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花鳥諷詠心得帖14 二、ことばの約束 -6- 「仮名遣いの話(四つ仮名)」

今回は「四つ仮名」の話。前回御紹介した「じ」「ぢ」「ず」「づ」の四つの仮名だ。

この「四つ仮名」は本来別々の発音であったからこそ、古来、それぞれの仮名で表記されてきたわけだが、およそ我々が使っている現代語の発音では「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の間に区別は無い。「およそ」と断ったのは、現在でもなお九州南部・土佐・紀州の一部のように、地方によっては地域語(所謂「方言」)として「四つ仮名」の区別のついている地方もあるからだ。しかし京都を中心とした日本の中央部分では江戸時代既に「四つ仮名」の区別はつかず「二つ仮名」として発音されていたらしい。

そのことを伺わせる資料として『蜆縮涼鼓集』(けんしゅくりょうこしゅう)なる書物が元禄八年に刊行されている。これは書名にある如く、「蜆(しじみ)」・「縮(ちぢみ)」・「涼(すずみ)」・「鼓(つづみ)」のような「四つ仮名」の「仮名使い」を示した書物で、約六千語を例示して、その正しい書き方を指示している。つまり、爾来三百年近く我々は、自身の発音によってではなく、知識として「四つ仮名」を書き分けて来ていたという訳だ。

さらに東北地方の一部の人々になると四つの仮名を一つの音で賄ってしまう。「地図」も「知事」も同じ、所謂「ズーズー弁」だ。これらの人々になると知識で書き分ける分量が増えてしまって、さぞかし大変なことであろうと想像する。

ところが「四つ仮名」問題にも例外があって、「二語の連合」と「同音の連呼」の場合には、「づ」「ぢ」の使用が認められる。

簡単な方から言うと、「連呼」というのは、「ちぢむ(縮む)」、「つづみ(鼓)」「つづく(続く)」などが例。「しじみ(蜆)」は「ち」から始まっているわけではないので、「じ」でいい訳だ。

一方、「連合」というのは二語が繋がって一語になった結果、濁音になった場合のこと。
例えば「鼻」から出る「血」だから「鼻血(はなぢ)」。この場合「じ」でなく「ぢ」と表記する。つまり語源意識が明瞭にあるケース。「みかづき(三日月)」、「ひぢりめん(緋縮緬)」、「べんきょうづくえ(勉強机)」の類がこれに当たる。

もっともな話だ。ところが「国民的レベル」で語源意識が消滅したと認定されると、原則適用に戻されてしまう。例えば「さかずき(酒坏)」、「いなずま(稲妻)」の類だ。「稲妻」によって稲が実ると信じられていたから、「稲の妻」であって、それ故歳時記では「雷」は夏の季題なのに、「稲妻」は秋の季題に分類されている。そんな重要な「文化」の部分を勝手に改悪されてはたまらないのだが、その程度のものが「新仮名」なのだ。

花鳥諷詠心得帖13 二、ことばの約束 -5- 「仮名遣いの話(外国から来た音)」

「現代かなづかい」原則第一類、第二項。
「旧かなづかい」の「くわ」、「ぐわ」は今後「か」「が」と書く。たとえば「科学」は「くわがく」、「菓子」は「くわし」、「愉快」は「ゆくわい」、「外国」は「ぐわいこく」、「一月」が「いちぐわつ」と書くのが「歴史的仮名遣ひ」のお約束。他にも「観音」は「くわんのん」、「元旦」は「ぐわんたん」の類だ。

近年、さすがに耳にする機会が減ったが、この通りに発音された方を何人か知っている。俳人では亡くなった深川正一郎先生がこうだった。聞くところに依れば、虚子先生にもこの発音の傾向はおありだった由。

方言としては宮崎県を中心に、九州南部。四国中部。島根・鳥取北部。石川、富山、新潟、秋田の一部にも残っている。これらは所謂「字音仮名遣い」にのみ見える現象だから、漢字で書いてしまえば何も判らない訳だが、「仮名」で書くとなると厄介な問題となる。

方言として正しい発音を堅持している人々(本来、外国語ー中国語とともにやってきた文字ー漢字の「音」を、何時までも「正しく」発音し続けた人々)にとっては、「発音通り」の表記であるわけで、むしろ「歴史的仮名遣い」の方が無理が無い訳だが、それ以外の地方の人々(つまりいつの間にか、その漢字の本来の「音」を離れてしまった人々)には知識として知って置く必要が出てきた。
たとえば判り易く、英語の場合などで考えてみると「VIOLIN」と書いて「ヴァイオリン」と読み続けるか、「バイオリン」さらには「バヨリン」と読んでしまうかの違いと言っても良いだろう。
敢えて言えば「バヨリン」こそが「新仮名」派という訳だ。

