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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第9回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

梅林の海に落ち込む海の色

「海に落ち込む海の色」というこのレフレインがちょっと面白いです。海の色は勿論青々としているのだろうと思われます。

裏道を辿るすなはち梅辿る

「すなはち」というところなどは、なかなか技術が身についてきていますね。裏道は日陰なんでしょうね。日陰の裏道に梅が植えてあって、その梅の白さと香りを楽しみながら歩いている。そんな感じがしました。勿論、皆さんお採りになったのは、「辿る」ということばの繰り返しの中に、ある春先の心躍りも無くはないという気がしました。

人降りて葦刈舟の揺れやまず

この句は不思議な句なんです。季題は「葦刈舟」なんで、今時よりもずっと何ヶ月か前の、葦刈りの季節になるわけです。冬場、初冬になって、枯れた葦を葦刈にして、いろいろ使うんでしょう。その葦刈舟がこの句の場合、刈った葦を載せてきた舟から、葦を取り上げてをったらば、その間、葦刈舟がもやいに繋がれながら、渡舟場というかな、ポンツーというかな、で揺れてをったという解釈が普通だと思います。ただ、この句、いろいろな解釈が出来て、葦刈舟を三十センチ位の深さのところまで引き込んでおいて、水の中に降りて葦を刈っているという場面もありうるんで、それはそれで面白いと思います。ただ、その場合、「揺れやまず」がすこし大袈裟というか落ち着かないんで、場面としてはずっと面白いんだけれども、冒頭に申し上げたような解釈の方が真っ当であると思います。

松手入来園客に目もくれず

元の句、「松手入来園の者に目もくれず」。この字余りは致命的ですね。ことに、「来園の」の「の」が説明くさい。たどたどしい。この「松手入」は秋の季題ですから、そのつもりで、秋の空気の澄明さを背景に考えながら、この句を味合わないと間違ってしまいますね。「松手入」は床屋さんのような手つきでやる、独特なんですね。

梅見客一駅ごとに降りてゆく

元の句、「(前略)降りてゆき」。この止め方だと、軽過ぎますね。いつも言うことだけれど、そういうことに気がついた自分が見えてしまう。俳句に詠まれた景が読者に伝わるべきであって、俳句を詠んでいる人の顔が読者に伝わっては失敗です。「降りてゆき」だと、そういうことに気がついた私って、観察力があるでしょと言っていることになってしまう。「ゆき」が軽過ぎて、しかも作者の顔が見えて、この句は損をします。「降りてゆく」とそのままに詠んだ方がいいと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第6回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

靴揃へ脱ぎあり山の梅の茶屋

ちょっとごたごたしている。「山の梅の茶屋」のリズムがよくないんですけれど。梅見と花見の違いを、まずしっかり認識することで、梅見というのは花見より約一月早い分だけ、どこか寒々しかったり、着物の裾のあたりを風がひゅっと抜けるような。何か食べていても、落ち着いて酔っぱらうんではなくて、そそくさと引き揚げてしまう、そういう感じが、どこか梅見にはありますね。勿論、日暮れの時間も、梅見と花見では随分違うので、気分も大分違うんですね。そういうことをよく考えて梅見という句を作っていかないと、失敗してしまう。ちょっと寒々しい山の中腹に茶屋があって、そこに梅見客が来て、お行儀のいいお客さんで、ちゃんと靴が揃えて脱いであったというところに、静かな一時の一行の様子が見えてくると思いますね。ただ、冒頭に言ったように、「山の梅の茶屋」のリズムがすっきりとしていないうらみがあります。

白ブーツに素足の膝よ春隣

「春隣」は冬の季題です。「日脚伸ぶ」「待春」「春隣」とか、皆冬の季題です。まだ春になりきっていない、そろそろ春になるといいな、春が近いなという気分が「春隣」という季題です。「白ブーツに素足の膝よ」というのが、面白いですね。清潔な、健康な女の人の美しさ。美しいとも言えない、まだ子供のような膝小僧で、それが白いブーツをはいている。ファッションのこと、詳しくありませんが、ご婦人でも、白いブーツを履くのは、十代、せいぜい十六、七までくらい。そういうことを考えると、そんな感じの子の膝頭というものと、清々しいような、色気以前というような白さが見えて、面白いと思いました。

咲き初めし紅白梅や炭手前

ひじょうに仕上がりのよい句ですね。炭手前があって、雪見障子みたいなものがあるんでしょうかね。お茶室でなくて、お座敷みたいなところのお手前を想像したんですけれども。その庭先に紅白梅がもう咲き始めている。お客さまが、「もう梅が咲き始めましたね。」と言いながら、お手前が進んでいるという景色を想像させました。とにかく行儀がよくて、仕上がりがいい。これは一つの俳句ですね。新しく、新しくと思って、お行儀わるくしていく一派もいますけれど、それは違うんで、お行儀のいい方はお行儀のいい詠み方で、結構だと思いますね。

アパートに隣れる土手の草を焼く

面白いところを発見しました。本来なら、土手によって、田んぼか畑があった所に、無理矢理に町が広がってきて、アパートが建ってしまった。本当ならば、土手の方が主人公なのに、アパートの住人が「煙って匂いがついちゃうわ。」というような顔をして、見下ろしている人もいる。といった、新興の近郊ベッドタウンの一角。ぼつぼつとお百姓も住んでいるという景色も見えてきて、面白いと思いますね。

どつと客降りて下曾我梅の里

「下曾我梅の里」というのがしつこいようで、採らなかった人がいるかもしれないけれど、逆にこのことばにかけた感じが、あるリズム感を作っていると思いますね。「曾我神社曾我村役場梅の里」という高浜虚子の句がありましたね。曾我というのは小田原の近くで、大変地味な梅の里です。実梅を育てているところですから、熱海の梅林とか近年はやりの湯河原の梅林とかとは、違う感じがしますね。