ただならぬ赤さに椿咲き満てる 児玉和子(2015年7月号)

 虚子に〈小説に書く女より椿艶〉、〈造化又赤を好むや赤椿〉の句があり、特別に椿を好んでいたことが知られているが、確かにギョッとするほど人の眼を引く赤椿というものもある。虚子はそれを「小説中の女」に譬えてもみたわけである。そして掲出句で作者は「ただならぬ」とその「赤」を表現した。ところで「ただならぬ」だけでは、どう「ただならぬ」のか分からぬではないかという感想も当然出るであろう。「普通ではないのだ」と釈明しても始まらない。しかし永らく「椿」と付き合ってくると(すべからく俳人はさまざまの季題と永らく付き合ってきている)、「その赤さ」が、なんとなく想像できるようになってくる。「椿」とは、「椿姫」のヴィオレッタではないが、どこかにそういう「魔性」を秘めているのである。恐ろしく深みのある「赤さ」の椿の花が日面・日裏にみっしりと咲き連なっている景を、永らく「椿」と付き合ってきた俳人は目裏に描くことが出来るのである。作者はその辺りの呼吸を十分承知していて、こうした表現を試みたのである。 本井 英

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