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主宰近詠(2020年12月号)

阿鼻叫喚を       本井 英

海紅豆阿鼻叫喚を吾知らず

蟬声のカタカタ・カタと止まりけり

葛の花高きはさらに風ゆたか

芋虫は嘶くやうに身を反らし

芋虫の疣足もんぺばきにして



たぐり寄すれば菱の実もこぞり来る

峰近み水仕の水も澄みわたり

箸茶碗漬けつぱなしに水澄める

作庭とて愉しからんや水の秋

新しき庭の明るさ白式部



佳き風に小つぶ小つぶや新松子

衛兵のやうにゐならび蘇鉄咲く

灸花莟ながらに幾つづれ

松手入済みしばかりを風通ふ

浜へ出る小さきトンネル昼の虫



分岐して茎たくましや滑莧

ひるがへるちぬと目が遭ひ河澄める

浮かび出て鯉の口の輪秋の水

雨ながら水の秋なるお庭かな

榠樝の実小さくこまつしやくれたる

課題句(2020年11月号)

課題句「石蕗の花」         山口禎子選

石蕗の花静かなれども華やげる		草野 鞠
帰り着く心地や門の石蕗の花

石蕗日和海辺の暮しにも慣れて		町田 良
石蕗咲ける無人の家に到着す		礒貝三枝子
石蕗の花此処は海抜二メートル		塩川孝治
三渓原富太郎つはぶきの花		本井 英

語りたき人の少なし端居して   岩本桂子

 季題は「端居」。夏の季題である。俳句を始めたばかりの頃、この「端居」という季題に出会って、腰が抜けるほどビックリした。そんな「何でもない」ような振る舞いや、状態が季節を表すなんて、思いもしなかったことだから。

 ともかく「端居」という季題には「ある気分」というものがある。この句もよく読むと、しみじみとした淋しさの中で一人、記憶の中の人々と語り合っている。すでにこの世にいない人々との話は尽きないのだが、今、この世に生きている人の中に「語りたき人」は洵に少ないのである。そこには自らの「老」を詠まれながらも毅然とした姿が見えてくる。私は、ふと「百人一首」の「誰をかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」(藤原興風)を思い出した。興風の和歌は「あの高砂の松だって、俺に取っちゃあ、昔からのダチという訳でもねえんだよ」と大袈裟に面白がっているが、共に語る相手の少なくなった「寂寥感」はいかほどのものであろうか。しかしこの作者にとっては、それを「俳句」に詠まれたことで一種のカタルシスを得られたとも言えようか。(本井 英)

雑詠(2020年11月号)

語りたき人の少なし端居して		岩本桂子
夜光虫オールのしぶきとび散りて
句碑までの近道なりし草いきれ
空晴れて身ほとりの尚梅雨じめり

諍ひを避けきし髪を洗ひけり		前田なな
昧爽の夏川に手を浸しみる		町田 良
風鈴の路地を曲がればさらに路地	児玉和子
青芝に五本立てある譜面台		梅岡礼子

主宰近詠(2020年11月号)

湖の秋     本井英

仙人掌のやうに()てるも雲の峰

枝移るときの羽色油蟬

川蜻蛉かなもつれてはいこひては

なつかしの蚊帳吊草の茎の(カド) 

花茄子のたいらの花の下向きに



にがうりと呼びて黄色く熟れさせて

枝豆を畦に面白半分に

根の生えしごとく夏山揺るがざる

夏川の痩せて浅きやもくづがに

その(ヒト)の座したれば佳き緑蔭に



雪渓のひとかけこびりつく富岳

茶畑へ大水撒きをしてをりぬ

単線や臭木の丘にさしかかり

稲田道三方原をひた目ざし

サイクリングロードを歩く湖の秋



湖浪のたためる音と鉦叩と

素麺流しの割竹の乾きをり

立ち止まるたび秋風に抱かるる

一輛車あらは夏川渡るとき

半周を車窓に座しぬ湖の秋