月別アーカイブ: 2012年3月

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第13回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

地蟲出て相も変らず人愚か
虚子先生みたいな句ですね。「蛇穴を出てみれば周の天下なり」という「五百句」にでてくる句がありますが、あれと同じ境地でしょうね。年々歳々、毎年毎年、地蟲は出て来ては、半年以上地中に過ごして、また死んだり、穴へ入ったりする。また春になって地蟲が出てきてみると、「おい、相変わらず人間ていうのは、馬鹿なことをやっているね。」という、大自然の大きな営みの中での、さざ波のような人間の愚かな様々の日々が見えてきて、先生のお作りになるような句だなと感心しました。
廃校の決められてゐて開花かな
これ、面白いですね。人間が出たり入ったりして、過疎になったりする。そして、廃校になることが決まっている。その校庭の庭には、今年も去年のように桜の花が咲いたよ。というんだけれど、「(前略)桜かな」ではなくて、「開花かな」。ちょっと面白い、ある新しみがあって、面白いと思いましたね。勿論、花は桜の花です。
寺庇焦げよとばかり修二会の火
これもいいですね。こうやって、連想から句に仕立てあげる力というのは、なかなか大事です。そうやって作る力を鍛えていくことで、嘱目の時にぐんと深くなるので、大事です。しかも「焦げよとばかり」という持っていき方がいいと思いますよ。
友としてかつぎし棺春の雪
棺は柩という字があるんだけれど、どちらがいいんでしょうね。柩をかつぐ人数はせいぜい六人、息子や甥とか。ひじょうに特別な友人で、ぜひかついで下さいと家族達にも言われる。そういう間柄だった。そういう感じがよくわかって、春の雪の淡い悲しさも一段と。特別のやつだったのにな。向こうの家族も俺を特別と思っていた。そういう人なんだということがよくわかって、こういう句を見ると、俳句は散文よりも深いことを言えるという気がしますね。
湯気立てる白アスパラのしたり顔
この句を採るか採らないか、悩んだんですが、この句を読んで、鼻のところに茹で上がった白アスパラのにおいがしたんで、採りました。最近は日本でも、白アスパラがよく出てくるけれど、昔は缶詰しか出てこなかった。フランスに行くとアスパラガスの季節が決まっていて、突然パリ中のマルシェに白いアスパラガスが出てくる。マルシェの金物屋さんに円筒形の白いアスパラガスを蒸す鍋が出てくる。季節感そのもの。うまく茹で上げられたばかりのアスパラ、それを茹で上げた主人はやったーという気持ちがして、茹で上げられたアスパラガスはやられたという、したり顔をしている。日本だと食べたいものがあると、二月、三月前から出るけれど、あの国の人は出るまでじっと待っている。いかにもこれだという気がしていただきました。
白梅に肩をいからせ烏をり
この句、面白いですね。何で烏が肩をいからせるか、わからないんだけれど、見ていたら、烏が妙に好戦的というか、威張りまくって「寄るな。」と言っているような、そんな烏の感じが白梅でいっそうその黒さが強調されて面白いと思っていただいた次第です。

湘南吟行会がありました。(英)

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写真、何だかお分かりですか?萌え出た岩煙草の葉です。一センチあったりなかったり。それが崖一面についているのです。場所は北鎌倉、東慶寺。湘南吟行会で訪ねました。今日ははるばる名古屋から近藤作子さんも参加、鎌倉教養センター講座に参加なさっていたお二人も、見えました。止んでいた雨がまた降りだす、静かな春の一日でした。

前北麻里子第零句集『誕生日』鑑賞_渡辺深雪

前北麻里子『誕生日』鑑賞 渡辺深雪

 

 夫かおる氏の浜松赴任以来、前北麻里子さんとは家族ぐるみでお付き合いさせていただいている。八千代句会でも公私共にお世話になっているが、麻里子さんの作る句には常に女性らしい細やかな感性と、気取りのないのびやかさが見られ、筆者にとっても勉強になる所が多い。

 

