投稿者「祐之」のアーカイブ

祐之 について

「夏潮」運営委員の杉原です。 平成二十二年四月に第一句集『先つぽへ』を出版

句集『島』を読んで (矢沢六平)

句集『島』を読んで

                矢沢六平

 

 テレビの受像機を持たなくなって三年になるが、相変わらずのテレビっ子である。

 皆さんご存じかどうか、女優の奥貫薫やアナウンサーの唐橋ユミが、バラエティー番組のナレーションやアシスタントをつとめる場合がある。僕はこれがたまらなく好きである。

 彼女たちには、ガツガツしたところがまったくなく、とことんおっとりとしている。かといって、テンポのずれた「天然ちゃん」ぶりをウリにしているわけでなく、場面に応じたさりげない「笑い」を自主的に差し込んだりもできる。ほんわかとして、聡明でありながら、お茶目でもあるわけだ。

 人は多くの場合、そのコンプレックスやら上昇志向やらが透け見えてしまうのを避けられないものだが、彼女たちにはこれが全く見えない。僕は彼女たちの活躍を目にするたび、じんわりと、尊敬の念という名の愛が湧き起こってきて、『一度、唐橋さんの実家におじゃましてみたい。ご両親のお顔を拝見したい』などと、つい妄想してしまうのだ。

 彼女たちは、きっと次の句のような、おだやかな愛にあふれた家庭で育ったに違いない…。

 

父よりも母がえらくて更衣

春水や母が笑へば父も笑ふ

秋刀魚焼く母大根をおろす父

 作者たる娘には、何事も母のほうが『えらく』見えていたのである。ここに感じられるのは、群馬県的「かかあ天下」ではなく、父の懐の広さであり、それをも包み込む母の愛である。

 やがて娘は成長し、他人には見せないが、心に陰翳を持つようになる。

父母と別れてよりの花疲れ

母に会ふ母のお古の日傘さし

花火見や家族揃ひし頃を思ふ

 今は伴侶を持つ身となった。母の時代とは違い、夫と肩を並べようとする一面もあるが、句には、控えめに支えようとする「やさしさ」が満ちている。そこのところは母と通底しているのだ。

熱燗に共働きの夜更けかな

外食の続きし夫と湯豆腐を

おにぎり食ぶ姑の墓前の菊日和

 これらの私小説俳句(と僕は呼びたい)は、この句集の中の珠玉であると思う。僕ら読者に、人に生まれてきて今日まで育ったことの『しあわせ』を、やんわりと諭してくれる。

 感動的作品。

 そう呼んで差し支えない句だと思う。

 

 句集中に、言葉の繰り返しや擬音を多く使った句が見られる。

 これは、作者の、次へのチャレンジなのだと思った。なぜなら、作者はすでに、必要にして十分な技量を獲得しているから。それは、たとえば次のような、「普通の」俳句によく現れている。

 

月島のたひらを歩く暑さかな

 低地の低さを(殊に月島は築島なのだから)、あらためて「たひら」と捕らえ得た感覚が感動的だ。暑さがよく分かる。

 

ちくちくとロッジの毛布厚きこと

 古きこと、と言いたくなるが、「厚きこと」としたところがよい。もっと沢山のものが見えてくる。

 

 私にとって、今回はせっかくの機会でもありますから、その任にあるかどうか分かりませんが、評論めいたこともすこし…。 

 

番犬のへたりと座る暑さかな

パドックの馬の歩様も秋日和

 番犬の句は、「へたり」の語が手柄の秀句だが、馬の句は、「どんな歩様で」あるのかが描けていないところがキズなのではないか。秋日和のパドックを馬がどんな風に歩いていたのか…。

 

土用鰻父退院の日なりけり

叱られて少し嬉しく秋刀魚喰ふ

 鰻の句。「なりけり」としたところが素晴らしい。

「叱られて」の句。「少し嬉しく」食べるのは、陳腐の誹りもあるかと思うが、やはり「ライスカレー」か「チキンライス」なのではないか。秋刀魚の場合は、「どんな風に食べた」のか、あるいは「どんな秋刀魚を」食べたのかが、必要になってくると思われるが…。

 

