日別アーカイブ: 2012年4月27日

小沢薮柑子『商船旗』を読む (泰三)

 「夢だけど。夢じゃなかった。」というのは、となりのトトロの中に出てくる台詞である。句集『商船旗』には、「当たり前だけど、当たり前じゃなかった」事柄が溢れている。しかも、それらの当たり前じゃなかったことが、あたかも当たり前であったかのように描かれている。

 句集を一読して、体言で終わる句が目につく。体言で終わる際には、上語を「や」で切って形を整えたくなるものだが、作者はそれを避ける。淡々と移り変わる世界を、淡々と描写する。それはきっと、薮柑子さんの生き方そのものなのだろう。

 

日当たつてゐて秋の蠅動かざる

季題は秋の蠅、蠅だけだと夏の季題である。夏の蠅はぶんぶんとうるさいが、秋の蠅は何とも切ない。窓辺であろうか、秋の陽射しを浴びながら飛び立とうともしない。残り少ない命を作者は冷静な目で見ている。静かな写生に徹する事によって、逆にあわれを感じさせる句である。

 

同じ道帰つてきたる日永かな

 何と同じ道なのだろうか。私は「行った道」と同じ道と鑑賞した。それは、この句が「日永」の句だからだ。帰る時間まで残っている陽射しが、「朝と同じ道」だという感覚を強く持たせた。同じ道を行き、同じ道を帰る。通勤とはそんなものなのだが、日永が故に、そこに感動を覚えた。

 

水仙の葉の色茎の色同じ

 季題は水仙で冬。香の強い純白の花である。しかし、この句の主役は花ではない。葉と茎である。葉と茎の色が同じであるという当たり前の事実が言われているだけである。何でもない事柄なのだが、確かな写生が水仙の姿を読者に浮かび上がらせる。

 

冬瓜の逃げも隠れもせぬ畑

季題は冬瓜。堂々とした体躯が、畑にごろごろと転がっている。その姿を「逃げも隠れもせぬ」と写生した。

この句の背後に

先生が瓜盗人でおはせしか 虚子

を感じる。

冬瓜は盗もうにも重すぎて盗めない。「盗めるものなら、盗んでみろ。言っておくが、俺は重いぞ」なんていう冬瓜の台詞が聞こえそうだ。

 

アスパラのレシピを壁に留めながら

 季題は、アスパラガスで春もしくは夏。歳時記によって扱いが異なっている。また、昔の日本人は食べなかったのだろう。古い歳時記には載っていない。

 そんなアスパラガスであるが、自分で思いつく食べ方なんてバターでさっと炒める、もしくはベーコンで巻き付けて焼き鳥と共に焼くといったぐらいだ。

 しかし、違う食べ方はないだろうか雑誌をめくってみた。すると美味しそうな食べ方が見つかった。さっそく雑誌を切り抜き、壁にピンでとめながら、料理を始める。

 この句が例えば、「松茸」のような高級食材の句だったらどうだろうか。気取りすぎて嫌みである。アスパラという身近な食材を使った日常の料理、いやわざわざレシピを切り抜いて料理しているので、休日の昼の料理といったところか。この一寸だけ特別な感じが私は大好きである。

 

『商船旗』抄 泰三選

 浮島に薄日があたり秋の池

炎熱の街が斜めになる離陸

蜥蜴鳴く眠りに落ちてゆく時間

日当たつてゐて秋の蠅動かざる

森の底から凍星の見えてをる

同じ道帰つてきたる日永かな

雛納むいつまで同じ新聞紙

船虫の数をたのみに逃ぐるかな

滝水の落ちれば風の生まれけり

水仙の葉の色茎の色同じ

ロバいつも大儀さうなり街の春

冬瓜の逃げも隠れもせぬ畑

まどろみのあいだもずつと秋涼し

アスパラのレシピを壁に留めながら

夜濯のやうに次々皿洗ふ

 

 

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第24回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

朴咲いて白馬村なる日和かな
元の句、「白馬の村の日和かな」。『白馬の村』というと、『白馬の騎士』みたいになってしまって、あるいは、白い馬がたくさんいる村みたいになってしまいますね。白馬の村はちょっと無理でしょうね。もしかして信州の白馬村だとすればね。そうしたら、白馬村とおっしゃらなければ無理なんで、掲句のようにすると、なるほど、栂池とか、天気がよければ、上の白馬槍とか杓子とかが見えている。その日和も、想像できると思います。
雨音に明日の牡丹を思ひをり
牡丹が庭に咲いてをった。今日はきれいだった。雨音がしてきた。どうだろう。明日見てみよう。こぼれてしまった花弁があるかもしれないなー。だからと言って、シャッターを開けたり、雨戸を開けたりして見るわけではないんだけれど、頭の中で、今日一日見ていた牡丹と、明日の朝の変わり様を、心配しながら、雨音を聴いているという句。元の句の「思ひやる」だと、ちょっと違う。「思ひやり」とか「思ひやる」だと、情が籠り過ぎてしまって、味が濃くなってしまう。「思ひをり」と少しクールにしてしまった方がいい。
京御幸町上ル西入ル新茶買ふ
どこだか存じませんが、上ル西入ルで、大きな碁盤の目から外れていない部分だということが、この表記の仕方でわかる。古い葉茶屋さんがあって、わざわざ買いに行った。おそらく京都の人皆が好む、新茶が宇治から運ばれて、京の 町中で、売られているのであろうというところまではわかりますね。
密柑山の花の香りに誘はれて
これ、最初から「密柑山の」と字余りでしたね。大分、表現のコツを飲み込まれたことを、嬉しく思います。「密柑山花の香りに(後略)」では歌謡曲になっていってしまう。「密柑山の花の香りに」とすると、突然上品になって、その香りがひじょうにいい香りで、たまたま上る気はないんだけれども、あまりの香りのよさに、「ちょっと上ってみようか」というので、畑につれて上ってみた。