語りたき人の少なし端居して   岩本桂子

 季題は「端居」。夏の季題である。俳句を始めたばかりの頃、この「端居」という季題に出会って、腰が抜けるほどビックリした。そんな「何でもない」ような振る舞いや、状態が季節を表すなんて、思いもしなかったことだから。

 ともかく「端居」という季題には「ある気分」というものがある。この句もよく読むと、しみじみとした淋しさの中で一人、記憶の中の人々と語り合っている。すでにこの世にいない人々との話は尽きないのだが、今、この世に生きている人の中に「語りたき人」は洵に少ないのである。そこには自らの「老」を詠まれながらも毅然とした姿が見えてくる。私は、ふと「百人一首」の「誰をかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」(藤原興風)を思い出した。興風の和歌は「あの高砂の松だって、俺に取っちゃあ、昔からのダチという訳でもねえんだよ」と大袈裟に面白がっているが、共に語る相手の少なくなった「寂寥感」はいかほどのものであろうか。しかしこの作者にとっては、それを「俳句」に詠まれたことで一種のカタルシスを得られたとも言えようか。(本井 英)

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