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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第96回 (平成18年7月14日 席題 ブーゲンビレア・西日)

食堂へブーゲンビレアの外廊下
私の個人的好みなんですが、中七が八になるというと、気持ちが落ち着かなくなる。ホテルなんでしょう。しかもホテルがビルみたいなのでなくて、平屋建てがずーっと繋がって、キャビンみたいなのがずーっとあって、真ん中にプールがあって、食堂があって、フロントがあるというようなのを想像します。どこへ行くのにも外廊下になっていて、そんな所にブーゲンビリアが咲いている。という南の島の避暑地のようなものが、すぐ頭に浮かびましたが、それにしても「ブーゲンビレアの外廊下」ていう、「食堂へブーゲンビレア外廊下」の方が、まだいいかな。「の」が無くたって、通じるだろうという気はいたしました。
長谷寺の捩花の捩ぢ固かりし
長谷寺であろうが、清水寺であろうが、いいようなもんだけど、長谷寺というと、観音様。清水ほど町の近くではない。もう少し先に行くと、女人高野と言われる室生山がある。ちょうどその中間の、観音様のお導きで人と人が出会う。玉鬘ですね。話としては。玉鬘との出会いというようなものを、どっかで遠く匂いとして感じると、「捩ぢ」が固いという、なかなか解決しない問題があって、その蟠り(わだかまり)みたいなものと、長谷寺に参詣するということとの気分がいいかなという気がいたしました。
ベランダのブーゲンビレア朝の風
いいですね。席題でこういう句がぱっと出来れば、やっぱり力の作家だなと思いますね。どこも珍しいことをしようと言っているわけではないけれども、これでどこか南の国のホテルのベランダにブーゲンビレアがあった。なんていう感じがあって、もちろんご自分の家でもいいんですが、夏の風の気持ちよさが出ていると思いました。
プールまでブーゲンビレア遊歩道
これ、さっきの句と同じで、最初『ブーゲンビレアの』と「の」があったんですが、これは「の」がないほうがいい。家族でプールのあるような避暑地に来て、子供達にせがまれて、「私も行くの?」「来てよー。」というのに、蹤いていって、「ブーゲンビレアがきれいだわ。」と思いながら歩く。ブーゲンビレアがあると、薄く光りを透す性質がありますから、明るい日陰がある感じがしますね。それにこの句はぴったりだと思いました。
一山に白きかたまり百合の花
これもいいですね。眼前に一つの大きな山体があって、そこにぽつぽつと白いもの。あれは何なんだろうと、よーく見たら、あれは山百合なんだ。一時、皆百合を採ってしまったけれど、ここは採らずにあって、百合のかたまりがある。ということでよかろうと思います。
大西日水辺は人を歩まする
元の句、「西日さす水辺は人を歩まする」。「大西日」という言い方が安直で、申し訳ないんですが、元の句で僕がどうしても気になったのは、「西日さす」の「さす」ということばに動詞が働くんですね。「さす」が働いてしまうから、「歩まする」が全然動きにならなくなる。だから「さす」にしないで、「大西日」と名詞で押さえておかないと、『歩まする』の気持ちが削げてしまう。もったいないと思う。
打水に迎へられたる嬉しさよ
素直にこういう句が出来ると、立子先生みたいですね。立子先生って、こういう何でもいいことを、「嬉しさよ」というふうに言ってしまう。それでいて、形が見えてくる。なかなか気持ちのいい句だったと思います。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第94回 (平成18年7月14日 席題 ブーゲンビレア・西日)

砂日傘どれも死海の青に向き
元の句、「砂日傘人みな死海の青に向き」。砂日傘が向いているというので、俳句なんですね。それを人が向いているというと、説明っぽくなってしまう。俳句はできるだけ、そういう時に『人』だの何だの言わない方が得だろうと思いますので、掲句のようになさるのがよろしかろうと思います。
ビルとぎれ西日一閃バスの窓
これは人気があった句で、こういう一句を皆採れるというのは、それだけ選句力が身に付いてきたので、慶賀すべきことだと思います。これは先程の「西の壁西日を受けし」の句と同じように、近年の東京の光景ですね。いつまでもビルの陰を走っているとまったく西日など当たらないような、ところが広い駐車場とか、高いビルを建てると逆に周りにはものを建ててはいけないお約束がある。そうすると高いビルだと、かえって何もない広がりが現出するんですね。そういうことまでよく見えてきて、すぱっと西日が車内を差した。しかもバスの窓が昔と違って、大きな窓がたくさん広くあるというのもわかって、こういう句を作れたら、気持ちがいいだろうなと思いますね。
美しき果物のあり昼寝覚め
いい暮しですね。「昼寝覚め」という夏の季題なんですけれども、うつつに戻るまでのちょっとした時間がある。うつつに戻ったら、「あ、これをすぐやんなきゃ。」と思うんだけれど、うつつに戻るまでは、ちょっとぼーっと「まあー、きれいなもんだわ。」と思う。そういうところの微妙な夢からうつつに移る時間のちょっとした間(あわい)がこの句には見えていて、面白いと思いましたね。
夏山のさらに大きくそこにゐて
さあ、この句ですね。平板に作れば、「夏山のさらに大きくそこにあり」なんですね。しかし作者はどうしても「あり」では自分の気持ちが詠めなかったんでしょうね。「ゐて」と言う位までに、その夏山に対する感情が昂っていたんでしょう。どういうことかと言えば、汽車に乗っている頃から、その夏山はあった。汽車を降りて、バスに乗り換えている間に段々近づいてきた。そして今日泊まる所に来て、窓を開けたら、あの汽車から見た、あるいは途中のバスから見たその尾根が、あの形で、でもさっきまで見て来たよりもさらに大きな、その山らしい山頂の形、裾野を引く形が、さらに大きく眼前にあった。そこに「ある」では言えない、「ゐて」と言うくらい親近感を持つ山であった。さらに大きくなってそこにあったということで、浅間とか富士、あるいは磐梯山とか、特徴のある山だと、大変面白いと思いました。作者の気持ちの強さに気圧されて、「ゐて」でいいんだなと採ってしまった。選者の掌の中だけで句が選べたら、選者と作者の関係ってつまらない関係ですね。選者が一歩引いて、この句を採らざるを得ない。と思って採るというのが、作者と選者の関係があらまほしきことで、自分のありようの句しか採れないようになったら、選者はおしまい。自分の作らない句,自分では是としていいかどうかわからないけれど、一歩引いてみたらいい句だというのは採るように、近年、心掛けております。
シャーベットさじでけずるや物想ひ
こういう微妙な陰影の句をどなたがお作りになるのかと思ったら、この作者なので、大層びっくりしたというか、ある意味ではむべなるかなと思うんです。 「シャーベットけずる」っていうところで、食べる気はない。手持ち無沙汰ではあるんですね。だから手は自然に動くんだけれど、それは食べると言うより削って、ちょっとずつかいているだけだ。頭の中では、ここのところ次から次へ思っている物想いして、微妙な句だと思いますね。この作者というと、そんな若くないんだけれども、できたら妙齢の御婦人にやっていただきたいという気もいたしました。もしかすると作者の前に妙齢のご婦人がいて、シャーベットを削っているのかもしれません。