花鳥諷詠ドリル」カテゴリーアーカイブ

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第79回 (平成18年4月4日 席題 残花・朝寝)

朝寝して潮の目見ゆる窓に立つ
いいですね。伊豆とか、そういう所に旅なすったんでしょう。たっぷり寝て、寝足りて、窓辺へ寄ってみると、昨日は潮騒がしていたけれど、今朝はすっかり静かになって、沖の方の潮の色目の違うところまで、よく見えている。「あー、おなか空いちゃったわ。食堂へ行きましょうか。」といった、一瞬だと思います。
きな粉こぼれ鶯餅はやはらかく
その通りですね。なるほど鶯餅は、指がぐずぐずっと入っていくような、柔らかい感じがして、その柔らかく指が入ったら、当然そこのきな粉がこぼれるわけですから、おっしゃる通りです。それでいて、説明的でない。「鶯餅はやはらかく」という置き方が、説明くささを感じさせないんだと思います。
清水門鎮まりかへり残花かな
「清水門って、どこでしたかね?」どこでしたっけと訊くぐらい、今は皇居の御門の中では有名でない。当然「鎮まりかへり残花かな」というのがわかるわけで、「桜田門」とか「二重橋」とかになってしまうと、そんなことはないだろうということになる。
ほの暗き聖堂の窓花の影 
あるしみじみとした、イースター間近の感じが出ているなというふうに思えますね。
路次裏にぺんぺん草の小さき国 
「小さき国」がうまかったですね。ただ雑草として生えているというより、その薺は雑草という域を越えて、伸び盛って、白い花を付けて、抜こうという気はしない。もうそこはお前に任せるよ。治外法権だ。といったような、路次裏の一角に、薺が咲いてをったということで、ある気分が出ているなと思います。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第78回 (平成18年4月4日 席題 残花・朝寝)

学帽の少し大きく風光る
「風光る」という季題が気持ちよく付いていると思います。新入生なんでしょう。最初から新入生の頭に合った帽子を被せる親はいません。必ず大きくなるのがわかっているから、本人がいやがらない最大限大きいのを買う。そんな子供の大きな学帽が目に見える。可愛いなと思いますね。
用水の此処に始まる花筏 
どうして始まるのか。ハケの水みたいなのが湧いてくるのか、あるいは農業用水みたいのが地下水道だったのが、そこから表に出てくるのか。そういう流れが滔々と、特に花筏を浮かべている用水というのは、当然これから農業に一番役に立つ季節になっていますから、いよいよ農家の方が忙しくなる頃なんだという背景を持ちながら、花筏が浮かんでいる。用水なので、花筏がけっこう早く流れていくんでしょうね。春を迎えた喜びが、ゆっくり漂っていると思います。
通行証見せて人入る柳の芽
これ、いい句ですね。柳は本当に効いていると思えます。柳なんてどこにでもあるんだけれど、こう言われてみると、都会の風景。柳の植えてある都会。あえて街路樹として柳を植えている都会。その都会のビルに通行証というか、カードのようなものを見せて、人がどんどん入っていく。朝の出勤風景、そういう現代的なものを、くどくどと説明しないで、官庁なんとか省とか、00銀行とか、お掘りの端の柳だろうということがわかってくるだろうと思います。
うぐひすの節回しやゝこなれけり
すこしよくなったねー。うぐいすに対して、頑張れよといった気持ちがよく出てきて、いいなと思いました。
文庫本に栞代はりのクローバー
元の句、「文庫本栞代はりの」なんですが、これも「文庫本に」と字余りになさった方が、栞代はりのクローバーと、ひとまとまりになって、具合がよろしいかと思います。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第77回 (平成18年4月4日 席題 残花・朝寝)

空青く会津の城の残花かな   延魚 下の句「空青くて」。「て」は要らないと思いますね。真っ青な空に会津の城が見えていて、その周辺に残花があった。と言われてみると、会津という地名の持っている戊辰以来の我々の記憶、会津藩の記憶が出てきて、残花ということばが、単純な残花ではなくて、何か感じさせるものがあろうかと思います。
残んの花緑に紛れ散りにけり
面白いですね。葉っぱと言わずに、残んの花があるんだけれど、大分葉がちになっていて、その葉がちの中から、いまだにまだ残花がこぼれ止まないという、不思議な花のある時期をお詠みになって、うまい句だと思いました。
走り根の抱ける土にすみれ草
これは気持ちのいい景色です。走り根、根が張っている。なんでもいいんですよ。その根と根の間がくぼんで、柔らかい土があって、そこに持ってきたようにすみれの花が咲いてをった。きれいな景色で、景色そのものが俳句そのものになっているようで、いいですね。このような景に出会ったことが、喜ばしいことだと思います。
子らの声やむことなしに暮遅し
これもある春の暮の気分がよく出ていると思います。ここで提案ですが、「子らの声」は、もちろん十全の表現なんだけれども、むしろ僕は「子の声のやむことなしに」の方がいいように思えます。というのは、「子ら」というと、複数であることを最初から当然として出してきている。そつなく言えているのは事実ですが、「子の声の」と言えば、単数かと言えば、やはり複数を感じるんですね。そうすると、「子ら」と言って、水も漏らさぬ表現にするよりも、「子の声の」とした方が、アルページ(アルペッジオ)があるように、私には思えるんですが、これは一つの提案ということで、手を入れているわけではございません。
朝寝して今日は家居ときめてをり
いいご身分ですね。外出も家居も思うがままという環境の方が、今日は家にいましょう。と言って、家に居る。と言うんで、あるお年かさの方の暮しぶりというのがわかりますね。



