」タグアーカイブ

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第16回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

包丁の音ひそやかに虚子忌かな
さあ、何だって虚子忌はついてしまうんだけれど…。この句の解釈は、どこかの家庭で小さな句会があると。いつもは句会が終わると、皆解散して、じゃあさよならというんだけれど、今日はたまたま虚子忌というんで、その記念する句会なんで、後でお食事でも出しましょうかということになっていた。「今日はなんだろう。ご馳走らしいな。」包丁の方も句会の邪魔にならないように、小さな音を立てて、ひそやかにやっている。でも、大変心を籠めたお料理なんだ。といったような鑑賞が許される句だと思いました。
花冷えの膝や包んでなお足りず
いかにも女の人にありそうな感じで、膝掛けで膝を包んで、「でもまだ寒いわ。今日は。」と言っているような、お年を召した御婦人で、ちょっと冷え症のような感じがする。それを大袈裟に「まだ足りないわよ。」という。「死ぬること風邪を引いてもいふ女」という虚子の句があります。そういう大袈裟なところにも、魅力を感じるということがあるんでしょうね。
雀とても声よく啼きて朝桜
元の字遣い、「鳴きて」。「なく」はこの場合、「啼」がいいでしょうね。「鳴」よりもね。この句、一番いいのは、字余りになっているところです。「雀とて(後略)」でも一句になるんだけど、「雀とても」といったところで、「あー、今日は朝桜の気持ちのいい日だから、雀までも気取って、チュンチュンと言っているわ。」勿論、聞いている本人が一番嬉しいんですけれど、字余りにしたことで、雀への情が通っているなと思います。
山吹の中に独歩の文学碑
独歩は勿論、国木田独歩でしょう。「武蔵野」だの、「牛肉と馬鈴薯」だの、ちょっと暗いような田舎の生活を描いた小説が多ございました。私は逗子の海岸を書いた「焚火」という小説が好きなんですが、独特の寂しさがあるんですね。その独歩の碑が山吹の中。山吹というと、太田道灌が現れて、鬱悒き(いぶせき)伏屋があるかもしれない、そんなような関東の武蔵野の一角ということが想像できます。
雪回廊途切れて望む岩木山
岩木山というのは、大変印象の深い山で、どこから見ても、「ああ、岩木山だ。」と一目でわかる山なんですが、津軽の人の心の故里になっている山です。雪回廊って、きっと捨てた雪が壁のようになっていて、景色とかが見えない、それを雪回廊とか名付けているんでしょうが、それが途切れている所があって、そこから岩木山が見えた。いかにも津軽の冬という感じがすると思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第15回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

伸びをしてもう一仕事暮遅し
季題は「暮遅し」。「遅日」とも言うし、「日永」とも言いますが。根を詰めて仕事をしていた。「ああー。」と背伸びをして、「今日はこれで止めておこうかな。」と思ったけれど、まだまだ明るいので、もうちょっとやってみましょう。この解釈、あまりやると、屋外の仕事かということになるけれど、デスクワークでもよろしかろうと思います。ただ、この仕事ぶりが、管理されていないところが、面白いですね。悠々自適の人が、たとえば自叙伝かなにか書いていて、もうちょっとやろうかなどと、悠揚迫らざる暮らしぶりも見えてきて、楽しいと思います。
花の中に埋もれイギリス大使館
見たままを見たままで詠めるということは、尊いことだと思いますね。これで結構です。イギリス大使館は古くからあるし、囲いも大きいし、自ずから景が広がってくると思います。
家墓は菜の花畑の真中に
お寺さんの檀家で、お寺に墓地がある場合もあるけれど、田舎に行くと、屋敷墓と言いますかね。一角、畑と畑の間にお墓があることがあります。たしか韓国辺りの景色にこういうのが多いですね。菜の花の咲いている中に家墓があった。よく桜の下には、死体が埋まっていて、桜の花が異様にきれいになるという話があるんだけれども、菜の花の下にという話は聞いたことはない。けれども、埋葬した土から生えてきた花の妙な美しさというものを、この句の場合、ちらと感じましたね。
甘茶寺詣でやさしき人となる
「甘茶寺」で季題にするんでしょうね。「甘茶」が季題になります。つまり、「仏生会」、「花御堂」を設えて、そこにお釈迦様の像を置きます。つまり天上天下唯我独尊という形をとっておりますが、そこへ甘茶をかける。それが甘茶仏であります。四月の八日。ちょうど花祭りということになりますが、そうやって詣でた時に、なにか仏心というようなものが芽生えて、「今日は私がやさしいような気がする。」「今日ばかりは仏心があるぞ。」というユーモアが面白いと思いますね。
桜より高く靖国大鳥居
なるほど、言われてみれば、靖国神社の鳥居は、高いですね。他の神社に比べると。特に九段下から仰ぎながら上ってくるというと、一層鳥居の高さが際立たしいです。これが、たとえば明治神宮の鳥居だって、決して低くないんだけれども、同じ高さから見通しますから、それほど高く感じないけれど、靖国の鳥居ばかりは、下から坂を上る分だけ、高さが一層強調されますね。そして下から見る桜が満開であるということで、ある感じが出ていると思います。叙景だけでいくところがいいですね。ここに若干でも思想的なものが加わると、とんでもないことになってしまいそうで恐いんですが、全くそういうものを感じさせない没思想なところが、救っているかもしれませんね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第14回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

