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雑詠(2021年7月号)

暗渠より運河へ注ぐ水温む		塩川孝治
ぬぬぬぬつと春泥に脚とられけり
たつぷりの水と光をパンジーへ
梅散るや枝先ぴくと震はせて

母の息の止まるを待てる遅き日を		木山夕景
明日は去る町を歩みて卒業す		山内裕子
菜の花や漁港の先に弁財天		冨田いづみ
春浅しぷしゆんと閉まる桐箪笥 		渡邉美保

暗渠より運河へ注ぐ水温む   塩川孝治

 季題は「水温む」。春になって、川や池の水がおのずから温んでくる状態である。「暗渠」は、本来川の流れであった場所に蔽いを掛けるようにして出来た地下水道。その上は道になっている場合が多い。「運河」は陸地を掘って造った水路。ただし、東京湾のように沖へ沖へ埋め立てて行くと、その間に取り残された水面が、結果として「運河」となる場合もある。 

 作者はそんな都会の風景の真っ直中で、「運河」へ「暗渠」の水が流れ込んでいる現場を見かけた。その、いかにも大都会にありそうな景色の中で、作者は「その水」を「温む」と見たのである。「いわゆる自然」など、一欠片も無い景色の中にも「四季の運行」を感じているわけだ。

 さらに空想を逞しくすれば、今でこそ大都会の「殺風景」なコンクリづくめの景色となってしまったこの辺りも、三百年、四百年前には山奥から丘に沿って流れ下った「春の水」が、ゆたに湛える「海」に流れ込んでいた場所であったかもしれない。作者の脳裏に、その景が浮かんだかどうかは別にして、眼前の「水」を「温む」と見た瞬間に、作者の魂は数百年前の「何か」を感じとっていたに違いない。(本井 英)

主宰近詠(2021年7月)

指垂るる       本井 英

ハーフマイル・ビーチと呼ばれ桜貝

足裏に砂こそばゆき桜貝

散骨は切なる願ひ桜貝

桜貝フラを習つてみやうかしら

桜貝祖父祖母の待つ日影茶屋



虚子の忌の市ヶ谷あたり朝の風

採血の針ちくとあり惜春忌

うすべりを剝がせば板子桜蘂

垢離堂の格子ごしなる春の闇

惜春の丘辺に甘藷先生碑



胸突きの行人坂を風光る

おもむろに起きる細浮子沼ぬるむ

長閑けしや浮子の沈むをただ待ちて

風車小屋模してチューリップも楽し

青鷺の踵揚ぐれば指垂るる



前触れもなく仔猫ゐし帰宅かな

仔猫なほおぼつかなさの後ろ脚

妻をはや母と心得仔猫かな

谷せまくなれば鶯さらに近し

万華鏡なしてうかびて菱浮葉

課題句(2021年6月号)

課題句「えごの花」          近藤作子 選

えご真白明治の洋館車寄せ		津田祥子
一枝を日当る方へえごの花
考(チチ)の名の陶の表札えごの花	前田なな
えごの花ここに実習生として		前北かおる
えごの散るくるくるくると水面まで		児玉和子
えごの花雫もろとも落ちさうに		藤永貴之

キュルキュルと目白喜び臥龍梅   岡﨑裕子

 季題は「臥龍梅」で春。一句の主役は、「キュルキュル」と喜び啼く「目白」だが、「目白」だけでは秋の季題となる。ただし「目白」を「秋」と明確に規定しているのは『虚子編新歳時記』、『ホトトギス新新歳時記』くらいで、角川の『俳句大歳時記』等は近年、「目白」などの小禽類の多くを「夏季」としている。このことは本句の句評とは直接的な関係はないが、近世初頭の『毛吹草』以降、「季寄せ」類が踏襲してきた「小鳥」を秋とするか、近代の野鳥研究家および山本健吉氏による「見直し」を受け容れて「夏」と変更するかの問題となる。

 「目白」を一句の季題となし、秋の景として鑑賞することも不可能ではないが、前述した如く「キュルキュル」という楽しげな鳴き声からはやはり「春」を感じずにはいられない。

 一句の手柄は、横に長く連なり「臥龍梅」の名を得て咲き誇る「梅の木」に纏わりつきながら、「目白」が洩らす「キュルキュル」という鳴き声の、楽しげな様子の擬音表現が、いかにも楽しげでリアリティーの感じられるところであろう。(本井 英)