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永き日の動く歩道に運ばるる    天明さえ

 季題は「永き日」、「日永」の傍題である。「動く歩道」はエスカレーターとは違って水平面の移動のために設置。なかには微妙に傾斜のついているものもある。

 そう言えば、エスカレーター。各段の、向かって左側の人は乗っているだけ、右側は歩いて昇る人のために空けてあったが(これが、面白いことに関西では逆だった)、近年では駅などの放送で、「歩くな」というものだから、「歩く人」は減少、結果として、無駄なことになっている。それではというので「放送」を無視して歩くと、妙な罪悪感に包まれる。便利な道具が、人間的に「しっくり」するまでには、なかなか時間がかかるらしい。

 ところで掲出句、そんな情況を「永き日」という季題の中で捉えて巧みな一句となった。正確に言えば、「永き日」という季題から、その気分に「ぴったり」の体験を回想したら、「動く歩道」であった、というのである。エスカレーターより、さらに「歩きたくなる」代物。ほとんどの人は「歩く」。そこを「歩かずに」、「運ばれる」のは、「日永」の気分が全身に充満しているからである。「運ばるる」の受動的な表現が手柄である。(本井 英)

ただいまと人戻り来る花筵     青木百舌鳥

 季題は「花筵」。お花見をするための「筵」である。気に入った桜木の下に敷き延べて、飲んだり食ったり、「花の宴」を繰り広げる。夜桜見物のために昼間から場所取りをしている「花筵」もある。

 掲出句の「花筵」は昼間であろう。二家族くらいで、満開の桜の下に敷いた「花筵」。早速、花見弁当を広げて、ひとしきり過ごしてからは、銘々自由。ごろんと横になるもの、そこらの「花」を見に行くもの、河のほとりまで行ってみるもの。そして外を見て回った子供達が「筵」に戻っての科白が「ただいま」であったのだ。ほんの一、二時間過ごした「花筵」を、まるで我が家のように思う感じ方、が楽しい。「筵」を引き払ってしまえば、ただの公園かなにかの、他人の土地であっても、「花筵」を敷いている間は、「我が家」なのである。家族・仲間の有り難さの中で暮らしている、我々の姿が見えた気がした。(本井 英)

雑詠(2016年6月号)

留蓋にまつはり落つる雪解水			田中 香
樅の枝のはさり〳〵と雪を脱ぐ
踝の吹きつさらしや麦を踏む
下萌に寝かせて開く旅鞄
香水や空のエレベーター開き		梅岡礼子
土筆摘みつつ二言目考へる		酒泉ひろし
満天星の芽のとんがりに指を当て	児玉和子
忠敬の旅立ちの町春めける		飯田美恵子					

留蓋にまつはり落つる雪解水    田中 香

 季題は「雪解水」。「雪解」の傍題である。「雪解川」に注ぐ前のさまざまな形、状態が「雪解水」にはある。「留蓋」は「留蓋瓦」の略。神社仏閣などの屋根の四隅にあって、雨水がしみ込むのを防ぐ瓦。多くの場合獅子などの装飾がされている。その「留蓋」に纏わるように流れる「雪解水」は屋根に残っている雪が解けたものに違いない。

 ここまで理解できたら、あとは読者の自由。読者の記憶の中にあるお堂の大甍などを思い出して、その下半分くらいには未だ雪が積もっていて、今日の春めいた日差しに一気にとけた「雪解水」が勢いよく瓦を滑り下って、「留蓋」の辺りで、少し纏わるように流れて、鎖樋を伝って天水桶に注ぐ。そんな一連の動きは、日本に何十年か住んで、俳句を数年作れば、誰にでも容易に「目に浮かぶ」。(本井 英)