 最後にお願いを一つ。

 今回、いづみ俳句のファン、そこに描かれる父母の信奉者となりました者として、この私小説的世界が、息子の視線からはどう見えていたのかが、とっても気になってまいりました。

 もし弟さんか、お兄さんがいらっしゃるなら、そしてまだでいらしたら、どうぞぜひ俳句の世界にお誘いくださいませ。

 やわらかくあたたかい俳句に触れることができました。ありがとうございます。僕は早く次の句集が読みたくてなりません。

 

 

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.6」田中香句集『雪兎』〜冷静な写生〜

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.6」田中香句集『雪兎』〜冷静な写生〜

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「夏潮第零句集シリーズ」第2巻第6号は田中香さんの『雪兎』。
田中香さんは福岡の学校で教鞭を執られている。
福岡勢としては本シリーズに4人目の登場となる。他の方と同じく勤務先で藤永貴之さんに誘われて句作を始め、平成20年に夏潮会へ入会。
抑制された冷静な写生が氏の俳句の特徴であろう。
しっかりとものを見、納得できてから言葉を紡ぎ出している。私などは即物的な反射で句にしてしまうことが多いので、田中さんの姿勢を見習いたい。
 
瀬戸物のやうに開いていぬふぐり 香
→季題は「いぬふぐり」。青く可憐に咲きながらこんな名前をつけられてしまった。名前の面白さに遊ぶのではなく、見たまま、感じた様を句にした。結果として瀬戸物のようという素晴らしい修飾と、それでも名前は「いぬふぐり」であるおかしみが同居することとなった。
潮風を吸つて大根干し上がる 香
→季題は「大根干す」。夏潮のお手本のような句。緩みと無駄のない措辞からしっかりと浦の景色が立ち上がって来る。軒先の干し大根の引き締まった様子が目に浮かぶ。
 
今回の100句を通してみると優等生な句ばかりが並んでしまった印象も否めないが、まだ4年の句歴。これから冷静な写生をベースとし、幅を広げた作品を見せていただけることと思う。

 
その他印を付けた句は下記の通り、
老鶯のコロラトゥーラや山の朝
桟橋に残る鱗の凍つるかな
後ろ手に談笑しつゝ春の朝
リヤカーの轍途切れて蛇苺
地球儀の角度に眠る蓮の花
秋の田にゴッホの黄色ありにけり
蠟梅を離るゝときにふと香る
真円に開き初めたる八重椿
菜の花の映り込みをる玻璃戸かな
放課後の窓に木犀にほひ来し
櫟の実握つてみればあたたかし
 
(杉原 祐之記)
 
田中香さんにインタビューをお願いしました。
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 Q1;100句の内、ご自分にとって渾身の一句

→朝の日の力集めて冬の蝿

    冬の余呉ではあまりの寒さに発熱しました。その翌朝の、文字通り「渾身」の一句です。

 
Q2;100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

 →上達を信じて続けることと、人として成長することです。

  

Q3;100句まとめた感想を一句で。

 →けふの日を終へて睡蓮眠りをり

田中香『雪兎』鑑賞 (渡辺深雪)

田中香『雪兎』鑑賞

                    渡辺深雪

 

 田中氏の句には情感のあるものが多い。それは下に挙げる二つの句をみてもわかるだろう。

 

月あかり滴となりて蠟梅に  香

底石の蜷静かなる清水かな

 

 前者の句では月の光を滴として見る所に詩情を感じ、後者の句では春の川の穏やかな様子が蜷の姿を通じて伝わる。

 

 このような情感は、以下の句に見られる堅実な写生、それも季節の雰囲気をありのままに伝える写生によって生み出されるものだ。

 

桟橋に残る鱗の凍つるかな   香

春の蝶止まることを知らざるや

 

 凍った鱗と元気に舞い上がる蝶の姿から、それぞれ冬の海の厳しい寒さと春の明るさを実感できる。

 

 そして堅実な写生とそこから生まれる情感が、景の見える余韻のある句を作りだす。

 

芍薬にいよいよ雨の煙るかな  香

特急の止まらぬ駅の夕桜

 

