花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第32回 (平成17年7月8日 席題 川床・金魚)

先立っての一言

今日は全体的に理屈っぽい句が多かったですね。理屈っぽいというより、こう言わんとしてますから、誤解のなきように。というメッセージが入っている句がありました。それは、損ですね。俳句の時はね。句が自由に楽しめなくなる。メッセージ性はどうしても入ります。それを消す技術をお磨きになる必要があります。今日、ふるわなかった方は胸に手を当ててみると、「あ、なるほど。言わんとすることを、読者に誤解するなよと、ひと味付けてしまったな。」ということがあって、それを悉く採らぬ親切をさせていただきました。

下塗りのペンキ白々梅雨長し
下塗りのペンキですから、その後でまた上塗りをするようなことでしょう。具体的にどうということはわからないんですが…。その白々としたペンキをみるにつけ、「どうも今年の梅雨は長いなあ。」と思ってをるということですね。理屈を言ってしまえば、梅雨に入る時の風を「黒南風」、梅雨が終わる時の風を「白南風」。「はえ」は南風。漁師ことばです。沖縄に行くと、南風のことを、「ぱえのかじ」。沖縄と共通していることばというのは、すごく古いことばだということがわかります。本土方言と琉球方言は日本の二大方言。琉球方言に残っているというのは、古い。白と黒の対比が梅雨にあるということを、どこかで印象にあると、「梅雨長し」に「ペンキ白々」というのは、なるほど、そんな気分があるなあと。理屈ではなく、気分。
とりあへずサラダボウルに金魚入れ
これ、いい句ですね。そのままお作りになったんでしょうけれど、この句の面白さは、状況がよくわかりますね。自分で金魚を買おうと思って、出掛けていったら、こんなことにはならない。当然、金魚鉢も一緒に買うとか。偶然、誰か訪ねてきた人とか、家族の子供が、金魚買っちゃった。と言って、やってきて、そんな狭いビニール袋に入れていたら、かわいそうだから、ともかくこっちに入れてあげなさい。と言って、台所からサラダボウルを持ってきて、金魚を入れた。さ、鉢は後から考えよう。ということで、誰か思わず持って来た人 がいて、それに対応しているというのが、よくわかる。そこまで作者は言うつもりはなかったかもしれないけれど、これは先ほど、冒頭に言った、メッセージ性はないんだけれども、突然に金魚を持ってきた人がいるということが、わかりますね。面白いと思いますね。
涼しさや鶯張りを磨きあげ
鶯張りはあちこちにありますね。二条城は有名かもしれないけれど。たしか日光の東照宮にもありましたね。あるいは禅寺、大徳寺などにもありますね。もともとはお武家さんとか高貴な人に刺客が来ないように、鶯張りにしたというんだけれど、お武家さんの刃傷沙汰の時代の建物を、何百年も磨きあげている。今はそんなことのない平和な時代なんだけれども、相変わらず磨きあげてあるという、時代の流れがよく見えてきて、面白いと思いました。
頬を寄せ合うて二つの実梅かな
頬を寄せ合っているような実梅が二つあったということなんだけれど、「頬を寄せ合うて実梅の二つかな」とした方が、まわりが見えていないで、そこだけ二つぱっと見える。「二つの実梅かな」とすると、説明くささが出てしまう。じゃ、三つなら、四つならどうするんだとなってしまう。「実梅」ってむずかしい季題で、「実梅」と「青梅」と同じように歳時記で、説明してしまったんだけれど、あれは書き換えないといけないと、最近は思っています。「実梅」はやや黄熟しかけた梅を、実梅とすべきだと、今年気がつきました。だから、この句もそういうふうに、解釈させてもらいたいと思います。
川風を足裏に受けて床涼み
いい句ですね。ストッキングを脱いでしまったのか、普段足の裏に風を当てないけれど、なるほど貴船辺りの川床に行って、ぶらっと足を垂らすと、足裏に風がきます。そんなくつろいだ感じがよく出ていると思いましたね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第31回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

