花鳥諷詠心得帖10 二、ことばの約束 -2- 「何故文語なのか」

およそ言語体系というものを考える時、その構成要素として「語彙」・「文法」・「音声」という三つが考えられるだろう。つまりどんな言葉・単語があるのか。そしてそれらはどんなルールで並べられるのか。さらにどんな「音」で発せられ、どんな抑揚で続くのか、だ。

簡単な例で日本語と英語とを比べてみるなら、片方で「猫」と言い、一方で「CAT」と言う。
それらの「語彙」の違い。また語順の違いや活用語における活用概念の違いに見える「文法」の違い。英語における「v」、「TH」を実際に発音する際の「音声」の違い。言語体系が違うという事は、これら三つの要素に違いがあるというこのなのだ。

同じ日本語の中でも「方言」によって、この三要素に違いが見える。関東方言で「ありがとう」と言い関西方言で「おおきに」と言うのは「語彙」。関東方言は「買ってきて」と促音便となるところが関西方言では「買うてきて」とウ音便で処理するのは「文法」。関東で「絵」は「エ」だが関西では「エエ」となり、多くの言葉のアクセントが異なるのは「音声」の問題と言える。

「文語」と「口語」にもこうした異なりはある。「文語」表現で大いに活躍した単語が、現代の口語からすっかり姿を隠してしまっていたり、「なり」「たり」「べし」「けむ」などの有能な助動詞が口語では顧みられなくなってしまっていたり。「音声」はなかなか再現出来ないものの、日本語の「ハ行音」の変化などは証明される範囲で考えても興味深いものがある。

最後に触れた「音声」については最早消滅してしまっていて、どうにもならないが「語彙」と「文法」に関しては大いに「文語」に頼ることで俳句表現は豊かになる。前回触れたように「文語」と「口語」の関係は別に独立排他的に、「相容れない」存在ではないのだから、ケースによって使い分けていっこうに差し支えないのだろう。

次ぎに紹介する作品群を筆者は「俳句」として推奨することは、決してしないが、「口語」の効果という点では大いに参考になると考えている。

憲兵の前で滑って転んぢゃった 渡辺白泉
繃帯を巻かれ巨大な兵となる 々

「口語」を詩作品に取り込んだことによる、不安定感あるいは「あやふやさ」といったものが、
作者の心理状態を見事に表現し得たことは事実だ。
憲兵の前に滑りて転びたり
では権力への上目使いの卑屈な抵抗感は現れてこない。「口語」にはこうした不安定さの外にも平易さ・卑俗さがある。

虚子の作品について考えて見よう。当然ながら、おおよその虚子句は「文語」(表現力がゆたかである以上、当たり前だが)で詠まれている。例えば、

木曽川の今こそ光れ渡り鳥 虚子

など、「こそ」プラス「已然形」による「係り結び」の強調表現の効果を最大限に利用した好句で、「口語」ではここまで格調高い表現は期待出来ず、従ってこの大景は詠み得なかっただろう。

しかし例外的に、

地球一萬余回転冬日にこにこ    虚子
朝顔にえーツ屑屋でございかな 々

といった「口語」作品もある。「地球一萬余回転」の方は五十嵐播水・八重子結婚三十周年祝句。三十年を一万余日に「換算」した点に大いにウィットがある訳だが、さらに「冬日にこにこ」に至って、肩肘張らない、親しみ易さに夫妻の飾らない結婚生活が活写されている。

一方「朝顔」の句は厳密な意味で「口語俳句」と言えるかどうか若干の疑問は残る。即ち「えーツ屑屋でござい」は間違いなく「口語」だが、その「世界」を「かな」で括って一句に仕立ててある。言わば口語の景色を文語の額縁に嵌め込んだような趣があるのだ。

其処に一句が卑俗にならずに、どこかに上品な軽さを保っている秘密があるかも知れない。
「地球一萬余回転」には贈答句という言い訳が用意されているが、「朝顔」にはそれが無かったためかも知れない。

次回は「仮名遣ひ」のお話。(つづく)