「初富士」 児玉和子選 雪けむり上げて初富士真白なり 梶原一美 初富士に凛と晴れたる空があり 初富士や荒川堤明けきつて 津田伊紀子 初富士の方へ向き替へ飛行船 北村武子 初富士を心に置きて厨ごと 町田良 初富士やぽちりとビルの谷間より 山内博
課題句(2014年1月号)
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「初富士」 児玉和子選 雪けむり上げて初富士真白なり 梶原一美 初富士に凛と晴れたる空があり 初富士や荒川堤明けきつて 津田伊紀子 初富士の方へ向き替へ飛行船 北村武子 初富士を心に置きて厨ごと 町田良 初富士やぽちりとビルの谷間より 山内博
季題は「花芒」、「芒」の傍題であるが、美称といってよいかもしれない。「旧火口」は「新火口」に対する言葉。つまり古い火山で、「新火口」は今でも、盛んに噴煙を上げたり、あるいは一木一草も許さぬ赤茶けた山肌を曝しているが、「旧火口」の方はすっかり落ち着いて、「芒」まで生えているというのである。そして「花芒」は、よく見ると「旧火口」の「底の底」までびっしりと敷き詰めたように生えている。作者は火口の縁の崖の上から覗き込んでいるのであろう。
まことに雄大な大景を詠んだ句で、自ずから秋晴の空や、やや強い秋風が想像される。 (本井 英)
旧火口底の底まで花芒 波多野美津子 警報の解かれて二百十日かな 新秋や肌になじめる化粧水 息災に齢を重ねて獺祭忌 卓袱台を五台つなげて洗鯉 梅岡礼子 枯れてなほ姿正しきうつぼ草 前田なな 秋冷の川曲(カワワ)に溜る山の砂 児玉和子 定宿の定連客の秋炉かな 町田 良
秋の深さを 本井 英
雨の日はおじぎをしない含羞草 秋水のせせらいでゐる干潟かな とびはぜを仕留めでけりな鴫の嘴 途中から猪垣に沿ふ下山道 猪垣の内と外との立ち話
白萩の白や濃淡なかりける たらひ舟とて乗り込めば水も澄み 豆柿や弟兄 もなく犇めきて 城跡や柄長まじりに山雀も 秋の波一枚づつを寄するかな
啄木鳥は幹の裏へといつたまま 荻分けて釣座へ小径ありにけり 高く飛ぶときも鶺鴒波描き 蘆の花池を巡るに四半時 祖師像にお綿着するも寺の秋
臨終の間の煌々とお命講 山梔子の色いたらねど稜六つ 閘門の照らされてゐる夜寒かな 夜寒の灯遠く一連 島泊り あひ会うて秋の深さを言はず歩す
食堂へブーゲンビレアの外廊下私の個人的好みなんですが、中七が八になるというと、気持ちが落ち着かなくなる。ホテルなんでしょう。しかもホテルがビルみたいなのでなくて、平屋建てがずーっと繋がって、キャビンみたいなのがずーっとあって、真ん中にプールがあって、食堂があって、フロントがあるというようなのを想像します。どこへ行くのにも外廊下になっていて、そんな所にブーゲンビリアが咲いている。という南の島の避暑地のようなものが、すぐ頭に浮かびましたが、それにしても「ブーゲンビレアの外廊下」ていう、「食堂へブーゲンビレア外廊下」の方が、まだいいかな。「の」が無くたって、通じるだろうという気はいたしました。
長谷寺の捩花の捩ぢ固かりし長谷寺であろうが、清水寺であろうが、いいようなもんだけど、長谷寺というと、観音様。清水ほど町の近くではない。もう少し先に行くと、女人高野と言われる室生山がある。ちょうどその中間の、観音様のお導きで人と人が出会う。玉鬘ですね。話としては。玉鬘との出会いというようなものを、どっかで遠く匂いとして感じると、「捩ぢ」が固いという、なかなか解決しない問題があって、その蟠り(わだかまり)みたいなものと、長谷寺に参詣するということとの気分がいいかなという気がいたしました。
ベランダのブーゲンビレア朝の風いいですね。席題でこういう句がぱっと出来れば、やっぱり力の作家だなと思いますね。どこも珍しいことをしようと言っているわけではないけれども、これでどこか南の国のホテルのベランダにブーゲンビレアがあった。なんていう感じがあって、もちろんご自分の家でもいいんですが、夏の風の気持ちよさが出ていると思いました。
プールまでブーゲンビレア遊歩道これ、さっきの句と同じで、最初『ブーゲンビレアの』と「の」があったんですが、これは「の」がないほうがいい。家族でプールのあるような避暑地に来て、子供達にせがまれて、「私も行くの?」「来てよー。」というのに、蹤いていって、「ブーゲンビレアがきれいだわ。」と思いながら歩く。ブーゲンビレアがあると、薄く光りを透す性質がありますから、明るい日陰がある感じがしますね。それにこの句はぴったりだと思いました。
一山に白きかたまり百合の花これもいいですね。眼前に一つの大きな山体があって、そこにぽつぽつと白いもの。あれは何なんだろうと、よーく見たら、あれは山百合なんだ。一時、皆百合を採ってしまったけれど、ここは採らずにあって、百合のかたまりがある。ということでよかろうと思います。
大西日水辺は人を歩まする元の句、「西日さす水辺は人を歩まする」。「大西日」という言い方が安直で、申し訳ないんですが、元の句で僕がどうしても気になったのは、「西日さす」の「さす」ということばに動詞が働くんですね。「さす」が働いてしまうから、「歩まする」が全然動きにならなくなる。だから「さす」にしないで、「大西日」と名詞で押さえておかないと、『歩まする』の気持ちが削げてしまう。もったいないと思う。
打水に迎へられたる嬉しさよ素直にこういう句が出来ると、立子先生みたいですね。立子先生って、こういう何でもいいことを、「嬉しさよ」というふうに言ってしまう。それでいて、形が見えてくる。なかなか気持ちのいい句だったと思います。