月別アーカイブ: 2022年2月

2月20日(日)に予定しておりました夏潮新年会は中止いたします。

出席を予定されていた皆様、まことに申し訳ありません。

御投句いただいた俳句につきましては、後日、清記用紙、選句用紙をお届けします。

また、参加費の精算方法につきましても、別途ご連絡申し上げます。

課題句(2022年2月号)

課題句「旧正月」      櫻井耕一 選

大草鞋下げ旧正の仁王門		伊藤八千代
旧正の相模に青き海と空
旧正月しばし無沙汰のお雑煮を		塩津孝子
旧正の都会の底に暮らしをり		児玉和子
ランチしながら旧正と妻に言ふ		本井 英
旧正や濃茶を回す閑けさに		羽重田民江

敗荷の鉢の並びぬ坂の道   藤田千秋

 季題は「敗荷」。秋も深くなって、葉の破れた蓮である。蓮は、たとえば不忍池などでもそうだが、春、水面に浮葉を浮かべ、夏、花を咲かせ、秋には実を飛ばし、四季折々に人々の目を楽しませるが、この「敗荷」の頃から、ようよう注目されなくなっていく。しかし俳人はこの「敗荷」から、「枯蓮」の時期が大好き。どことなく漂う「あはれ」がたまらないのである。聞いた話だが「蓮」は存外水中酸素を欲しがらない植物の由。従って広々とした水面でなくても、それこそ「鉢」でも充分栽培できるらしい。そう言えば「蓮」はお釈迦様と縁が深いからか、町場のお寺の境内などにところ狹しと「蓮の鉢」の並んでいる景色を見かける。そしてこの句もそんな景色を想像せしめる。一句の面白いところは「坂の道」。勿論作者に言わせれば「事実であった」に尽きるのであろうが、読者としてはその「坂の道」が楽しくて仕方がないのだ。山門を過ぎて庫裏へでも向かう「坂道」、その両脇に、所狭しと並べられた「鉢」。水が残っていても、泥だけになっていても、鉢の「縁」の角度と水面の角度は、どの鉢についても「ややズレている」。そんな些細なことではあるのだが、「一つの景色」として表現されると、「浮き葉」が浮かんでいた季節、花托が伸び上がって見事な「花」を着けた頃。どの季節にも水面の角度と、「縁」の角度に微妙な「食い違い」が想像されて楽しいのである。(本井 英)

雑詠(2022年2月号)

敗荷の鉢の並びぬ坂の道		藤田千秋
雲間より日の差しくれば鶸の鳴き
穴まどひ蛇籠の上に身を曝し
曳船の音遠ざかる秋の暮

葉のあをと檸檬のあをと分かたざる	信野伸子
地震一つありし朝の麦を踏む		山口照男
四万過ぎた頃から林檎赤くなり		稲垣秀俊
夕日さす赫奕(カクヤク)として柘榴かな	武居玲子

主宰近詠(2022年2月号)

庵主われ      本井 英

黄をおびて明るきときの蘆火かな

沼の小春の日向径日蔭径

ゆかしさや沼離れゆく落葉径

鴨の足へなり〳〵と搔く見ゆる

浮かび出て濡れてをらずよ鳰



冬川へ笯を放りこむ音遅れ

灯を暗く別当寺や神の留守

一村の新海苔景気干しつらね

雪といふ名ぞ消えやすき一茶の忌

小春日をちまちま愉し花やしき



予想屋も聞き入る客もマスクして

菊屋形背中日当たりをりにけり

菊屋形降り出しさうや降りだしぬ

蜘蛛の糸つつつと冬日走る見ゆ

飛べるものどれも小春の日をまとひ



玄室へつながつてゐる落葉径

落葉溜りへ源流の失せにけり

子規の字の読むにたやすし句碑の冬

わが膝をしばし探りて冬の蠅

冬の蠅と親しむことも庵主われ