 田中氏の句はどれも詩情に満ち、写生のあるべき姿を示している。筆者も機会があれば、博多の地で同氏と同じものを見て句を作ってみたい。

 

 

白樺のつめたき幹に西日さす  香

 避暑地の景であろう。寒冷な地に生える樺の木は、夏でもひんやり冷たい。そこへ夏の熱い西日が差しこみ、白樺の幹までが熱くなったように感じた。夏の明るい景と共に、白樺の冷たさと西日の熱さをこの句はそのまま伝えている。

 

卒業歌終はり講堂静もれる  香

 卒業生の合唱が終わり、式場の講堂がしんと静まった。旅立つ生徒とこれを見送る大人達のさまざまな思いが、この沈黙の中に籠められているかのようだ。旅立ちを見守る教師としての、作者のまなざしが感じられる一句。

 

釣道具出しては仕舞ひ冬籠  香

 どれほど釣りが好きな人でも、寒い時には外へ出るのをためらう。この句の人物も、釣りへ行こうと道具を出しては仕舞うの繰り返しで、結局家から出られないようだ。この仕草を通じて、冬の寒さに翻弄される人間の心理がコミカルに描かれている。

 

タンカーの上に寝そべる秋の雲 香

 ゆっくりと進むタンカーの上に、雲がひとつ浮かんでいる。同じ方向へと流れて行くのか、まるでその雲が寝そべっているように見える。青く澄んだ空と穏やかな海の、静かな秋の情景が雲の姿を通じて浮かび上がる。

 

潮風を吸つて大根干しあがる  香

 「大根干す」は冬の季題だが、「潮風」の吹く所が九州らしい。ここでは大根が海からの風にさらされて、うまい具合に干しあがるのだろう。干された大根を手に取ると、なんとなく潮の香りまで身にまとっているように感じる。潮風を吸いこんだその味は、また格別なものとなるはずだ。

 

竹林を包みて静か春の雨  香

 竹林を包むように春雨が降った、それだけのことを言っているに過ぎない。だが、竹林の静かなたたずまいと春雨の柔らかな質感を、この句は上手く感じさせている。誠実な写生によって、季題のもつ気分がそのまま伝わって来る。

 

新築の家の映れる植田かな 香

 季題は「植田」。田植の後に張られた水には、いろんなものが映し出される。作者が田んぼの中を覗くと、新しく建てたばかりの家が水面にくっきりと映っていた。田園の近くまで宅地開発の進む今日において、よく見られる光景であろう。新築の家というのが初夏の季題にも合っていて、なんとも清々しい。

<インタビュー追加>「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.5」原三佳『赤と青』~武蔵野の御台所様~

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.5」原三佳『赤と青』~武蔵野の御台所様~

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 「夏潮第零句集シリーズ」の第2巻第5号は、原三佳さんの『赤と青』。

 原三佳さんは昭和四十五年東京都杉並区生まれ。国際的な業務を行う金融機関に勤務され、同じ職場に勤務されていた原昌平さんの勧めで「惜春」池袋句会などに参加。その後、「夏潮」創刊に参加。現在は一男一女の母として、世界に股を掛け事業を展開する金融機関でのお仕事を両立されつつ、作句されている。

 本句集には、三佳さんの身の回りで起こった出来事を屈託無く明るく詠んだ句が多い。当然家事と母業と仕事で目の回るような忙しさ、辛いことも哀しいこともあっただろうが、そこには触れず、明るく前向きに凛と日々の生活に対する、三佳さんの「姿勢」が句に反映されている。また、三佳さんは「瞬間」を切り取る名人であると思う。日々の多忙さの中で、目に付いた瞬間を切り取ることで、俳句の容量に叶った句が多いと感じる。実際、三佳さんの句は何時も句会で大人気であり、私などはいつも反省をさせられつつその目の付け処、勘処に感心させられてしまう。

山梔子のゆるびすぎたる花弁かな 三佳

→季題は「山梔子」。明るく山梔子の様子を詠んだ。確かに、開ききった後の山梔子は少しだらしが無く見えるくらい、その花弁が緩まって見える。その色合いにも影響を受けているのだと思う。巧みな一句。

 

