投稿者「taizo」のアーカイブ

どの岩も梅雨の重みをまとひけり  茂之 (泰三)

 クリスマスの諸々の準備に忙殺されている泰三です。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 季題は「梅雨」。じめじめして何とも厭な季節である。私は、「好きな季節は梅雨ですね」などと言う人に出会ったことがない。この句の作者も梅雨が苦手。あの時期は、雨だけでなく、空気事態がべとべと体にからみついてくる様で、世界全体を「重い」と感じている。この句の景はどこかの石庭であろうか。岩がごろごろしている。そしてその岩それぞれが、「梅雨の重み」というべきものもを纏っている。

句の背後には「抱く吾子も梅雨の重みと言ふべしや 龍太」があろう。先達が作った表現を使って新たな俳句を作ってゆく楽しみ。「学ぶ」は「真似ぶ(まねぶ)」。私も良い表現はどんどん真似てゆきたい。

潮風をほしいまゝなる昼寝かな 良 (泰三)

 お気に入りの手袋を片方落としてしまい、悲しくて仕方がない泰三です。皆さんいかがお過ごしですか。

 季題は昼寝で夏。虚子編新歳時記には、「夏期は夜が短いのみならず、暑さのために常に睡眠不足であるので、仕事に耐へ難い日中を利用して午睡をする人が多い」と解説される。

 しかしこの句の場合、仕事の合間と言うよりも海辺のバカンスといった様が私には想像される。なぜなら、「潮風をほしいまま」にしての昼寝だからである。作者は、日常の仕事の中にあっては、「権勢をほしいまま」にしているのかもしれない。もしくは年若い者であるならば、「権勢をほしいまま」にしている上司からいいようにこき使われているのかもしれない。いずれにしても、この句の中の人は、そんな日常から離れ、ゆったりとした時を過ごしているように思われる。

 潮風はもちろん無料。海辺にいる誰にでも平等に吹いてくる。しかし、作者は、その潮風を「他ならない自分がほしいまま」にしていると感じた。自然の中で俳句を詠んでいると、あたかも花は自分のために咲いてくれている、また雲は自分のために流れてくれているといった不思議な感覚に陥ることがある。そのような感覚を、さりげない口調で一句に仕上げた気持ちのよい句である。

凌霄の風にうるさき花の数 竟二 (泰三)

 ボジョレーヌーボ解禁により、いささか二日酔い気味の泰三です。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 季題は、凌霄花で夏。凌霄花と書いて、「のうぜんかづら」と読む。ただしこれでは、季題だけで7文字も使ってしまうので、「のうぜん」や「のうぜんか」と読ませたりする。しかし、これらの読み方が正しいのか、もしくは俳人だけに通用するものなのかは、不勉強のため分からない。どなたか教えてください。

 凌霄花は、夏の暑い盛りに咲く。この句からも連想されるようにこれでもかという程たくさんの花をつける。そして、他の木々や家に絡みつき大層大きなものとなる。

 さてこの句。暑い盛りに凌霄花に風が吹いた。しかしながら全然涼しくない。熱風だ。そのせいで、凌霄花の花の数を「うるさし」すなわち、「煩わしい」(旺文社 古語辞典)と感じた。暑さの中で、ちょっと辟易している人間(自分)は、暑さなどものともせずエネルギッシュに咲き誇っている凌霄花を羨ましく思っているのかも知れない。

 

手術日の明日に決り髪洗ふ 野梨壺 (泰三)

 実りの秋を堪能し、体重の増加に歯止めがかからない泰三です。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 夏潮11月号雑詠より。季題は「髪洗ふ」で夏。角川合本歳時記には、「髪を洗ったあとの心地よさは夏は格別である」と解説される。例句として「髪洗ひたる日の妻のよそよそし 素十」の句が上げられている。素十の句を読んで、まず「え!?髪って毎日洗わないの」というものが第一印象。いったい、虚子や素十の時代はどれぐらいの頻度で髪を洗っていたのだろうか。

 さてこの句。手術の日が明日に決まった。いつかやってくることは分かっていたが、いよいよ明日である。もう覚悟を決めて挑むしかない。身も心もさっぱりして大仕事に挑む。「髪洗ふ」という行為に、静かな、そして強い覚悟がこめらている。いざという時の女性の静的な強さに満ちあふれている句だと思う。

北窓を塞いでありぬ湖の宿 貴之 (泰三)

 文化の日に行われた文化祭で精根尽き果てた泰三です。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 夏潮11月号雑詠より。季題は「北窓塞ぐ」。虚子編歳時記には、「冬の寒い北風を防ぐために北側の窓を塞ぐ」と解説される。が、近年、街中ではほとんど見られることはない。

  さてこの句。句の内容としては、「湖の近くの宿の北窓が塞いである」というただそれだけである。それでは、この句の何がおもしろいのか。それは、その風景が見えるからである。この宿は、湖やその近辺でとれるものを食材にし、成り立っているのであろう。もちろんリゾートホテルなどとはほど遠く、またペンションいった西洋風の建物でもない。「宿」という呼び名がふさわしい建物である。その建物を厳しい北風が襲うのである。宿屋の主は、毎年同じように北窓を塞いできた。今年もまた当たり前に主は北窓を塞いだだけだ。しかし、都会暮らしの客にとっては、北窓を塞ぐということは当たり前ではない。そのあり様が新鮮に思え目にとまった。そしてその感動ををそのまま一句に仕上げた句であろう。

また、歳時記には「北窓を塞ぎつつある旅の宿 虚子」の例句が上げてある。類想句だとして嫌う人もいるかもしれないが、それぞれの句から私に呼び起こされる景色はは全く異なるものである。

何も言わずに、また何も飾らずに、ただ景色をずばりと一句に仕上げた強さが、この句にはある。