ホスピスの人となりたる春の宵 都築 華(2013年8月号)

 季題は「春の宵」。「春宵一刻・値千金/花に清香有り・月に陰有り/歌管楼台・声細細/鞦韆院落・夜沈沈」は蘇軾の詩。春の宵は人といて賑やかなのも楽しいが、その後一人になって閑けさを楽しむのも悪くない。

 そんな本来なら、うきうきするような「春の宵」にある人物が「ホスピスの人」となった、というのである。「作者本人が」という解釈も文法的には可能だが、「ホスピス」という言葉の重さを考えると、その場合はもっと違う表現になろう。「ホスピス」は病院には違いないのだが、病状回復のための積極的な治療は施さず、痛みを和らげることに専心する医療。ことに「末期癌」の患者には有効だし、筆者の前の細君も死の直前一ヵ月ほどを「ホスピス」に入って、充実した時間を過ごさせていただいた。こう説明すると「ホスピスの人となる」の表現に託した作者の万感の思いがよくお判りいただけると思う。「その人」が「秋の夜」を迎えることは、おそらく無いのであろう。

 ところで「宵」という言葉は、正確な意味と豊かな情緒を伴った素晴らしい日本語であるが、近年天気予報などでは「宵」という言葉の代わりに「夜のはじめ」という、舌足らずな言い方を始めている。関係する方々に対して「失望」を超えた「怒り」を覚える。何とかならないものか。(本井 英)

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