咲き満ちて風花ほどの落花かな
ちょっとことばがもたもたしているんで、景が結びにくいんですね。もしかすると、「咲き満ちて」が言い過ぎているのかもしれません。ただ、落花が花吹雪のように散るのではなく、ほんの一、二片、上に舞い上がっていく。それを風花のようだという捉え方は、いい感覚だと思いますね。
入学の子らのおはようまちまちに
この句、よく見ていると思います。季題は「入学」です。小学生でしょうね。先生が門の辺りにいて、皆おはようと言うんだろうけれど、小さい声の子や、大きい声の子、立ち止まって声を張り上げる子やいろいろある。それが様々だ。学校へ入って、しばらく教育されれば、皆大きな声で、「おはようございます。」と言うようになるのだろうけれど、入学式ではまだまだ個性が勝っていて、そういう意味では馴れていない感じがよく出ていると思います。
天空を隠してあまる桜かな
いっぱいに桜が咲いて、空が見えないということなんだけれど、それを表現するのに、「天空を隠して」というのは、調子が高くていいと思いますね。「天空」 ということば自体、ひじょうに調子の高いことばで、そう言われてみると、桜が堂々たる、大きな桜なんだろうなということがわかってくるし、格が高いですね。ひじょうにいい句だと思いますよ。
お茶漬けに青ぬたそへて急の客
「急の客」まで言ってしまうと、言い過ぎかもしれませんね。「お茶漬けに青ぬたそへて出しにけり」とか言うと、「急な客でもあったのでしょうか。」というように、こちらの解釈がそこにくるわけね。それを僕に解釈させてくれないのは、ちょっと困ってしまう。でも、気持ちはね。「何にもありませんけれど。」と言いながら、お茶漬けだけかと思うと、ちゃんと一皿青ぬたがついてきた。こんな時間に来てすいませんでした。と言いながらも、そのお客さんに「ほ、ほう。」という気持ちがあるということだろうと思いますね。
にこやかに花の案内の警邏かな
この句は「警邏かな」という、一時代前の時代がかったことばによって、その警察官の年格好、表情、ちょっと白髪混じりで、相変わらず巡査部長とかで、警部とかになれないお巡りさん。そういう感じがよく出ていて、今日あたり、千鳥が淵には、そういうお巡りさんがたくさんおられましたね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第13回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

地蟲出て相も変らず人愚か
虚子先生みたいな句ですね。「蛇穴を出てみれば周の天下なり」という「五百句」にでてくる句がありますが、あれと同じ境地でしょうね。年々歳々、毎年毎年、地蟲は出て来ては、半年以上地中に過ごして、また死んだり、穴へ入ったりする。また春になって地蟲が出てきてみると、「おい、相変わらず人間ていうのは、馬鹿なことをやっているね。」という、大自然の大きな営みの中での、さざ波のような人間の愚かな様々の日々が見えてきて、先生のお作りになるような句だなと感心しました。
廃校の決められてゐて開花かな
これ、面白いですね。人間が出たり入ったりして、過疎になったりする。そして、廃校になることが決まっている。その校庭の庭には、今年も去年のように桜の花が咲いたよ。というんだけれど、「(前略)桜かな」ではなくて、「開花かな」。ちょっと面白い、ある新しみがあって、面白いと思いましたね。勿論、花は桜の花です。
寺庇焦げよとばかり修二会の火
これもいいですね。こうやって、連想から句に仕立てあげる力というのは、なかなか大事です。そうやって作る力を鍛えていくことで、嘱目の時にぐんと深くなるので、大事です。しかも「焦げよとばかり」という持っていき方がいいと思いますよ。
友としてかつぎし棺春の雪
棺は柩という字があるんだけれど、どちらがいいんでしょうね。柩をかつぐ人数はせいぜい六人、息子や甥とか。ひじょうに特別な友人で、ぜひかついで下さいと家族達にも言われる。そういう間柄だった。そういう感じがよくわかって、春の雪の淡い悲しさも一段と。特別のやつだったのにな。向こうの家族も俺を特別と思っていた。そういう人なんだということがよくわかって、こういう句を見ると、俳句は散文よりも深いことを言えるという気がしますね。
湯気立てる白アスパラのしたり顔
この句を採るか採らないか、悩んだんですが、この句を読んで、鼻のところに茹で上がった白アスパラのにおいがしたんで、採りました。最近は日本でも、白アスパラがよく出てくるけれど、昔は缶詰しか出てこなかった。フランスに行くとアスパラガスの季節が決まっていて、突然パリ中のマルシェに白いアスパラガスが出てくる。マルシェの金物屋さんに円筒形の白いアスパラガスを蒸す鍋が出てくる。季節感そのもの。うまく茹で上げられたばかりのアスパラ、それを茹で上げた主人はやったーという気持ちがして、茹で上げられたアスパラガスはやられたという、したり顔をしている。日本だと食べたいものがあると、二月、三月前から出るけれど、あの国の人は出るまでじっと待っている。いかにもこれだという気がしていただきました。
白梅に肩をいからせ烏をり
この句、面白いですね。何で烏が肩をいからせるか、わからないんだけれど、見ていたら、烏が妙に好戦的というか、威張りまくって「寄るな。」と言っているような、そんな烏の感じが白梅でいっそうその黒さが強調されて面白いと思っていただいた次第です。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第12回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