まだ小さき鮎焼けてゆく雨の宵
元の句、「まだ小さき鮎焼かれをり」。なんか鮎が火炙りになってしまうようで、かわいそうで、『焼かれをり』は残酷ですね。もちろん、強火の遠火で、串にさして、炭火を囲むようにあるんだと思うんです。それでも、「焼かれをり」よりは、「焼けてゆく」とした方が、雨の宵の時間の長さが、ずーっと焼けている、だんだん香りが変わってくるというようなことが見えてくると思います。
白砂糖みるみる染まる苺煮る
元の句、「白砂糖みるみる染まり苺煮る」。「みるみる染まり」というのは、染まっている苺の自動詞的表現。「煮る」は他動詞。それだったら、「白砂糖みるみる染まり苺煮ゆ」なんですね。そっちは自動詞になる。でも「苺煮ゆ」は苺に思いが入り過ぎてしまっている。だとしたら、「白砂糖みるみる染まる苺煮る」としていった方が形にはなるし、脚韻が利くし、若干対句的なレトリックになってくるから、その方がすっきりするのではないかと思います。
紫陽花の雨に打たれて凛とゐて
「凛とゐて」がいいですね。「凛とあり」より若干擬人的に扱っているんだけれども、まだまだ花びらが若くって、色づき初めた紫陽花の佇まいというものが見えてくると思います。
妻の愚痴聞き流しつつ梅雨籠
そういうことなんですね。それ以上、コメントしても仕方ないですね。
葬列に離れ立つ女(ひと)虎が雨
  これ、たいへん人気があって、今日、抜けて、この句がよかったように思いますね。ひじょうに小説的で、葬列があって、みんな故人を悼んでいるんだけれど、一人女の人が立っていて、あの人は会葬者なんだろうか。誰なんだろうか。という人がいたというだけのことなんですけれども、虎が雨と言われてみると、それはどうも愛人だったようだ。企業戦士で、討ち死のように過労死した男がいて、会社の人や家族の人が、「あいつは仕事ばっかりしていたね。仕事の鬼だった。」と言いながら、「待てよ。仕事ばかりではなかったのかな。」「仕事で家に帰らない猛烈社員が、ある場所でつねに癒されていて、それで仕事ができたんだよ。」などというドラマ。虎が雨というものの、一つの物語で、この句は面白いかなと思って、感心した次第です。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第29回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

一呼吸又一呼吸蛍の火
重ね方がひじょうにうまいと思いましたね。弱い光で呼ぶように点滅するのは、雌蛍なんですね。それに対して、飛んで行く蛍は全部雄蛍。大体、夕方七時と、夜十一時と、朝方の三時頃、大体一晩に三回くらい、そういう場面、お見合いみたいな場面が見えてくると思います。
菖蒲田の狭まるは谷戸狭まりぬ
ちょっと変え過ぎたかもしれません。元の句では、意味がもたもたしてしまって、わからない。元の句、「菖蒲田の狭まり谷戸の迫りけり」。「谷戸の迫る」という言い方はしないんですね。谷戸というのは、低い所ですから。谷戸の両方の丘が迫ってくる。谷戸はどこまでも狭まる。だから菖蒲田が狭まったなと思った。ああ、それは菖蒲田が狭まったのでなくて、まわりの山がそこで狭まっているんだ。という一つの発見だと思いますね。
花葵小さきなりに屹立す
これ、面白いですね。小さい葵が真っ直ぐ立っている。それを屹立という若干強いことばで言ってもいい。屹立、そばだって見える。ということですね。
チョコレート色の小さき梅雨茸
うまいですね。秋の茸だと、食べられる茸、食べられない茸。さまざまあるけれども、梅雨茸というのは最初から食べない。食べる気もない。その中に、すごい色をしている。チョコレート色だわ。食欲もわかないような、それでも梅雨茸は梅雨茸で、自分の存在をきちっと形にしているということだろうと思いますね。
行儀よく頭並べてさくらんぼ
今日の苺でもそうなんですが、摘んでいるところ、あるいは農家で作業中の苺、さくらんぼ。店頭に売り出している時の苺、あるいはさくらんぼ。あるいは食卓で出た時。それぞれ皆風情が違います。この句は、巧みに言えていると思いますね。これは、箱にしっかり詰まって売られているさくらんぼ。食べる時には、それはばらされてしまうし、栽培農家ではこういう形は絶対見えない。あ、売られているなということがわかって、町の中でのさくらんぼということが よくわかると思います。
滝壺は群青にして硫黄の香
どういう所かわかりません。水質が若干、火山性の混ざり物があって、とくに青さが強烈であった。そうそう、そういえばここまで火口の硫黄の匂いがしてくるわ。ということで、『滝』という夏の季題が、大きく詠まれているな。「群青世界」という句も、昔、秋桜子にありましたが、あれとは違う。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第26回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

