ここからは、十月末までの期間限定で、本誌で掲載しきれなかった掲載句の鑑賞をいたします。
焙烙で煎りし零余子のほろ甘し 清水満
焙烙に目を惹かれた。そういう道具、戦前の日本の生活展みたいな催し物に行けば、台所用品の一つとして置いてあるのを見かける。そういえば銀杏を炒った器材がうちにあったが、あれがそうか。もう家には残っていないけれど。焙烙で炒った零余子は甘いのか、むしろ懐かしの味で甘かったという記憶が蘇ったのか。想い出はかくの如し。
世田谷に残る農家や零余子蔓 前田なな
昭和三十九年のオリンピックの前まで世田谷は農家だらけだった。ぽつんぽつんと豪邸があった(大地主)が、消えていった。地主さんの後裔が野菜畑を残してはいるが、生計をこれで立てているとは思えない。零余子の脳裏に浮かぶのは、アメリカによる財閥解体、農地解放にかかる以前の栄華であろうか、でも日本にはフランスやロシアのような貴族階級は存在しなかったというのに。零余子をご馳走にしていた生活しかしていなかったというのに。
零余子蔓絡む厨の格子窓 三上朋子
台所に格子窓、レトロである。窓はサッシの時代に旧家の佇まい。かつてはこんな家が当り前であった。ちょっと手を伸ばして零余子を摘み取り総菜に、とはしないだろうな。窮鳥懐に入れば猟師これを殺さず、零余子我が厨に入れば、佳人これを摘み取らず、眺めて楽しむのみ。もう少し大きくなればその時は食べてしんぜよう。
零余子には見向きもせぬか蟻過ぎる 原水和美
蟻はいろいろな物を引きずっている。蝿も蝉も、蟻から見たら遥かに大きな死骸を集まって巣に運んでいる。零余子なんぞ程よい大きさだろうに何故か見て見ぬふりで通り過ぎる。どこが気に入らないのだろう、転がして行きたいが掴みどころがない、或いは生では食いたくない、人間にとっての馳走なんぞ蟻が食えるか、蟻の自尊心である。
縄暖簾零余子の唐揚げあてにして 久保北風子
筆者は零余子を口にしたことがない。そうか、縄暖簾という手があったのだ。迂闊であった。今度、近い将来、行かねばならぬ、と気が付いた。作者は、選者が私と知って縄暖簾、赤提灯の類を入れれば選ばれること確実と作句したのだろう、とこれまた心地よく術中にはまってしまった。
大粒の零余子を選りて唐揚げに 児玉和子
これは零余子の大小を詠んだ句なのか、零余子料理を詠んだ句なのか、零余子である、食べ方にいろいろあるのだから句の味わいもいろいろあってよいではないか。歳時記を見ても、皆さんの句をみても両方に軸足を置いた句は少なかった。さて、中粒小粒のつまり選ばれなかった零余子の行方はいずこなりや。炊きあげられて零余子飯であろう。
手作りの笊の零余子や飯用意 財前伸子
どこだろう、山の中の宿場町、例えば馬籠、妻籠あたりの旅籠に泊まっての夕食、飯を炊いている。調理をしているところを風呂上り、ちょっと覗いたらいかにも手作りの、大ぶりな笊に零余子が山となっている。零余子飯に違いない。構えは大きくないが、清潔で気配りの行き届いた良い宿に泊れた、誰かに教えたいような教えたくないような旅籠がしのばれる。
神楽坂御櫃にたっぷり零余子飯 斎藤さるり
小綺麗な料理屋が並ぶ神楽坂。奥まった入り口の石畳には打ち水をしてあって、門の前には盛り塩が置かれている。秋の日暮れ、夜の帷が覆いかかり始めている。昔は神楽坂といえば、政界財界の男の世界であったが、今は家族で、女子会で会食を楽しむ世界となっている。御櫃にたっぷりの零余子飯、とてもこんなに食べられないわ、なんて言っていても、気がつけばからっぽ、いろいろ料理があったけど、覚えているのは零余子のご飯であったことだけ。
墓地中に見付もしたり零余子群 山口照男
よりによって墓地で実を結んだ零余子、見つけはしたものの食べるにはためらわれる。零余子にしてみれば墓地を 選んだのは偶然で、出生について差別なんかしないでくれと言いたい。でもね、墓地で生まれたから食べられずにすんだのだよ。植物というのは華奢に見えて、なかなかのしたたか者です、土壌に恵まれれば芽を出し伸びて、蔓や木となって子孫に繁栄をもたらす。
むかご煮た煮汁炊きこみご飯かな 小沢藪柑子
零余子料理のレシピ句。いただいた句の全体が明るくユーモラスな印象を残しているのは季題が食べ物のせいか。他にもレシピ句が多かった。ところでレシピ、訳せば料理教則本か。レシピ、英和辞典を引けば、処方とか秘伝の意味もある。この句、零余子料理の「基本のキ」の趣き。
故郷をやうやく好きに零余子飯 江本由紀子
笈を背負いて故郷を出、大望叶わず帰るに帰れぬまま年月ばかり経って、おめおめ帰ったものの周りの目が気になって気になって。でも零余子飯でそんなわだかまりも雲散霧消、よかったですね。飽食の時代から米不足の時代、といっても飢餓困窮からは免れているこの時代、みんななにが不満なのだろう。故郷のある幸せ。
つくづく零余子じやが芋の子供らし 小林二日
零余子は自然薯の子供ではなかったっけ。まあ、芋つながりでじゃが芋は遠い親戚みたいなもの。極大の零余子がじゃが芋とおもえばいいのだから。秋の味覚、いろんな芋があります。薩摩芋、里芋、慈姑なんてのもある。ドイツ、アメリカ、通りすがりの旅行者としてだけど、出てくるのは芋はじゃが芋のふかしたものばかり。日本は種類が多く、かえって無駄にしているのでは。と自戒する。
豆の如小さきむかごやぺちゃくちゃと 浦上ひづる
零余子がおしゃべりをするわけもなく、擬人化しての描写と読む。とにかく愉快。食べ物、それも薯の類は人の気持ちを楽しくさせてくれる。この句を選評の最後においたのは、楽しく明るく、その代表に思われたから。ユーモア、ヒューマンに語源をおいたユーモアのセンスの有無を選ぶ基準においた、といって全部が全部、ユーモアのある句ばかりであったのだけれど。