指ほどのアスパラガスの青さかな
これはうまい句で、アスパラがちょうどぽっと出た瞬間を詠み取った句だと思うんですが、元の句の「拇指」と書いて、「ゆび」という、実際には出た瞬間はもっと細い。だから普通の字使いの「指」となさった方がよいと思いますね。アスパラは多年草だから、十年くらい植え替えないで、何度も収穫できるんですね。
お水取練行僧のひた走り
NHK特集という感じでいいですね。やはり俳句は題詠と嘱目と両輪です。どっちもやらないと駄目です。こういう句と出会うと、題詠を出しておいてよかったなと思います。この句が上等かというと、それほど上等でもない。作り方は正しいんですね。芭蕉さんも似たような句を作っている。「韃靼僧の沓の音」というのが…。 二月堂は丘の方にある。二月堂の内陣に十一面観音が祀ってある。その奥で、十一人の練行衆が荒行をする。その間に木を打ち付けた、すごい音のする草履みたいなもので、かけずり回ったりする。この十一面観音を祀って、国土安泰、国家護持を祈る。それと同時に、お水取ということばの由来は、お水、閼伽水を汲むんですね。その下にある、若狭井から汲む。この若狭の井戸というのでわかるように、若狭の国から水を送って、地下水道を通って、二月堂に水が出る。若狭小浜の神宮寺の境内に湧く水を遠敷川(おにゅうがわ)の鵜の瀬から若狭井に流す。若狭湾に常世の国から寄せてきた常世波が地下水道を通って、若狭井へ出てくる。というお約束。新年のお水(若水)と同じ。水を十一面観音様に捧げるという行事なんですね。神道と仏教がめちゃめちゃに入り組んで、どこか日本の古い常世の国からのメッセージが、この国を守るという奥底の行事がお水取の行事です。お水取は夜中の二時か三時で誰も見ていない。お水取というのは、行事としては火の行事で、火の粉ばっかり目立つんですが…。そういうことを、題詠で作っておいて、いつか見にいらっしゃると、嘱目でできます。嘱目で見た句と、題詠で作った自分と、相乗効果で写生が進むとすばらしいと思います。そういう意味で、この句は採るに足りる句だったと思います。
ビルの脇を朝日上り来梅の花
あまり人気がなかったけれど、僕はこの句好きですね。都会の春先という感じがしますね。高いビルがあって、その脇に日が上っていて、ちょうどそのビルに沿った形で上ろうとしている。そのビルの谷間のちょっと広くなった所に、いかにもとって付けたように、梅の木が植えてあって、けなげに梅の花が咲いてをった。東京の街はビルが高くなればなるほど、ビルの裾野に空き地が多くなって、わざとらしい公園になって、木が植えてありますね。僕はそんな所にある梅の花を想像しました。鑑賞としては、そんなものが感ぜられて、それでも、東京にはちゃんと春が来たという句だろうと思います。
お水取の火の粉に人の波揺るる
これもテレビなどでご覧になって作った句で、けっこうなんですけれど、元の句「お水取火の粉に(後略)」では、ぱちっぱちっと出来ていて、嘘っぽくなってしまう。「お水取」と言うと、お水取を置いておいて、もう一度「火の粉」が出てくる。「お水取の火の粉」というと、棹の先に火の粉がバーっと散っている、そこまで一気に見えてくる。字余りというのは、こうやって効果的に使うのを覚えておおきになるとよかろうと思いますね。
谷底に湯治場のあり山笑ふ
いかにもありそうで、気持ちのいい句ですね。俳句は人の詠まない新しいところを作ってやろうとするより大事なのは、いかにも共感できる気持ちのいい句。湯治場の山だけ見えている。山だけぽこっと見えていて、「あの山だね。行ったことある。」などと話をしながら、見下ろしている人がいる。