十薬の雨を待ってる線路際
これはいろんな言い方があって、「雨を待ってる」というのは、ちょっと口語的で、「十薬の雨待ってゐる」とか、どちらもそれなりの主張があるんですが、外の言い方もあるということを、一応心得ておいた方がいいかもしれません。いかにも十薬、どくだみですが、いわゆる雑草ですが、その十薬がしばらく雨が降らないので、すっかり錆びたような色になってしまっている。もともと、紫っぽい色が多いんですが、それが乾いたような色になっている、それを線路際に見かけたという句ですね。
次々と植田に雨の走り来る
いかにも梅雨を前にした、あるいは梅雨の初めの植田の様子がよく出ていると思いますね。青田と植田の違いは、青田は青青と苗が育っていますけれども、植田は植えたばかりですから、苗がひょろっとして、ものがよく映りますですね。植田の頃の夜の田舎の景色なんか見ると、水の中に全部家の灯火なんかが浮かんでいるように見えるのは、植田が全部映し出してしまうからなんですね。植田と青田の違いをこの句はよく知っていて、ぱーっと雨の駆け抜けた感じが青田ではなくて植田なので、なるほどなと思いました。
婚礼の舟しめやかに花菖蒲
婚礼はもっと賑々しくいくもんだけど、お葬式はしめやかにやります。それをあえて婚礼が「しめやか」だというところに、潮来あたりのそういう舟に乗って、花嫁さんが静かに進んでるというようなことを言わんとしているのだと思います。一つの花菖蒲の景色として面白いと思いました。
弱りゆく子にすべもなき鴨の親
「鴨の子」と言ってもいい、「軽鳧の子」と言ってもいい。夏の季題です。それがどういう理由かわからないんだけれども、育たない鴨の子がいて、それが徐々に弱っていくのに、すべもないという句です。厳密にいうと、僕の記憶では、たとえば鴨の子が六羽くらいいると、大きいのは巣立ってしまって、一番小さい子は、皆からいじめられて、親からもいじめられてしまう。だから、「すべもなき」というのは、人間的に見た、きれいな言い方で、実際に動物の世界では一番育たない子は親にもいじめられるというのが、本当の姿かなと思います。ただ、科学のレポートではありませんから、人間の気持ちとしては、「すべもなき」という人間の親心に照らし合わせることは、文学としてはいいんだと思います。ただ、現実はもっともっと残酷なものだということを、僕は見た覚えがあります。
合羽着て梅雨ニモ負ケズ小犬行く
まあ、この句を採るか採らないかで、悩ましいところでした。もちろん「梅雨ニモ負ケズ」の「ニモ」と「ケズ」を片仮名で書いてありますから、宮沢賢治を百二十パーセント意識して、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のパロディーとして、そんな贅沢な子犬が合羽を着て、歩いている。というのを、皮肉に詠んでいるんですけれど、あんまり皮肉の要素が強くなっていってしまうと、花鳥諷詠でなくなってしまう。つまり、この句の場合、「梅雨」がどこまで生きているかというと、あやしいですね。皮肉とか、作者の主張が、こんなふうに読んでねというメッセージ性が強いと、その分だけ季題の働きがわるくなる。不思議なもんですね。季題だけ詠んでいこうとすると、季題がどんどん生きてきますが、今日、お採りしなかった句の多くは、それですね。作者がこう読んでという付帯条件というか、付帯意見を付けてしまっているんですね。読む方は、こう読めと言われると、違うふうにだって読めるじゃないかとなってしまう。どこまでも季題諷詠でいこうとすると、もっともっとメッセージ性が弱い方が、季題の風情が生きるんです。そこが花鳥諷詠の微妙なところです。この場合、片仮名で書いたところに、作者の意図が露わ過ぎて、採れない。採れないけれど、ぎりぎりかというところで、これ以上、作者の季題でない部分のメッセージが強いと、それは採れません。秋雨でもいいし、雷でもかまわない。それを言っておきたいと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第20回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

五月晴よく続きたりクラス会
この句の季題は『五月晴』で、鑑賞するときは、今から二月後くらいの気候を鑑賞します。「五月晴」はさつきの晴れ間。さつきというのは、さみだれの月。「さ」は神様のこと。「さつき」は神様の来る月。『早苗』は神様が祝福した苗。「早乙女」は神様に仕える乙女。「さのぼり」は神様が山に上って帰ること。ですから「五月晴」は梅雨の頃の晴れ間。そうやってみると、この句、梅雨の頃にクラス会が設定されていた。たまたまいい日があった。クラス会、明後日だわ。続かないでしょう。と思ったら、三日間続いた。今日のクラス会、とうとう降らなかった。何十年ぶりに会う、そう若くはないご婦人のクラス会という感じがします。着ていくものは、「これでは派手かしら?」などと、いろいろ楽しめて、いい句だと思います。
防風林海に傾く鰆東風
魚偏に春と書いて、「さわら」と言いますが、かますとかバラクーダに近い、割合に獰猛な魚なんですが、斑の入り様が、なだれ模様がいかにも鰆、春の感じですが、そんなに浅いところで獲れる魚ではないんです。そんな大きな海の景色の一角に、防風林が、まあ、防砂林みたいなんでしょうね。なだれているんですから、平らではなくて、急に海に落ち込む防風林で、急に傾いている。そこに強い風が吹いてくる。こんな日は沖から鰆が吹き寄せられてくるんだよなんて、漁師さんが言っているとそんなところだろうと思います。
新しき色おびただし落椿
落椿はほっておくと、どんどん腐ってきて、錆びた色になって、けっこう見苦しい感じがします。ところが、小石川の後楽園とか手入れのいい庭園ですと、まわりに落椿は一つもないです。それでも、一日のうちでも、夕方に来ると、おびただしく落椿が累々とある。そんな特殊な手入れのいい庭園でも、累々とした落椿という感じを私は思いました。
昃りて桜紫めけるかな
元の句、「翳りて」。この字はやっぱり、「かげりて」と読むんだと思いますね。昃は「ひかげる」という字ですね。「昃れば春水のこころ後もどり」(字遣い未確認)という立子先生の句もこの字です。日が翳ってみたら、さっきまでぱんと桜色だった桜が、急にしゅーんと紫色に哀色を帯びた。その瞬間を捉えた句で、なかなか句に馴れた人の句だなあと思って、楽しく拝見した次第です。

採らぬ親切を発揮してしまった人もいましたが、桜の真っ最中で、いい写生句もたくさんあったと思います。