月別アーカイブ: 2013年1月

降りて来し山を見上ぐる足湯かな 浦木やすし(2012年11月号)

季題は「登山」で夏。「登山」の傍題には「山登」、「登山宿」、「登山小屋」、「登山杖」、「登山笠」、「登山口」などが登録されている。当該句にはこれらの傍題すら見当たらないが、内容を読んでいくと「登山」をした人物が下山をして「山」を見上げていることが判る。本来「季題」の「言葉そのもの」が一句に詠み込まれるのが、私達の俳句の原則であるが、この句のように内容から「それ」と判る場合も例外的に花鳥諷詠に含まれて良いと思う。青年虚子に「風が吹く仏来給ふけはひあり」の句があり、晩年の虚子は岩波文庫『虚子句集』で、その句を「迎火」の項目下に収めた。

「足湯」がいつの頃からこれほど流行ったのか定かではないが、近年は温泉場の全てに「足湯」があると言っても過言ではない。そんな温泉場に下山してきた登山者が山靴を脱いで、登ってきた山を満足げに「見上げて」いるのである。近年増加の熟年登山者の姿が思い浮かべられた。 (本井英)

主宰近詠(2013年1月号)


華奢な鳥居          本井英

山雀は華奢な鳥居を潜りもす

掌の餌を咥へ山雀低く去る

指を折りながら居待月(イマチ)と答へらる

西空にまだ浮いてゐる居待月

秋天下老ゆ悔ゆ報ゆなほ生くる




風の道日の道通す松手入

得心は結局いかず松手入

海面 のふくらみ寄する根釣かな

岸釣の釣り上げたるはネショーベン

「ヤマザキパンアリマス」島は秋の風




替へ玉も喰へて健康秋日和

菊作副理事長を拝命すと

雲梯に大漁旗や運動会

女装したがる年頃の運動会

眼白来て去りぬほかにも来て去れる




水澄むや小鷺の足の黄を沈め

千年の田の千年の稻雀

マンションの顔もちらほら在祭

お十夜の過ぎし日溜り猫あちこち

水底の泥も明るき秋日和

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第56回 (平成17年12月9日 席題 火事・枯茨)

白菜を積み上げてある美容院

元の句、「漬物用白菜積みて美容院」。これは説明ですね。勿論、銀座、青山の美容院の脇に、白菜を積んであるわけはないんで、どこか田舎の「美容室 XX子」といった美容室なんだけれど、ちょうど季節なので、白菜が十個とか二十個とか積んであるんでしょう。きっと仕事の合間を見つけて、白菜漬けをやろうとするんだけれど、それを「ああ、漬け物をやるんだなあ。」と気づいたのはいいんだけれど、「私は気づきましたよ。」というので、漬物用というのは駄目です。やっぱり、俳句というのは、白菜を積み上げてある理由を言うより、「何で白菜を積み上げてあるんだろう。ああ、田舎の美容院なら、こんなこと、あるなあ。」というふうに、読者に委ねなければいけない。読者の楽しみを奪ってしまっている。

神木の竹垣替へて師走かな

こっちは、いい句ですね。いかにも、神木の周りを人の腰の高さ位まで、竹垣で守っているというのは、よくあることですね。それを新年を迎えるので、宮司が「よし。ご神木をきれいにしよう。」というふうにした。というので、宮司のいかにも神様、神木への尊崇の念がよく見えて、よろしかったと思います。

富士にかかる雲に名前や枯茨

僕は、こういう作り方はなかなか出来ないんだけれど、一つの作り方。いわゆる取り合わせ、二物の衝撃と言われます。枯茨と富士山の雲と、直接関係はないんだけれども、言われてみると、枯茨の寒々とした感じと、雪をかぶった富士に雲が出来たり、出来なかったり、その雲が傘雲だったり、独特の呼び方があるのかもしれません。この地方ではね。そんな土地人との会話も想像されるような気がしました。二物衝撃ではあるんだけれども、実景が背景に見えてくるかもしれません。

掃き寄せて落葉の小山三つほど

こういう誠実な句はいいですね。どこにも無駄がない。言い過ぎてない。そして言い足らないところもない。こういうのは、形のいい句だと思いますね。

大川の岸辺の小春日和かな

これも同じです。隅田川を「大川」と言ったところに、江戸の大川を慕う気持ちが出ているし、江戸時代と変わらず流れている隅田川に対する気持ちが出ているなと思いましたね。芭蕉さんも、こんな小春日和で、日向ぼっこをしたかもしれない。       

第零句集『赤と青』を読んで (前北麻里子)

第零句集『赤と青』を読んで (前北麻里子)

 

「原家に紙上ホームステイ」させていただいたき、ありがとうございました。はつらつとした、太陽のような三佳さん。世界を相手に仕事をこなすスーパーウーマンでありつつ、私にとっては母業先輩。母としての句が印象に残りました。

 

一日で日焼けせし子の話し止まず

保育園の遠足だったのでしょうか。太陽の下、一日遊び通した子供。その止まない話に、愛しい気持ちで耳を傾ける親。子供のころは、大人になってからの感覚よりも、時間を長く感じたような。この子にとっては、本当に長く、充実した一日だったに違いありません。きっと帰りのバスは寝てたんじゃないかな。

 

朝顔の赤は妹の青は僕の

弟妹の誕生を、素直に前向きに受け入れる幼い兄。母初心者の私は涙ぐんじゃいましたよ。その後、やっぱり全部僕の!ってなっているかもしれませんが。

 

春泥をほっぺにつけし笑顔かな

まだまだ肌寒い春先。さすがに水遊びはまだでしょうが、泥が頬に付くほど夢中で外遊びを楽しむ子供。春が来た喜びが、生き生きと伝わります。

 

娘二歳向日葵育つごとくあれ

明るく、強く、真っ直ぐに。二歳になった、夏生まれの幼い我が娘に望むのは、百合でも薔薇でもなく、向日葵らしさ、です。

 

ごきぶりに母とし装ふ平気かな

母は強し、ですが、やせ我慢も。明るい やせ我慢、面白いです。

 

賽銭にどんぐり混ぢる地蔵かな

子供の身近に、お地蔵様があるんですね。

 

笑い初めせむとて皆で笑ひけり

新年の、若い若い、明るい家族の風景。「笑い初め」という言葉自体、子供は初めてなのでは。

 

つなぐ手もつながるゝ手も悴める

小さい子供は、手袋を嫌がったりすぐに落としたりで、だいたい素手。そんな手も自分の手も、同じくらい冷たいと気付く。ふとした小さな発見。

 

ランドセル開けては締めて入学子

今までのものとは全く違う、特別な鞄、ランドセル。ばちん、ばたん、とせわしなく触らずにはいられない姿に、入学前のわくわく・そわそわが見られます。

 

てふ見れば蝶々歌ふ子らであり

しかも、ふわふわ踊っていそうですね。素直に明るく育っていることを目にした嬉しさ。

跋で、「四季は変哲なく巡って季題も又然りですが、その中で確実に育まれるものがあることを、とてもありがたく思います」と、三佳さんが書いています。全くその通りだと思います。『赤と青』は、生きる喜びにあふれた句集だと思いました。

インドでは、どんな俳句が生まれるんでしょうか。どんぐりは、落ちているんだろうか。明るく生き生きした毎日を送られることに、違いはありません。