薄氷をぱりと踏むぱりゝんと踏む 三佳

→季題は「薄氷」。たしか、先月の原昌平さんの『夏煖炉』に

子等の手にかゝり薄氷散りぢりに 昌平

の句があり、この句も薄氷で遊ぶ子供の様子を詠ったと言う点では同じである。しかしながら表現が静謐さの昌平さんに対し、三佳さんの場合は明るくリズミカルであることが興味深い。当然掲句の場合薄氷を踏む音の違いから、二人(以上)の子供が遊んでいる様子も容易に想像がつき、結果、「父母子供二人計四人家族」という現代日本の典型的な家族が、来るべき春を楽しんでいる様子を読者が容易に想像出切る様になっている。

 

 三佳さんの俳句は実に明るく詠んでいて楽しくなる。その理由の一つに口語的な軽い言葉の利用が考えられる。この句集で百句となってみると口語的な軽い言葉でリズムを出している句が多いのが三佳さんの俳句特徴の一つであろう。気になった点として、「かな」の多用が見られる。これは「夏潮」全般に言えることだが、本当に「かな」で終える必要があるのか。リズムを取る為に用いた「かな」が結果、場所や事柄の説明に陥っていないのか、特に一句一句が必ずしも独立して読まれない「句集」という形で整理する際には、十二分な吟味が必要ではないか。

 

 最後にもう一句、

ものゝ芽の緑は緑赤は赤 三佳

→季題は「ものゝの芽」。春先になり幾つもの種類の「ものゝ芽」が現れてきた。それぞれに色を持っている。その色は、後々花として開くときの色が滲み出しているという事。御二人のお子さんの子育てに関する三佳さんの思いが込められているのかもしれない。何れにせよ、三佳さんらしい実に凛とした一句。三佳さんの武蔵野の「もののふ」の家を毅然と支える御台所様なのかもしれないと、改めて思いを馳せた一句。

 三佳さんの俳句には一貫して「武蔵野」に対する愛着が込められていると思う。これからも、三佳さんの俳句から我々は「武蔵野」の景を思うことが出来るのだと思う。

 

 三佳さんのように浮世の業がお忙しく、定例の句会に出ることが難しい方に参加していただけるのが、インターネットなどを介した句会、偶会であると考える。実際、この句集の中にもmixi句会などを通じて投句して頂いた句を幾つか見ることができ、会の一人として嬉しく思っている。

 六平さんの句集評(https://natsushio.com/?p=7686)にもある通り、三佳さんは2月からお子様を連れて幼い頃過されたインドへ単身赴任されると伺っている。そのような方たちが定期的に雑詠投句を続けられるようにする為にも、一定の規模での偶会やネット句会の存在の意義、及び参加当事者の互選だけでなく、「正しく」俳句を捨てさせてくれる選者の意義は大きいと考える。特にこの「第零句集」シリーズがターゲットとする「現役世代」の俳句を「花鳥諷詠」の道を外れさせずに充実させていこうとするのであれば。

 

余談になったが最後に、印をつけた句を以下に紹介したい。

神輿渡御神田に町の斯くも多く

一日で日焼せし子の話し止まず

ポッケからどんぐり除けて濯ぎもの

行秋や小屋の営業あと五日

探梅と新居周りの探索と

天気図の大きく貼られ登山小屋

七夕の夫乗る夜行帰国便

小望月多摩丘陵を見下せる

掃き寄せてまた木犀の香るかな

パソコンの画面明るき事務始

風花のそれと気がつくまでの空

 

三佳さんインドでのご活躍をお祈りしております。また帰国後には武蔵野の地で遊んでください!

(杉原 祐之記)

 

原三佳さんにインタビューを行いました。

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Q:100句の内、ご自分にとって渾身の一句

 → 「ものの芽の緑は緑赤は赤」

          (祐之さんに、思い掛けず素敵な解釈を頂戴しました。)

 Q:100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

 → 「季題にじっくり向き合う」

  (もう何年も、そういうことを出来ずにおります…。)

 Q:100句まとめた感想を一句で。

 →「  ご鎮守の鈴の音軽し春を待つ」

 

インドからの投句をお待ちしております!

