『誕生日』を読んで 矢沢六平
らふそくも苺も一つ誕生日
僕が勝手に名付けたものに、「秒殺句」というのがある。
全盛期のエメリヤ・エンコ・ヒョードルもかくやと思わせる破壊力を持っていて、清記用紙にズラリと並んだ俳句群の中から、有無を言わせぬ輝きをもって目に飛び込くる。僕はファイティングポーズをとる間もなく「瞬殺」されてタップしてしまう。そんな俳句のことだ。
最近の経験では、渋谷の深夜句会で、「酔へば泣きデザートも食べ年忘」(岸本尚毅)、というのがあった。僕はこういう句に会うと、興奮してしまい、家の中をせかせか歩き回ったりする。
麻里子さんのこの句に出会ったのは、夏潮の雑詠欄だったでしょうか。
今回、句集を開いた途端に再びこの句が飛び込んできて、僕はまたまた大興奮。ひとしきり家中を歩き回りました。
その興奮さめやらぬまま、これより読み進めてまいりますので、もしかしたらトンチンカンなことを言うかもしれませんが、どうぞご海容ください。
姫女エン(草冠に宛)たつぷり生けて野点かな
ヒメジオンと読めばよいですか? 野外のお茶なので、そこいらに生えている花を活け、それが清々しくも可憐なんですね。
ベビーカー若葉のカフェに集ひけり
平日のおだやかな昼下がり。僕ら男たちの知らない世界。
緑陰や鳩爺と栗鼠婆のゐて
何か典拠がありますか? はとジジとリスばばが出てくる童話とか…。緑の深さとよく合います。
他にも、「子育て句」は、素敵な句が多い印象です。
ベビーカーの横にしゃがみて蓮眺む
朝顔の種折り紙に包みけり
タキシードに運動靴や七五三
抱き上げし子ごとマフラーぐるり巻き
母が読みひとり子の取る歌留多かな
ベランダで吾子の散髪春の風
写生句でよいと思ったのはこれらです。
飛び魚や海に光の糸引いて
湯剥きして地肌露はのトマトかな
向日葵のシャワーヘッドのごとく垂る
鉄球のごとく石榴のぶら下がり
マンションのドアの数だけ年飾り
年飾り小さきものがよく売れて
池も地も満遍なしに花浴ぶる
冬の雨三百世帯静まりぬ
この句にもノックアウトされました。三百世帯、としたところが大手柄であります。
広々とした畑や雑木林の周辺に人家が点在する田園風景でもなく、家々が密集した下町でもなく、商店が立ち並ぶ町場でもない、三百世帯……。郊外の新開地が見えてきます。
まだニュータウンを形成するほどではないが、それでもすでに三百世帯からの人々が住み、これからいよいよ新しい町が生まれつつある。そんな碁盤の目に整った区画に、静かに冬の雨が降っている。ささやかにして幸せな未来が予感させられる光景です。
僕はこれを「新開地俳句」と名付けたいと思います。
僕も東京の西郊で育ちましたので、こうした句を詠んでみたいと、強く思いました。同じ味わいの、次の句も素敵でした。
新しき私の町に雪積もる
夏休み第一日は海へゆく
そうですね。まずいの一番に海に行きたいですね。湘南電車や内房線のツートンカラーが懐かしいです。
我の腕母より長し秋袷
僕は祖父の形見の秋袷に袖を通してみたことがあります。僕は男としては小さい方の部類に入りますが、それでも祖父の着物は袖が少し短かったです。
冬瓜をとろんと煮たり赤き鍋
イタリアあたりの高級調理機器なのか、ホームセンターで売っている量産品なのか。いずれにしろ、例の真鍮色の鍋でなく、赤い鍋で煮てあると、冬瓜の煮物も俄然旨そうに見え興味津々。スープなのかな。清潔な、白を基調とした現代的キッチンの様子も見えてきます。
山小屋の奥に寒さの溜りをり
客が少ないのか、みんな食堂に出てきていて奥がひっそりしているのか。北国や山国では、寒さは「溜まり」ます。標高の高い場所での寒さの実感。
どら焼きを分け合ふ夫婦梅の花
梅はまだ寒い頃に咲きます。だからこその梅の暖かさに、私達は心を惹かれるのですね。どら焼きを分け合うのは、きっと老夫婦なのでしょう。
古雛の眉優しかり雨の寺
雨降りの寺の、本堂の薄暗さが見えます。
読み了えて、巻頭句で受けた衝撃と興奮が少しおさまってまいりました。
そこで、ちょいと考えてみました。
らふそくと苺とひとつ誕生日
「と」にしてみてはどうだろう。
簡素で淡い味わいの、別の句になるかもしれないと思ったのですが、やはりここは、「も」でなくてはなりませんでした。そうでないと、「あの日産んだこの児が、もう一歳になったのだ」という喜びが伝わらないからです。年に数度は出会えない「秒殺句」は、どの角度から眺めても、全くいじりようがありませんでした。
らふそくも苺も一つ誕生日
名句です。心からそう思います。