 麻里子さんの句に一貫して見られるのは、季題の持つ気分のようなものを素直に伝えていることである。

 

 夏服に名前を白く刺繍して 麻里子

 冬の雨三百世帯静まりぬ

 

 夏服の白い刺繍からは夏の明るさと清涼感が伝わって来るし、町中がしんと静まる情景からは冬の雨の持つもの淋しさをそのまま感じることができる。

 が、素直でありながら、「刺繍」という視点や「三百世帯」という表現には他の俳人とは異なる独自の感覚が見られる。その感覚は、対象となるものの特性を眼前にはっきりと表す、巧みな描写の形を取って表れる。

 

 飛び魚や海に光の糸引いて      麻里子

 向日葵のシャワーヘッドのごとく垂る

 

 「光の糸」という言葉からは、単に飛び魚が元気よく跳躍する様だけでなく、光り輝く夏の海の情景が見事に伝わって来る。「シャワーヘッド」という描写を見ても、確かにひまわりの花はそのような形をしているし、実のいっぱい詰まった重量感のようなものが見てとれる。

 それにしても、どうしてこのように言葉を巧みに用いて対象を描写することができるのか。基になっているのは、以下の句に見られる発想の豊かさではないだろうか。

 

 白薔薇を絵の具で赤く塗る話 麻里子

 入道雲蛸のお話作りけり

 

 前者は有名な『不思議の国のアリス』に出て来る場面である。小さなお子さんと一緒に白いバラを見て、作者はふとこれを思い出したのだろう。雲を蛸の形にたとえる後者の句と言い、季題をただ写生の材料に用いるだけでなく、そこから寓話の世界へ読者をいざなう所に面白味がある。

 しかし、ただ発想が豊かであるだけでは優れた句は作れない。あるがままにものを見、生活者の視点に立って句を作る誠実さが必要になるのだ。その誠実さは、一児の母親の立場から作った以下の句に十分見ることができる。

 

 らふそくも苺も一つ誕生日     麻里子

 母が読みひとり子の取る歌留多かな

 

 お子さんの成長と共に麻里子さんの句もどのように進化して行くのか、これからも八千代の句友の一人として暖かく見守って行きたい。

 

色の名を教へ巡るや薔薇の園 麻里子

 小さな子供を連れて、近所のバラ園へピクニックに出かけた。そこには赤、白、黄色と色とりどりのバラが咲きほこっている。が、幼い子供は何も判らず、ただぼんやりと目の前の花を見ている。作者は花を指さして、夫と一緒に「これは赤だよ」、「これは白だよ」と、一つ一つ色の名前を教えてあげた。きれいなバラの花を眺めながら、子供にものを教えていることを楽しんでいるようだ。そう考えると何気なく咲いているバラも、我が子の成長を見守っているように思われて来る。

 

仕舞ひには団扇で冷ます夜泣きの子 麻里子

 季題は『団扇』。赤ちゃんに夜泣きはつきもの。ことに熱帯夜となれば、これが一段とはなはだしくなろう。夜中に目を覚まし、激しく泣きわめく赤ちゃんの顔は、暑さのせいもあって真っ赤に紅潮している。どれだけあやしても泣きやまず、仕方なくその顔を団扇で仰いで冷ましてやることにした。「仕舞ひ」というなげやりな言葉から、暑さと夜泣きに翻弄される親の苦労が見てとれる。

 

蟬死せりからりと腹を上にして 麻里子

 「からりと」という秀逸な表現が、この句の中で大きなウェイトを占める。夏も終わりになると、それまで元気よく鳴いていた蟬の死骸があちこちに転がっているのを見かけるようになる。仰向けになって息絶えたこの蟬もその一つだ。それにしても、「からり」という表現は、何とも間が抜けて冷たく突き放したものの言い方ではないか。だが、この広い世界にあっては、ひとつの存在が消えるとはその程度のものかも知れない。死を前にして感傷的になるのは、唯一人間だけだろう。

 

