月別アーカイブ: 2012年2月

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第1回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

淋しきはビルの谷間の枯木立

勿論、季題は枯木立なんですが、枯木立というと、今流行りのことばで言うと里山とか、そういう所の木々。それがすっかり枯れて、十幹とか二十幹とか並んでいるという感じがするんですけれども、そういう自然の何百年も生え替わり、生まれ変わってきた木立と違って、ビルの谷間の枯木立というと、いかにも植えましたという感じ。小難しいことを言えば、きっと土地の建ぺい率があるんでしょう。高いビルを立てれば、必ずビルでない部分に公共の部分を作らないといけない。そうするといかにも植えましたといった木がある。そういういかにも人工の、持って来て植えましたというようなしらじらしさみたいなものが、この句にはありますね。「淋しきは」という打ち出し方は、ひじょうに主観的で、今まで採らなかった傾向とお思いかと思いますが、この句の場合には枯木立がいかにもその場にそぐわぬ、その冷涼たる気分は「淋しきは」と打ち出さないと言い切れないだろうと思います。

 

なじまない猫と住み居て漱石忌

勿論、賛同者が多かったので、よくおわかりと思いますが、「猫」と言えば、漱石忌ということになる。その猫がいつまでたっても主人に馴染まない。他の家族にはなつきながら、どうも俺にはなつかないぞ。可愛いと思いながら、どこか十全に満足しない。そんな主人公の漱石忌を迎えての気持ちがよく出ているなと思いました。

 

村のバス朝夕二本紙を漉く

席題の句の優等生の方向の句ですね。この句が今までなかったかというと、なくはないと思うんですが、席題を与えられた時に、自分の想をこういう方向で広げていくということは、一つだと思うんです。つまり、紙を漉くというのは、どういう所か。離れた所なんだよな。人があまり来ないような里なんだよな。とか、そうするとバスが二本しか来ないとか、段々想が発展してきますね。そうすると空想でなくて、長い人生の中でそういう所はこうだよということが出てくるわけですね。その世界へ自分を旅させていく。題詠の面白さは、自分の過去のさまざまの見た事や、聞いたことや、テレビの映像で見た世界に、ふーっと入り込んでいって、そこで見聞をしてくる。そういう時に「村のバス(後略)」の方向で、どうぞ想を練っていって下さい。そういう顕彰の意味で、採りました。

 

小春日の煙にむせて泉岳寺

元の句、「小春日や」。「や」で切ってしまうと、この句の狙いがはずれてしまうかもしれませんね。さっきも言ったんですが、そろそろ十二月十四日だ。という気持ちで、今日はいい天気だ。あの時の、ま、あの時の十二月は西暦の二月頃になるんですが、雪の降った日なんですが、そんな雪の泉岳寺の朝を想の片隅に置きながら、今日の小春日和をめでている。なるほど、泉岳寺というのは、日本の寺の中でも、煙の多いお寺ですね。

 

犬山吟行(英)

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名古屋句会の皆さんの東道で犬山を吟行する機会を得ました。明治村は何十年ぶりでしたが、乗り物の数が減っていたのは寂しい限りでした。博物館として素晴らしい企画と思っております、今後の発展を祈るばかりです。犬山城は亡くなった成瀬正俊さんのお城。さすがに国宝としての美しさを川面に映していました。お世話下さった近藤作子様はじめ名古屋句会の皆様ありがとう存じました。

佳田翡翠句集 『木挽町』 角川書店_(杉原)

佳田翡翠さんの第二句集。氏は昭和二十年岡山県生まれ。「ホトドギス」「松の花」に所属。「木挽町」30句で平成二十二年日本伝統俳句協会賞を受賞。日本伝統俳句協会千葉部会の会長を勤められた。

日本伝統俳句協会で活躍されているらしい、肩の力を張ることの無い自然な詠いっぷりが句集を読み進めていくにあたり心地よい。純粋な写生句にも結構な句は多くあるが、写生を通じて情が零れてくるような句の方により興味を持った。

句集中には旅吟や芝居を題材とした固有名詞を用いた句が目に付いた。これらについては、省略した方がよいと思われる句が散見された。固有名詞を強調し過ぎることで、本来花鳥諷詠で持つべき「季題」に対する愛情、興味が薄れてしまっているような感じがし、損をしているように思えた。

 

佳田翡翠『木挽町』

・菜の花の上に海その上に空 翡翠

 季題は「菜の花」。菜の花が咲く頃のまだ冷たくどんよりとした海と空の様子が良く分る。一番下にある菜の花の色だけが妙に明るい。

 句集の中で数少ない句跨りの句だが、リズムが俳句の内容を表すのに効果的な役割を果たしている。

 

・どこまでも富士ついてくる枯木山 翡翠

季題は「枯木山」。枯木山を登ってみたところ、富士がくっきり見えている。その枯木の山の尾根を歩きつつ振り返り見るとしっかり富士がそこに見えている。富士はすっかり雪富士になっているのだろう。その富士がいつまでたっても同じ大きさで見えている。それを中七のように詠みあげた。富士に見守られているような不思議な感覚で、山道を進んでいく。実感が良く伝わる一句。

 

以下、その他印をつけた句を各章毎に紹介する。

 

「木挽町」より

新橋の妓もちらほらと小正月

幕間の桟敷へ届く鰻飯

 

「新年」より

龍の字の動きだしたる吉書かな

勝ち独楽のぐらりと揺れて止まりけり

 

「春」より

くちびるにふふめば甘し春の雨

西行庵まで春泥の谷づたひ

三陸の海そこにある春の闇

宮城野のなゐの大地に芽ぐむもの

ふらここや昨日の雨をふりこぼし

 

