潮騒を聴きながら(雑詠句評)」カテゴリーアーカイブ

健脚組ここで別るる富士薊  岩本桂子

 季題は「富士薊」。多く富士山麓で見かけることから、この名があるという。普通の薊より葉も大きく棘も硬い。一句のキーワードは「健脚組」。勿論客観的な基準がある訳では無く、全体の中で、比較的脚力、その他体力ありとみなされたグループの仮の呼称といったところ。それでも、たとえば二、三十人のグループが一緒に合宿をしようなどという場合には「健脚組」と「足弱組」に分けて、歩くコースなどを分けることが、結果としては無理が無く、良い結果をもたらす場合が多いようだ。ことに俳句の稽古会などというシチュエーションなどを、考えた場合は、比較的若いグループは途中山道や沢道などのあるコースを望むであろうし、反対にやや老いた人々は、なるべく平坦な散歩道が安心で、好まれるであろう。そんなグループ分けをして置いた一行が、あるポイントにさしかかり、「健脚組」と呼ばれる数名が、一行から別れてやや厳しい道に進んで行くというのである。そんな場所に「富士薊」が咲いていたと詠まれると、山中湖畔の「老柳山荘」付近の溶岩道も目に浮かんでくるような気がした。グループ全体の華やいだ気分が伝わってくる。(本井 英)

楢枯に沫雪とまりそめにけり   藤永貴之

 季題は「沫雪」、「雪」の傍題である。同じく「アワユキ」と発音し「淡雪」と記す場合は「春の雪」の傍題となるが、「沫雪」と表記した場合は、「泡のように溶けやすいやわらかな雪」の謂いとなるばかりで、「春」とは限定しがたい。角川『俳句大歳時記』(2006年版)は「沫雪」を春の「淡雪」に統合させているが賛成しかねる。 「楢枯」はカシノナガキクイムシの媒介する「ナラ菌」によってミズナラ等の樹木が枯損する樹木の伝染病。近年特に流行が大規模で、野山の景を一変させている。

 そんな「ナラ枯」の被害にあってすっかり茶色に変色してしまった「楢」の葉に、溶けやすく「あわあわ」した雪が付着し始めた景を詠んだものである。いかにもカラカラに枯れてしまった「枯葉」に「雪」が癒やすようにまつわり始めた景に哀れがある。「沫雪」を春の季題の「淡雪」としてしまうと、一句の「哀れ」の大部分が損なわれてしまう。敢えて「沫雪」を「雪」の傍題とした所以である。(本井 英)

魞かしぎ堅田の岸の茂りけり  小野こゆき

 季題は「茂」、夏の季題である。「魞」について、「魞さす」という春の季題があるが、刺してから時間が経って「かしいで」いる「魞」は季題にはならない。「堅田」は滋賀県琵琶湖の西岸にある町。湖水交通の要衝の地であり「浮御堂」などの名所でも知られている。湖畔を中心に木立も少なくなく、夏になれば頼もしく鬱蒼と青く茂り合うというのである。湖水に刺された「魞」は時季を過ぎて、やや衰えを見せ、中には傾くものも見かける。そんな湖面を撫でて過ぎて行く湖風も心地良いが、湖畔の「茂」は、夏の日ざしの中で、勢いを増し、季節の活力をじわじわと見せつけ初めている。「春」から「夏」への主役の交代を自ずと見せてくれた一句であった。(本井 英)

空梅雨の空に平たき雲ばかり  梅岡礼子

 季題は「空梅雨」。虚子は「天候の不順な年は、梅雨のうちに殆ど雨が降らないことがある。これを空梅雨といふ。農家では田植など出来ず非常に困ることがある」と『新歳時記』で解説する。近年ではさまざまの治水技術が向上して、少々の「空梅雨」は何とか実質被害を出さずに乗り切れる場合が少なくないが、江戸時代まではそうもいかず、国を挙げて深刻な事態となっていたに違いない。例えば歌舞伎芝居の「鳴神」の話の背景など、こうした「空梅雨」が背景にあってのもので、雲の絶間姫の真剣さも、万民の憂いあってこそのものと思いたい。

 さて掲出句は、その「空梅雨」という季題を、あっさりと、そして客観的に叙したところに新鮮さがある。毎日毎日、空を見上げると、「雲」はあるものの、どれも軽々と「平たく」、とても雨をもたらすような様子には見えないというのである。ということは、我々は、「黒々と」、天高く立ち上がる「雲」、たとえば「入道雲」のようなものには、「雨」を期待するわけである。そんな対比を言外にこめながら、「空」の景を述べているのである。(本井 英)

どつさりと高く黄色く棕櫚の花  原 昌平

 季題は「棕櫚の花」。まことに特徴のある「花」であるが、また一方、俳句を詠むようになるまでは、なかなか気が付かない「花」でもある。全体、様子の変わった樹木で「毛むくじゃら」の幹などは鐘を撞く撞木ぐらいしか使い道もなさそうだ。そして「花」ははじめグロテスクな黄色い「舌」のように頂きから垂れ下がり、ぼろぼろと粟状の小花を咲かせる。そんな「棕櫚の花」を「どっさりと」と形容した視点はまことに的確で、「量感」「質感」ともに表現しえて「妙」というべきであろう。決して派手な句ではないが、誠実な写生の眼差しが捉えた「ひとつの景色」である。(本井 英)