爽やかにラクロス刈りたての芝生 麻里子

 きれいに晴れ渡った、秋の日の情景。近所の運動公園であろうか、夏の間に伸びきった芝生も短く刈り取られ、その上で少女たちがラクロスをしている。芝生のすっきりした感じと、白いユニフォームの少女たちが躍動する様を見ると、何とも明るく若々しい印象を受ける。この印象を、作者は「爽やか」という季語で表した。刈りたての芝生の上でスポーツに興じる少女たちとこれを見る作者、双方の心躍る様を感じることができる。

 

青空に向かふ坂道蜜柑畠 麻里子

 昨年の秋、筆者は地元浜松に作者とそのご家族をお招きする機会に恵まれた。上の句は、この時に作られたものである。蜜柑は傾斜の急な所で栽培することが多く、これを上ろうとするとちょうど空を見上げる格好になる。この日は、蜜柑畠を上っていった先に、よく晴れ渡った青い空が広がっていた。みんなで上った坂道が、作者の眼にはこの青い空へ続いているように見えたはずだ。どこまでも明るく澄み切った秋の情景が、蜜柑の鮮やかな色と共に思い出される。

 

白鳥の群れ湧き出づる空の奥 麻里子

 季題は『白鳥』。この鳥は、寒い季節になると北から日本へ飛んで来る。冬の訪れを告げる鳥と言っても良いだろう。どんよりとした空を渡るその姿は、もの悲しくも穏やかな冬の景色にふさわしい。おそらく吟行か何かで、作者もこの空を見上げていたのだろう。すると突然、遠くに白鳥が群れをなして飛ぶのが見えた。何羽もの鳥が視線の先に現れるその光景は、文字通り「湧き出づる」という表現がふさわしいものであったはずだ。冬空の雄大さと、白鳥の優美さをこの句は見事に描いている。

 

年飾り小さきものがよく売れて 麻里子

 年末のデパートあるいはスーパーの情景。新年に必要なものを揃えるために買い物に来ると、正月の飾りが売られていた。見ると値段の高い、大きなものばかりが売れ残っている。小さな飾りは飛ぶように売れて、ほんのわずかしか残っていない。やはり安く買うことができる、小さなものを選ぶのが人情というものだな、と作者は思った。もう少し景気が良ければ、大きい飾りを買う客も増えたであろうに。生活者の視点を通じて、去りゆく年の世相のようなものが見えて大変面白い。

 

ヒーターの音のみ試験二分前 麻里子

 高校あるいは大学入試を受けた者ならば、試験前のあの静寂と緊張感はだれもが経験しているだろう。時計を見ると、試験開始までまだ二分残されていた。すると重苦しい沈黙の中、教室を温めるヒーターの音がふと耳に飛び込んで来た。普段は気にもとめないその機械音が、この日はやけに大きく聞こえる。この音と共に、教室を支配する不安と緊張感がいよいよ高まっていくようだ。まだ寒さの残る試験会場の、張りつめた空気がヒーターの音を通じて伝わって来る。

古雛の眉優しかり雨の寺 麻里子

 訪れた寺の外では、しとしとと春雨が降っている。お堂を濡らす雨は、もう冬のように重苦しいものではない。中へ入ると、昔から寺に納められていたものか、古い雛人形が飾られてあった。穏やかな笑みを浮かべるその顔に、眉が小さく描かれている。淡い光に照らされたその眉が、可愛らしくも優しいものに見えた。雛祭のみやびやかな雰囲気と、春雨の降る静かな情景が人形の微笑を中心に浮かび上って来る。

 

ベランダで吾子の散髪春の風 麻里子

 春の訪れと共に、子供の髪が伸びていることに作者は気付いた。窓の外を見ると、暖かな春の光が満ちている。これを見た作者は、久しぶりにベランダに出て子供の髪を刈りたくなった。子供を椅子に座らせ、後ろから髪を刈っていると、ちょうど一筋の風が吹いた。この風に乗って、ベランダに落ちた髪の毛があちこちに散らばって行く。厄介だと思いつつも、作者の眼には何とも心地よい光景に映った。散髪という営みを通じて、春の風のすがすがしさが牧歌的な春の情景と共に感じられる。

