潮騒を聴きながら(雑詠句評)」カテゴリーアーカイブ

極月の吊広告のハワイかな  山内裕子

 季題は「極月」。陰暦十二月の異称であるが、「十二月」というより、いかにも押し詰まった気分が強い。街の様子や、行き交う人々の表情にも、せかせかした慌ただしさが感じられる。また「吊広告」はほとんどの場合、電車あるいはバスの車内に吊すもの。昔は週刊誌の見出しなどが、ゆらゆら揺れていて、「吊広告」を眺めただけで、世間の「話題」が見えるような気がしたものだが、近年は、あまり見入るような「吊広告」にはお目にかからない。

 さて掲出句は、その「吊広告」に「ハワイ旅行」の案内があったというのである。おそらくは旅行代理店あたりのもので、ワイキキビーチを背景に水着の男女が楽しげに頰笑みあっているものであろうか。「極月」のセカセカした気分とは、全くかけ離れた、「夢のような」、それでいて、一ドル三百六十円の時代のような「憧れ」とは違う現実感をもって人々が見上げるものとしてぶら下がっているのである。世界に誇る経済大国であった時代を過ぎて、すっかり零落してしまった日本の現況を考え合わせるとき、なんとも言いがたい、皮肉な「俳諧」を感じさせてくれる一句となった。(本井 英)

橡の実のぱつかと割れて転がれる  山本道子

 季題は「橡の実」。虚子編『新歳時記』には、「栃の実である。円錐状をして三裂し、その中に光沢のある褐色の大きな種子がある。この種子から澱粉を採つたり橡餅等をつくつたりする。」とある。「橡餅」と言えば信州の観光地などでは、よくお土産などにされる品だが、あれは餅米などと搗き合わせた高級品で不味いわけがない。巴里の街路樹として有名な「マロニエ」は「西洋橡」。その実は日本の「橡」と同じ様な種子が入っており、まさに「マロン」なわけだが、毒があって食えぬ(灰汁抜きの技術がないと駄目らしい)ということになっている。フランスの「栗」は「シャテニエ」、こちらは立派な毬のある実である。

 その「橡の実」が橡の木立の下に、幾つも落ちていたのであろう。その「果肉」が割れて中の種子が転がり出ている様子を作者は「ぱつかと」と表現した。一句の手柄は勿論この「ぱつかと」であることは間違いない。「ぱかつと」、ではないのである。「ぱかつと」は「音」が主だが、「ぱつかと」は「姿」が主である。「種子」が転がり出た後の、空ろになった実の内側の曲面まで見えてくる。(本井 英)

書き了へて夜寒の膝へ自づと掌  前田なな

 季題は「夜寒」、秋の季題である。同じく秋の季題として「朝寒」、「やや寒」、「うそ寒」、「肌寒」、「そぞろ寒」があり、さらに「冷まじ」、「身に入む」という季題もある。春と共に、最も過ごし易い季節である「秋」にかげりが見えてきて、いよいよ厳しい、事によると命に関わる危険もある「冬」を迎えんとする「不安」が、これだけ多くの類似季題を生んだ原因に違いない。

 「夜寒」は、暖房が要るというほどでもないが、夜が更けるつれて肩から背中、あるいは足許辺りに「寒さ」を覚えること。作者は、何か書き物(パソコンのキーボードでは無く、筆記用具を用いて紙に記されたもの)をしていたのであろう。漸く「書き了へて」、静かに読み返している。そして「掌」は自然と両膝に置かれていたというのである。書かれたものは、ともかく襟を正して筆記すべきものであったに違いない。目上に対する「手紙」などが考えられよう。誤字脱字は無いか、礼を失した表現は無いか。謙虚に「文」と向き合っている姿勢が「膝へ自づと掌」である。(本井 英)

健脚組ここで別るる富士薊  岩本桂子

 季題は「富士薊」。多く富士山麓で見かけることから、この名があるという。普通の薊より葉も大きく棘も硬い。一句のキーワードは「健脚組」。勿論客観的な基準がある訳では無く、全体の中で、比較的脚力、その他体力ありとみなされたグループの仮の呼称といったところ。それでも、たとえば二、三十人のグループが一緒に合宿をしようなどという場合には「健脚組」と「足弱組」に分けて、歩くコースなどを分けることが、結果としては無理が無く、良い結果をもたらす場合が多いようだ。ことに俳句の稽古会などというシチュエーションなどを、考えた場合は、比較的若いグループは途中山道や沢道などのあるコースを望むであろうし、反対にやや老いた人々は、なるべく平坦な散歩道が安心で、好まれるであろう。そんなグループ分けをして置いた一行が、あるポイントにさしかかり、「健脚組」と呼ばれる数名が、一行から別れてやや厳しい道に進んで行くというのである。そんな場所に「富士薊」が咲いていたと詠まれると、山中湖畔の「老柳山荘」付近の溶岩道も目に浮かんでくるような気がした。グループ全体の華やいだ気分が伝わってくる。(本井 英)

楢枯に沫雪とまりそめにけり   藤永貴之

 季題は「沫雪」、「雪」の傍題である。同じく「アワユキ」と発音し「淡雪」と記す場合は「春の雪」の傍題となるが、「沫雪」と表記した場合は、「泡のように溶けやすいやわらかな雪」の謂いとなるばかりで、「春」とは限定しがたい。角川『俳句大歳時記』(2006年版)は「沫雪」を春の「淡雪」に統合させているが賛成しかねる。 「楢枯」はカシノナガキクイムシの媒介する「ナラ菌」によってミズナラ等の樹木が枯損する樹木の伝染病。近年特に流行が大規模で、野山の景を一変させている。

 そんな「ナラ枯」の被害にあってすっかり茶色に変色してしまった「楢」の葉に、溶けやすく「あわあわ」した雪が付着し始めた景を詠んだものである。いかにもカラカラに枯れてしまった「枯葉」に「雪」が癒やすようにまつわり始めた景に哀れがある。「沫雪」を春の季題の「淡雪」としてしまうと、一句の「哀れ」の大部分が損なわれてしまう。敢えて「沫雪」を「雪」の傍題とした所以である。(本井 英)