季題は「寒気」で冬。寒気は、皮膚と言った五感で感じるものであり、実体はない。作者は、実体が無いものを「生きてゐるごとく」に感じたという。目には見えないが確かに存在する、そこに逆説的に「生」を感じたのだろう。
更に「這ひ来る」という描写も擬人化された寒気が、足下や首筋にやってくる様子にぴったりだ。首筋当たりに寒気が来ると、確かに後ろからこっそりと近づいてきた誰かの冷たい手に触られたような感じがするものだ。
季題は「寒気」で冬。寒気は、皮膚と言った五感で感じるものであり、実体はない。作者は、実体が無いものを「生きてゐるごとく」に感じたという。目には見えないが確かに存在する、そこに逆説的に「生」を感じたのだろう。
更に「這ひ来る」という描写も擬人化された寒気が、足下や首筋にやってくる様子にぴったりだ。首筋当たりに寒気が来ると、確かに後ろからこっそりと近づいてきた誰かの冷たい手に触られたような感じがするものだ。
季題は、「門松」で新年。正月の景色であろう、普段は荒々しい男達が働いている漁協がしんと静まりかえっている。その静寂の中、門松だけが立っている。門松には、今年も大量であること、何よりも漁が守られるようにといった祈りが込められていよう。誠に静で目出度い景色である。
余談であるが、この句は、昨年末の福岡100句祭の際、「門松」の題詠の際に、出された句。門松と言えば、家屋の門前の物ばかりを想像しがちであるが、門松から漁協への転回が面白い。
暖かさに比例して、ビールの量が増加している泰三です。いかがお過ごしでしょうか。
季題は、餅つきで冬。正月用の餅を準備することである。一昔前は、庭先で一族や近所の人たちが集まって搗いたものだ。私の田舎では公民館の庭などで、子供会餅つきと称して大人達が張り切って餅を搗いていた。威勢の良いかけ声と共に搗かれ、搗き上がるとかけ声が止むと共にどすどすという餅が搗かれる音は止んだものだった。
この句は、機械音が止まって餅が搗き上がったと言う。炊飯ジャーの様な餅つき器の事であろう。見た目はコンパクトなのだが、やってることは餅つきなので、機械音に混じって存外大きな「どすんどすん」という音がする。その音が止んでブザーがなってできあがり。今時の餅つきの様子である。
「夢だけど。夢じゃなかった。」というのは、となりのトトロの中に出てくる台詞である。句集『商船旗』には、「当たり前だけど、当たり前じゃなかった」事柄が溢れている。しかも、それらの当たり前じゃなかったことが、あたかも当たり前であったかのように描かれている。
句集を一読して、体言で終わる句が目につく。体言で終わる際には、上語を「や」で切って形を整えたくなるものだが、作者はそれを避ける。淡々と移り変わる世界を、淡々と描写する。それはきっと、薮柑子さんの生き方そのものなのだろう。
日当たつてゐて秋の蠅動かざる
季題は秋の蠅、蠅だけだと夏の季題である。夏の蠅はぶんぶんとうるさいが、秋の蠅は何とも切ない。窓辺であろうか、秋の陽射しを浴びながら飛び立とうともしない。残り少ない命を作者は冷静な目で見ている。静かな写生に徹する事によって、逆にあわれを感じさせる句である。
同じ道帰つてきたる日永かな
何と同じ道なのだろうか。私は「行った道」と同じ道と鑑賞した。それは、この句が「日永」の句だからだ。帰る時間まで残っている陽射しが、「朝と同じ道」だという感覚を強く持たせた。同じ道を行き、同じ道を帰る。通勤とはそんなものなのだが、日永が故に、そこに感動を覚えた。
水仙の葉の色茎の色同じ
季題は水仙で冬。香の強い純白の花である。しかし、この句の主役は花ではない。葉と茎である。葉と茎の色が同じであるという当たり前の事実が言われているだけである。何でもない事柄なのだが、確かな写生が水仙の姿を読者に浮かび上がらせる。
冬瓜の逃げも隠れもせぬ畑
季題は冬瓜。堂々とした体躯が、畑にごろごろと転がっている。その姿を「逃げも隠れもせぬ」と写生した。
この句の背後に
先生が瓜盗人でおはせしか 虚子
を感じる。
冬瓜は盗もうにも重すぎて盗めない。「盗めるものなら、盗んでみろ。言っておくが、俺は重いぞ」なんていう冬瓜の台詞が聞こえそうだ。
アスパラのレシピを壁に留めながら
季題は、アスパラガスで春もしくは夏。歳時記によって扱いが異なっている。また、昔の日本人は食べなかったのだろう。古い歳時記には載っていない。
そんなアスパラガスであるが、自分で思いつく食べ方なんてバターでさっと炒める、もしくはベーコンで巻き付けて焼き鳥と共に焼くといったぐらいだ。
しかし、違う食べ方はないだろうか雑誌をめくってみた。すると美味しそうな食べ方が見つかった。さっそく雑誌を切り抜き、壁にピンでとめながら、料理を始める。
この句が例えば、「松茸」のような高級食材の句だったらどうだろうか。気取りすぎて嫌みである。アスパラという身近な食材を使った日常の料理、いやわざわざレシピを切り抜いて料理しているので、休日の昼の料理といったところか。この一寸だけ特別な感じが私は大好きである。
『商船旗』抄 泰三選
浮島に薄日があたり秋の池
炎熱の街が斜めになる離陸
蜥蜴鳴く眠りに落ちてゆく時間
日当たつてゐて秋の蠅動かざる
森の底から凍星の見えてをる
同じ道帰つてきたる日永かな
雛納むいつまで同じ新聞紙
船虫の数をたのみに逃ぐるかな
滝水の落ちれば風の生まれけり
水仙の葉の色茎の色同じ
ロバいつも大儀さうなり街の春
冬瓜の逃げも隠れもせぬ畑
まどろみのあいだもずつと秋涼し
アスパラのレシピを壁に留めながら
夜濯のやうに次々皿洗ふ
久しぶりに汐まねきを更新します泰三です。新年度は本当に忙しいですね。こき使われる毎日です。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
季題は、木枯。冬の初めに吹く強い北風である。木枯が吹いてきたその頃、喪の葉書が届いたという。虚子の句に「風が吹く仏来給ふ気配あり」という句があるが、私たちは、「風」の中に「霊」を感じるものである。余談であるが、新約聖書が書かれたギリシャ語「プネウマ」、旧約聖書が書かれたヘブライ語でも、霊を表す「ルーアッハ」という語は、いずれも本来「風」「息」という意味を持つ。
この句では、もろん作者のもとに届いたのは、一枚の葉書である。しかし、作者は、木枯の中にあたかも最後の挨拶に来てくれたように、亡くなられた方を感じたのではなかろうか。