 

 以上、「できれば、自分もこのような句が作れるようになりたい」という視点から選ばせていただいた。これからも麻里子さんには、読む者を楽しませてくれるような句を生み出すよう、お子さんの成長と共に期待したい。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第12回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

指ほどのアスパラガスの青さかな
これはうまい句で、アスパラがちょうどぽっと出た瞬間を詠み取った句だと思うんですが、元の句の「拇指」と書いて、「ゆび」という、実際には出た瞬間はもっと細い。だから普通の字使いの「指」となさった方がよいと思いますね。アスパラは多年草だから、十年くらい植え替えないで、何度も収穫できるんですね。
お水取練行僧のひた走り
NHK特集という感じでいいですね。やはり俳句は題詠と嘱目と両輪です。どっちもやらないと駄目です。こういう句と出会うと、題詠を出しておいてよかったなと思います。この句が上等かというと、それほど上等でもない。作り方は正しいんですね。芭蕉さんも似たような句を作っている。「韃靼僧の沓の音」というのが…。 二月堂は丘の方にある。二月堂の内陣に十一面観音が祀ってある。その奥で、十一人の練行衆が荒行をする。その間に木を打ち付けた、すごい音のする草履みたいなもので、かけずり回ったりする。この十一面観音を祀って、国土安泰、国家護持を祈る。それと同時に、お水取ということばの由来は、お水、閼伽水を汲むんですね。その下にある、若狭井から汲む。この若狭の井戸というのでわかるように、若狭の国から水を送って、地下水道を通って、二月堂に水が出る。若狭小浜の神宮寺の境内に湧く水を遠敷川(おにゅうがわ)の鵜の瀬から若狭井に流す。若狭湾に常世の国から寄せてきた常世波が地下水道を通って、若狭井へ出てくる。というお約束。新年のお水(若水)と同じ。水を十一面観音様に捧げるという行事なんですね。神道と仏教がめちゃめちゃに入り組んで、どこか日本の古い常世の国からのメッセージが、この国を守るという奥底の行事がお水取の行事です。お水取は夜中の二時か三時で誰も見ていない。お水取というのは、行事としては火の行事で、火の粉ばっかり目立つんですが…。そういうことを、題詠で作っておいて、いつか見にいらっしゃると、嘱目でできます。嘱目で見た句と、題詠で作った自分と、相乗効果で写生が進むとすばらしいと思います。そういう意味で、この句は採るに足りる句だったと思います。
ビルの脇を朝日上り来梅の花
あまり人気がなかったけれど、僕はこの句好きですね。都会の春先という感じがしますね。高いビルがあって、その脇に日が上っていて、ちょうどそのビルに沿った形で上ろうとしている。そのビルの谷間のちょっと広くなった所に、いかにもとって付けたように、梅の木が植えてあって、けなげに梅の花が咲いてをった。東京の街はビルが高くなればなるほど、ビルの裾野に空き地が多くなって、わざとらしい公園になって、木が植えてありますね。僕はそんな所にある梅の花を想像しました。鑑賞としては、そんなものが感ぜられて、それでも、東京にはちゃんと春が来たという句だろうと思います。
お水取の火の粉に人の波揺るる
これもテレビなどでご覧になって作った句で、けっこうなんですけれど、元の句「お水取火の粉に(後略)」では、ぱちっぱちっと出来ていて、嘘っぽくなってしまう。「お水取」と言うと、お水取を置いておいて、もう一度「火の粉」が出てくる。「お水取の火の粉」というと、棹の先に火の粉がバーっと散っている、そこまで一気に見えてくる。字余りというのは、こうやって効果的に使うのを覚えておおきになるとよかろうと思いますね。
谷底に湯治場のあり山笑ふ
いかにもありそうで、気持ちのいい句ですね。俳句は人の詠まない新しいところを作ってやろうとするより大事なのは、いかにも共感できる気持ちのいい句。湯治場の山だけ見えている。山だけぽこっと見えていて、「あの山だね。行ったことある。」などと話をしながら、見下ろしている人がいる。