原三佳『赤と青』鑑賞 (原昇平)

原三佳『赤と青』鑑賞 原昇平

 原三佳さんの句集『赤と青』を拝読した。自跋で「細々ながらも俳句を通じて日々を写し取っていくこと」の貴重さについて言及されている。(多くの方が首肯されると思うが、私もまったく同感である。)そうした日々のなかから編まれた本句集で最も印象に残った一句を挙げるとすれば、「風花のそれと気がつくまでの空」であろう。2012年の「夏潮」新年会での出句で、当日の句会でも好評句であったと記憶している。集中で改めて拝見して、本句集の代表句(の一つ)という感を強くした。「風花」の句を含め、印象深かった句をいくつかご紹介したいので、しばらくお付き合いいただければと思う。

 

大小の麦稈帽が庭仕事 三佳

季題は「麦稈帽」。休日の庭に親子がいる。庭木の手入れなのか、草むしりなのか、家庭菜園の水やりなのか、揃って麦稈帽をかぶっての庭仕事。「が」という助詞が、心理的な距離を「近く」し、句に動きを与えている。「麦稈帽の」とすると、客観的に叙した印象になり距離感が生まれる。また、「の」の場合は下五の「庭仕事」は名詞であるが、「が」とすると「をしている」を省略した動詞になり、一句全体に動きが出てくる。

 

熊避けの鈴の音吸うて山眠る 三佳

季題は「山眠る」。紅葉の時期を過ぎた山に登る。登山客はほとんどおらず、しばらくは誰ともすれ違わない。登るにつれて気温は下がり、熊避けに身につけている鈴の音は、山に吸われて消えてゆく。「吸つて」ではなく「吸うて」という措辞が、山の眠りを妨げないようにしている。

 

つなぐ手もつながるゝ手も悴める 三佳

季題は「悴む」。どうにも寒くて手が悴む。手をつなぐと、わが子の手も悴んでいる。「つながるゝ手」という表現から幼い子の小さな手が見えてくる。「悴む」というのは自身の感じる身体の「動かなさ」であり、例句としても「自の句」が多く、一方、「他の句」のなかには悴みを想像で詠んだという印象の句がある。掲出句は、自らの手とともに子の手の悴みも詠んでいる「自他半の句」であるが、手をつなぎ、手袋越しではなく直接に触れ、子の手のほうが冷えていると感じ、自らと同じように悴んでいることに気づいたという、実景が詠まれている。

 

風花のそれと気がつくまでの空 三佳

季題は「風花」。よく晴れた冬の日。何か、肌に触れるものがある。空を見上げると雪片が舞っていた。風花なのだと気づく。風花の舞うまでの空を叙すことで、風花を風花と認識するまでの「一瞬」の過程を詠んだ句。現代語的、あるいは口語的な叙し方が風花に辿りつくまでのゆるやかな思考の流れを、また、中七から下五での「句またがり」が風花に気づくときの心理的な動きを感じさせる。情緒に流れがちな季題と距離感を保ちつつ情感を失うことなく詠みとめ、俳句では使うことの少ない代名詞をも無理なく用いた、特筆すべき一句。

 

春の朝乳歯ぽろりと抜けにけり 三佳

季題は「春の朝」で「春暁」の傍題。「朝」は、夜の気配の残る間(あわい)の時ではなく、日が昇り、活動の始まる時間である。朝の支度をしていると、起きてきた子が、歯が抜けたという。抜けた歯は、屋根の上か縁の下に投げられるのだろう。成長を確認する季節としての春の一句。

 

 最後になるが、ほかに鑑賞したかった句を記して結びに代えさせていただく。

 

『赤と青』抄 (原昇平選)

山梔子のゆるびすぎたる花弁かな

朝顔の赤は妹の青は僕の

産土の稲穂神社よ秋日濃し

ゆつたりと奏づるごとくスキーヤー

人怖ぢをせぬ鳩とゐて春の午後

夏蝶にハーブの花の細かすぎ

掃き寄せてまた木犀の香るかな

賽銭にどんぐり混ぢる地蔵かな

薄氷をぱりと踏むぱりゝんと踏む

庚申塔馬頭観音里の春

(原昇平 記)