原則第一類、第三項。
「旧かなづかひ」の「ぢ」、「づ」は今後「じ」、「ず」と書く。ただし(イ)二語の連合によって生じた「ぢ」、「づ」。(ロ)同音の連呼によって生じた「ぢ」、「づ」はもとのままとする。
例示されたのもは、
「藤」は「ふぢ」→「ふじ」。
「恥ぢる」は「はぢる」→「はじる」
「痔」は「ぢ」→「じ」
「地震」は「ぢしん」→「じしん」
「女性」は「ぢよせい」→「じょせい」
「水」は「みづ」→「みず」

いよいよ所謂「四つ仮名」の問題だ。簡単に言ってしまえば、「ぢ」と「じ」、「づ」と「ず」は現在多くの人々が「同じ発音」をしているのだから、「じ」・「ず」だけで賄ってしまえ、という発想による。 (つづく)

花鳥諷詠心得帖12 二、ことばの約束 -4- 「仮名遣いの話(万葉仮名)」

前回の末尾近く、「旧かな」で「ワ行」で書きながら「ア行」で発音していた語について、発音通り「ア行」で表記するのが「新かな」であると紹介した。この辺をもう少し詳しく書いておこう。

例えば奈良時代の「実際の発音」というモノは現在残っていない。しかし奈良時代の言葉を「仮名文字(所謂万葉仮名、即ち漢字を表音的に借用したもの)」で書き表した文献(例えば「万葉集」)を具に調査すると「仮名文字」の使われ方に一定の「偏り」が観られ、それが当時の発音の実体に則っているのであろうことは想像できる。このことに気付いて奈良から平安初期の仮名遣いを解明したのが、元禄時代の学僧釈契沖である。

契沖は「万葉集」の研究をする中から、日本語の様々の語彙について、その正しい(あくまでも上代における)仮名遣いを究明した。それまでは、例えば和歌関係では「定家仮名遣い」なる仮名遣いが幅を利かせていたし、他にも発音の変化に伴って、表記まで揺れていた言葉が沢山あったのだ。この契沖によって「再現」された「仮名遣い」が「契沖仮名遣い」と呼ばれるもので、明治時代になって「歴史的仮名遣い」の名で学校教育に用いられて、「権威」を得たのだった。

そう言う意味では「旧かな」の確立と普及はそんなに古い出来事ではなかったのだ。
さて「ワ行」の言葉。
これらは大昔は「ワ行」独特の発音で言い表され、当然「ワ行」の文字で書かれていた。ところが中世に入ると、その発音はどんどん衰退し、「わ」の一音を残して(「わ」だけは現在でも「私」「渡る」のように、その命脈を保っている)、あとの「ゐ」「う」「ゑ」「を」はア行音で発音されるようになってしまった(「う」については、もっと早くからア行の「う」と区別がつかなかったらしい)。

次に掲げる言葉は本来ワ行だった音で、現在、ア行の音で発音されているものだ。

藍(あゐ)、居る(ゐる)、声(こゑ)、植える(うゑる)、十(とを)、 青い(あをい)、水道(すゐだう)、公園(こうゑん)、温度(をんど)

つまり我々は、これらの言葉については自分の発音に頼らず「綴り方」の「知識」によって書くことになる。こう言うと一見不合理のようだが、約束として成立したものを習慣的に使用するのが「正書法」であってみれば驚くには当たらない。しかも「漢字」で書いてしまえば問題はどこにも無い。従って水道・公園・温度など「字音仮名遣い」で苦しむ実際場面は訪れないのだ。


現代仮名遣いの原則は「一字一音」「一音一字」ということだが、助詞の「を」についてだけは「もとのまま」と不思議な妥協をしている。 (つづく)

花鳥諷詠心得帖11 二、ことばの約束 -3- 「仮名遣いの話(正書法)」

 



所謂「俳句指導者」達の間で交わされる「文語」・「口語」に関する話題は
「仮名遣い」のことである場合が多い。
「仮名遣い」とは正に読んで字の如く、「仮名」の「遣い方」。
どこの言葉にも、それらを文字化する場合のお約束、「正書法」(ORTHOGRAPHIE ) がある。

分かり易く英語を例にとれば、「ワン」という発音で表される言葉には名詞の「一」の意味と、
動詞の「勝った」の意味がある。
そこで「お約束」として「ONE」と綴れば「一」の謂い、「WON」と綴れば「勝った」の意味にしている。
その間に合理的な必然性はなく、昔からみんなで「そうしている」のが最大の理由である。
つまり正書法とはそうしたもので、永年の習慣を守るところに意味がある。

ところで現在の日本語では所謂「新かな」が正書法にあたる。
昭和二十一年の内閣告示「現代かなづかい」だ。
「現代かなづかい」はその「まえがき」にこう言う。
一、このかなづかいは、大体、現代語音にものづいて、
現代語をかなで書きあらわす場合の準則を示したものである。
一、このかなづかいは、主として現代文のうち口語体のものに適用する。
一、原文のかなづかいによる必要のあるもの、
またはこれを変更しがたいものは除く。
内閣告示とはそうしたものなのかもしれないが、どこといって問題点のない、
寛容な取り決めの如く見える「まえがき」である。

