると、「おでん屋」の縄のれんにいたるまでの、小寒い「北風」の様子だけでなく、文学以前のような「心の行き違い」などまで見えてこよう。(本井 英)
おでん屋にゐるかと見ればをりにけり 児玉和子 白湯吞んで老いにけらしな年送る 一病が二病となりて年の行く 大寺の 欄 に倚り年惜む 街師走舟和にあんこ玉買うて 風待の花筏とぞ申すべき 藤永貴之 雪まみれの犬のごとくに気動車来 稲垣秀俊 年行くや今日一日と生きてきて 山内裕子 何もかものつぺらぼうに年流る 天明さえ
父の代の 本井 英 父の代の松飾には如かざれど 食積が卓の真中にそびえたり 食積をのぞきに来ては子供たち 遠来の孫娘より屠蘇を酌む 賀状なほ四半世紀を会はざるに
宝引の緒の這つてゐる疊かな 綱引やちらちら白いものも舞ひ 墓地通り抜けて七福詣かな 福詣とよ寺町に人通り 韋駄天は福神ならね詣でけり
初場所の向正面なる女 素手の子の一人まじれる雪まろげ 冬ざれて一花とてなき母の墓 枯葎襖なしたり滑川 川床を拾ひ歩きや寒最中
寒鯉の影寒鯉の腹の下 寒肥やいちいち話しかけながら 路地に日のあふれ果して寒梅も 春を待つべし池に棲み川に棲み 難題をかかへ込みつつ春を待つ