「夏」より

今年またマッカーサーのサングラス

雑魚舟のもどつて来たる梅雨の岸

夏袴都大路を渡るかな

白服にナイルの風をはらませて

 

「秋」より

階下より夫の声する十三夜

徒で越ゆ峠の茶屋のぬかご飯

街角の回転木馬小鳥来る

韃靼の地平に沈む秋夕日

秋風や哈爾浜(ハルビン)と呟いてみる

ふるさとは高志(こし)のまほろば銀河濃し

 

「冬」より

本殿の大屋根高し節分会

 

(杉原 祐之記)

俳諧師前北かおる

http://maekitakaoru.blog100.fc2.com/blog-entry-786.html

 

紀伊国屋書店HP

https://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/search.cgi?skey=1&AUTHOR=%89%C0%93%63%E3%C5%90%89

神の留守朝から鳥のよく啼いて 作子 (泰三)

  子供達が発熱してしまったおかげで、休肝日を二日とることが出来た泰三です。皆さんはおかがおすごしでしょうか。

 季題は神の留守。神無月に神が出雲に旅だってしまった留守の社のことを云う。境内の樹木で鳥が朝から囀っている。その鳥たちが、あたかも神の留守を守っているかのようにも聞こえる。「神の留守」という観念的な季題を、鳥の声から感じた。

 神様達が、出雲大社に集まるのは、縁結びの相談のためだそうである。もしかしたら、鳥たちは、人間達を上から眺めながら、うわさ話をしているかもしれない。などと想像力を刺激する句である。

 

『ラウンドアバウト』 石本美穂第零句集を読む (泰三)

 私は美穂さんファンである。誤解を与えない様に云えば、美穂さんの俳句のファンである。いや実は人間としての美穂さんのファンでもある。結局ファンなのである。証拠に句会で美穂さんと一緒になる機会があれば、美穂さんの句ばかりを選んでいることが多々ある。ファンとして、頼まれてもないのに、勝手に句評させていただいた。

  最近、岸本尚毅氏の著作の中で、「虚子は俳句に無理をさせていない」という表現にであった。散文にも絵画にも出来ない、俳句にだけしかできない事柄についての言葉である。

 美穂さんの句集を読み、まさにこのことが思い起こされた。目にした季題、体験した人事を無理のない言葉そしてリズムで一句に仕上げている。一読して意味は明解、口に出して読むと気持ちがよい句ばかりである。

この句集のほとんどすべては、季題に忠実な写生句なのだが、その場にいるすべての人を温かな気持ちにする美穂さんの人柄がにじみ出ているように感じた。

 

秋燕に出会ひし旅の終りかな

季題は、秋燕。帰る燕のこと。旅の終わりの切なさが、去りゆく秋燕のあわれに重なった。かといって、センチメンタルな感情に流されてはいない。というのも、やはり切れ字の「かな」が効いているのだと思う。「終わりかな」と言い切ったことで、この旅も充実したもので、もはや旅に未練はないといった感覚が表現されているように思う。

秋空を自在に飛んでいる燕の姿が目に浮かぶ気持ちの良い句である。

 

どんぐりを握つてをれば暖かし

 拾いたてのどんぐりは冷たい。握りしめておくと、手の熱がどんぐりに伝わって暖かくなって行く。そして、握りしめている手を逆に温めてくれる。たくさん拾ったのであれば、袋やポケットに入れるのであろうが、手にしたのは2,3個。手の中に入れて持ち帰ったのであろう。読んでいると気持ちがぽかぽかしてくるような暖かい句である。

 

蜜柑々々と声しながら蜜柑剥く

 季題は蜜柑。こう云われてみれば、私も蜜柑蜜柑などと云いながら蜜柑を剥いているような気持ちがする。果たしてリンゴはどうだろうか。おそらく、リンゴリンゴなどと云いながら、剥くことはしない。なぜ蜜柑は蜜柑蜜柑などと云いながら剥くかというと、気楽に手で剥けるからだろう。炬燵に座ったまま、それぞれが勝手に剥いて食べる。ある人は、独り言を言いながら剥いて食べている。ああ、この句はまことに蜜柑の句だと思う。

 

しつらへて客を待つ間の小春かな

 大事なお客様なのだろう。念入りに掃除をし、迎える準備をした。「設える」のだから、茶会や句会といった何か特別の事をするのかもしれない。準備が終わりふっと一息ついたとき、小春を感じた。忙しさから離れたときに感じる自然の恵みを飾らない言葉で一句に仕上げた佳句である。

 余談だが、この句が出されたのは、池袋の夜句会。私は特選で取らせていただき、以来ずっと記憶している句である。

 

雪として地に降り水に戻りたる

 雪が降ってきて、地について水に戻った。工夫は「水に戻りたる」という下五にあろう。なるほど、雪とは元々空気中の水分が凍ったもので、もともとは水である。自然の大きな営みを感じさせる句である。しかし、散文ではわざわざこんなことは云わない。俳句だけがこのようなこと、自然の当たり前の理を歌う。俳句にしかできないことを無理のない言葉で一句に仕上げている。

 

『ラウンドアバウト』抄 泰三選

急流の緩みしところ水の澄む

御降りに万物濡れて静かなり

水色のスカート夏の老婦人

フリージア腕いつぱいに抱えたし

早朝のラウンドアバウト旅の秋

くたくたとなりて山茶花なほ残り

まだ日ざし届かぬ庭の残り雪

鹿どちの尻の並びて草青む

水切りの石よく跳ねて冬ぬくし

 ぽつてりと革手袋の置かれある