「現代語」を仮名で書き表す場合の基準であって、漢字で書く時や、文語体は何の制約も受けないわけだ。
しかもご丁寧に「変更しがたいものは除く」と書いてある。ところがご承知のように、
他方の「当用漢字」の制限と相俟って戦後国語政策に重大な禍根を残すこととなる。

そんな難しい話は置いておいて、「現代かなづかい」をおさらいしながら、一方の「歴史的仮名遣ひ」を点検していってみよう。
「現代かなづかい」原則第一類。
「旧かなづかい」の「ゐ」、「ゑ」、「を」は今後「い」、「え」、「お」と書く。
ただし助詞「を」はもとのままとする。

「現代かなづかい」を貫く最大の趣旨は「一字一音」、「一音一字」である。この第一類では、
本来「ワ行音」として独立していた「音韻」(従ってワ行の文字で書き表していた)が
歴史の流れの中で「ア行音」に吸収され、同じ「音」になっているのに「ワ行の文字」と「ア行の文字」で
書き分けられている状態の解消が目的となっている。
具体例は次回に。 (つづく)

花鳥諷詠心得帖10 二、ことばの約束 -2- 「何故文語なのか」

およそ言語体系というものを考える時、その構成要素として「語彙」・「文法」・「音声」という三つが考えられるだろう。つまりどんな言葉・単語があるのか。そしてそれらはどんなルールで並べられるのか。さらにどんな「音」で発せられ、どんな抑揚で続くのか、だ。

簡単な例で日本語と英語とを比べてみるなら、片方で「猫」と言い、一方で「CAT」と言う。
それらの「語彙」の違い。また語順の違いや活用語における活用概念の違いに見える「文法」の違い。英語における「v」、「TH」を実際に発音する際の「音声」の違い。言語体系が違うという事は、これら三つの要素に違いがあるというこのなのだ。

同じ日本語の中でも「方言」によって、この三要素に違いが見える。関東方言で「ありがとう」と言い関西方言で「おおきに」と言うのは「語彙」。関東方言は「買ってきて」と促音便となるところが関西方言では「買うてきて」とウ音便で処理するのは「文法」。関東で「絵」は「エ」だが関西では「エエ」となり、多くの言葉のアクセントが異なるのは「音声」の問題と言える。

「文語」と「口語」にもこうした異なりはある。「文語」表現で大いに活躍した単語が、現代の口語からすっかり姿を隠してしまっていたり、「なり」「たり」「べし」「けむ」などの有能な助動詞が口語では顧みられなくなってしまっていたり。「音声」はなかなか再現出来ないものの、日本語の「ハ行音」の変化などは証明される範囲で考えても興味深いものがある。

最後に触れた「音声」については最早消滅してしまっていて、どうにもならないが「語彙」と「文法」に関しては大いに「文語」に頼ることで俳句表現は豊かになる。前回触れたように「文語」と「口語」の関係は別に独立排他的に、「相容れない」存在ではないのだから、ケースによって使い分けていっこうに差し支えないのだろう。

次ぎに紹介する作品群を筆者は「俳句」として推奨することは、決してしないが、「口語」の効果という点では大いに参考になると考えている。

憲兵の前で滑って転んぢゃった 渡辺白泉
繃帯を巻かれ巨大な兵となる 々

「口語」を詩作品に取り込んだことによる、不安定感あるいは「あやふやさ」といったものが、
作者の心理状態を見事に表現し得たことは事実だ。
憲兵の前に滑りて転びたり
では権力への上目使いの卑屈な抵抗感は現れてこない。「口語」にはこうした不安定さの外にも平易さ・卑俗さがある。

虚子の作品について考えて見よう。当然ながら、おおよその虚子句は「文語」(表現力がゆたかである以上、当たり前だが)で詠まれている。例えば、

木曽川の今こそ光れ渡り鳥 虚子

など、「こそ」プラス「已然形」による「係り結び」の強調表現の効果を最大限に利用した好句で、「口語」ではここまで格調高い表現は期待出来ず、従ってこの大景は詠み得なかっただろう。

しかし例外的に、

地球一萬余回転冬日にこにこ    虚子
朝顔にえーツ屑屋でございかな 々

といった「口語」作品もある。「地球一萬余回転」の方は五十嵐播水・八重子結婚三十周年祝句。三十年を一万余日に「換算」した点に大いにウィットがある訳だが、さらに「冬日にこにこ」に至って、肩肘張らない、親しみ易さに夫妻の飾らない結婚生活が活写されている。

一方「朝顔」の句は厳密な意味で「口語俳句」と言えるかどうか若干の疑問は残る。即ち「えーツ屑屋でござい」は間違いなく「口語」だが、その「世界」を「かな」で括って一句に仕立ててある。言わば口語の景色を文語の額縁に嵌め込んだような趣があるのだ。

其処に一句が卑俗にならずに、どこかに上品な軽さを保っている秘密があるかも知れない。
「地球一萬余回転」には贈答句という言い訳が用意されているが、「朝顔」にはそれが無かったためかも知れない。

次回は「仮名遣ひ」のお話。(つづく)