永き日の動く歩道に運ばるる    天明さえ

 季題は「永き日」、「日永」の傍題である。「動く歩道」はエスカレーターとは違って水平面の移動のために設置。なかには微妙に傾斜のついているものもある。

 そう言えば、エスカレーター。各段の、向かって左側の人は乗っているだけ、右側は歩いて昇る人のために空けてあったが(これが、面白いことに関西では逆だった)、近年では駅などの放送で、「歩くな」というものだから、「歩く人」は減少、結果として、無駄なことになっている。それではというので「放送」を無視して歩くと、妙な罪悪感に包まれる。便利な道具が、人間的に「しっくり」するまでには、なかなか時間がかかるらしい。

 ところで掲出句、そんな情況を「永き日」という季題の中で捉えて巧みな一句となった。正確に言えば、「永き日」という季題から、その気分に「ぴったり」の体験を回想したら、「動く歩道」であった、というのである。エスカレーターより、さらに「歩きたくなる」代物。ほとんどの人は「歩く」。そこを「歩かずに」、「運ばれる」のは、「日永」の気分が全身に充満しているからである。「運ばるる」の受動的な表現が手柄である。(本井 英)

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