2月20日(日)に予定しておりました夏潮新年会は中止いたします。
出席を予定されていた皆様、まことに申し訳ありません。
御投句いただいた俳句につきましては、後日、清記用紙、選句用紙をお届けします。
また、参加費の精算方法につきましても、別途ご連絡申し上げます。
2月20日(日)に予定しておりました夏潮新年会は中止いたします。
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課題句「旧正月」 櫻井耕一 選 大草鞋下げ旧正の仁王門 伊藤八千代 旧正の相模に青き海と空 旧正月しばし無沙汰のお雑煮を 塩津孝子 旧正の都会の底に暮らしをり 児玉和子 ランチしながら旧正と妻に言ふ 本井 英 旧正や濃茶を回す閑けさに 羽重田民江
季題は「敗荷」。秋も深くなって、葉の破れた蓮である。蓮は、たとえば不忍池などでもそうだが、春、水面に浮葉を浮かべ、夏、花を咲かせ、秋には実を飛ばし、四季折々に人々の目を楽しませるが、この「敗荷」の頃から、ようよう注目されなくなっていく。しかし俳人はこの「敗荷」から、「枯蓮」の時期が大好き。どことなく漂う「あはれ」がたまらないのである。聞いた話だが「蓮」は存外水中酸素を欲しがらない植物の由。従って広々とした水面でなくても、それこそ「鉢」でも充分栽培できるらしい。そう言えば「蓮」はお釈迦様と縁が深いからか、町場のお寺の境内などにところ狹しと「蓮の鉢」の並んでいる景色を見かける。そしてこの句もそんな景色を想像せしめる。一句の面白いところは「坂の道」。勿論作者に言わせれば「事実であった」に尽きるのであろうが、読者としてはその「坂の道」が楽しくて仕方がないのだ。山門を過ぎて庫裏へでも向かう「坂道」、その両脇に、所狭しと並べられた「鉢」。水が残っていても、泥だけになっていても、鉢の「縁」の角度と水面の角度は、どの鉢についても「ややズレている」。そんな些細なことではあるのだが、「一つの景色」として表現されると、「浮き葉」が浮かんでいた季節、花托が伸び上がって見事な「花」を着けた頃。どの季節にも水面の角度と、「縁」の角度に微妙な「食い違い」が想像されて楽しいのである。(本井 英)
敗荷の鉢の並びぬ坂の道 藤田千秋 雲間より日の差しくれば鶸の鳴き 穴まどひ蛇籠の上に身を曝し 曳船の音遠ざかる秋の暮 葉のあをと檸檬のあをと分かたざる 信野伸子 地震一つありし朝の麦を踏む 山口照男 四万過ぎた頃から林檎赤くなり 稲垣秀俊 夕日さす赫奕(カクヤク)として柘榴かな 武居玲子
庵主われ 本井 英
黄をおびて明るきときの蘆火かな 沼の小春の日向径日蔭径 ゆかしさや沼離れゆく落葉径 鴨の足へなり〳〵と搔く見ゆる 浮かび出て濡れてをらずよ鳰
冬川へ笯を放りこむ音遅れ 灯を暗く別当寺や神の留守 一村の新海苔景気干しつらね 雪といふ名ぞ消えやすき一茶の忌 小春日をちまちま愉し花やしき
予想屋も聞き入る客もマスクして 菊屋形背中日当たりをりにけり 菊屋形降り出しさうや降りだしぬ 蜘蛛の糸つつつと冬日走る見ゆ 飛べるものどれも小春の日をまとひ
玄室へつながつてゐる落葉径 落葉溜りへ源流の失せにけり 子規の字の読むにたやすし句碑の冬 わが膝をしばし探りて冬の蠅 冬の蠅と親しむことも庵主われ