花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第76回 (平成18年4月4日 席題 残花・朝寝)

喧嘩して口はへの字の入学児
もちろん大学とは申しません。小学校の子ですね。早くも喧嘩してしまって、ウーンと言いながら、お母さんに駄目だと言われながら、式に出ている小学一年生。さあさあ幼稚園でも喧嘩早かったけれど、これから新しい小学校、どうだろう。でもきっとだんだんに育っていくんだろう。元気のいいのはいいことだ。といったような、親の安心感とそういう親の安心感とは関係なしに、我が物顔の子供の顔はよく見えてくると思いますね。
寒さゆゑ残花長引く今年かな
素直にお詠みになって、これでいいと思いますね。若干、「寒さゆゑ」というあたり、説明くさいとお思いになった方もあるかもしれませんけれども、「今年かな」というところで、救われていると思います。なるほど言われてみれば、今年はそうだったし、そういう年があることもありますね。
幽明をたゆたふごとく桜散る
これもいい句ですね。何か桜の満開の下に死体が埋まっていたりするんですが、桜というのはどうも死の匂いがするところがあります。実際に桜と死というのは近いんですけれども。「幽明をたゆたふごとく」というのは、句の表面としては、明るいところと、暗いところを辿って散っていくところを詠みながら、実はあの世とこの世、幽明境を異にすると言いますけれども、あの世をあぶり出してくるような句で、実際の景でありながら、その背景にある「死」といったようなものが、私にはどうしても見えてしまうんですね。深い句だと思いました。
大銀杏うぶ毛のごとき芽吹きかな
これも素直な句で、なるほど大銀杏だけども芽吹きの瞬間は、うぶ毛のふっと生えたような、もうちょっと経つと、生意気に出てきた葉っぱが、銀杏の形をしている。そこが面白いところなんですが、その直前の形です。
耕耘機唸りをあげてバス通り
バス通りなんて、もう死語かもしれません。昔は「バス通り裏」なんて、テレビ番組があって、表側の通りがバス通り、その裏が裏通り、その間に横丁があってと、そんなカテゴリーに分かれていたんですが、この句はアスファルト舗装をした路線バスの通る道、そこをたまたま耕しに行く耕耘機が通っている。耕耘機はスピードが出ませんから、一生懸命最大のフルスロットにしても、他の車の邪魔になる。そんな一生懸命フルスロットにして、うーんと唸りながら、見た目にはたらたら走っている。田んぼに行けば、活躍する耕耘機ですけれど、バス通りでは、かわいそうな位、周りが迷惑になる。そんなものを、感情を入れずに詠んでいるところが、この句の俳人としての抑制が効いていて、いいと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第75回 (平成18年4月4日 席題 残花・朝寝)

逝く春を雨の音にぞ惜しみける
これは堂々たる句ですね。これは「近江の人と惜しみけり」と肩を並べる惜春の句として、いいと思いますね。特に「雨の音にぞ惜しみける」という係り結びが、実に美しい、あるリズム感を僕らに感じさせてくれる。「ぞ」の感じがいい。それから、逝く春の「逝」という字もいいですね。こういう字を書きます。春が死んでいってしまう。字面といい、リズムといい、今日はこの作者、お成績がよかったのは、むべなるかなという感じがいたしますね。
千鳥が渕の名残の花を見てゐたり
元の句「千鳥が渕名残の花を見てゐたり」なんですが、ちょっと屈折した内容には、リズムもちょっと屈折した方がいい。盛りの時には、あまりの人出に来る気もしなかった。もう大分人がいなくなっただろうと来てみたら、意に適う残りの花があった。人は皆花を見なくなってしまったけれど、私はこの花で、充分楽しいわ。と言って、あまり人気のない千鳥が渕に立ってをるということになるんですが、私は「の」のあった方が、字余りになさった方がいいと思いますね。
恨みもし賞めたりもして花の雨
大きく解釈が二つに分かれます。わるい解釈は、「花の雨が降っちゃって。雨だねー。」と恨んだりすることもあるし、「いいね。乙なもんだ。花の雨はいいもんだ。」と賞める。擬人化が過ぎていて、句がやや月並みになってしまう。言いたいことが見え過ぎてしまう。私の解釈は、ある人物に対して、恨みもするし、賞めもする。「あの人は辛い人だな。何とかして欲しいな。」と思うこともある一方、「本当にいいやつなんだ。」と思うこともある。そういう人物のことを花の雨の時に思っている。そういう、ある屈曲した人間関係が花の頃にあったと解釈するのが、解釈としてはよろしいんだと思います。
満潮の橋も艀も朧なる
今日快調のこの作者。これもいいですね。最初見えないんですね。橋があるんだなと川面を見ると、川面に水明かりがしていて、何か動いている。「トトトト」と、艀だ。何でこういう時間に艀が動くんだろうね。と思いながら、音も景色も朧の一晩であった。ということで、段々目が闇に馴れていくなかで、うすら明かりの月光が見えてくる。そんな句だなと思って、二昔、三昔前の大川の気分があると思いますね。
自転車を停めて警官花を仰ぐ
元の句、「花に対す」。これだと、ちょっと大袈裟なのと、「対す」という時には、ある水平面の中での同じ位置になりますから、「対す」となると、大分遠くの桜を見ている感じになる。人間の形が遠くの水平方向に向かって対しているのか、上を向いて、反り返っているのかというと、ちょっと体の固くなった四十過ぎの警官が、ちょっと反り返っている感じが、かえって滑稽にも見えて、警官も今日はすこしのんびりしたいという感じがある。ということで、句としては、「対す」より上等になるかもしれませんね。